ー亀裂の章10- 追加の5条
年が明けて、1570年2月、何事もなく日々は過ぎ去ろうとしていたが、二条の城で事件は起きる。
「御父・信長殿、今日は如何様なことで、まろのところへ諸将を引き連れてやってきたのでおじゃる?」
「はははっ、そんな大した用事ではないのですが、将軍さまに判をいただきたい書状がありまして、一同そろって参じたまでですよ」
そのわりには、織田家の諸将たちの顔が険しい。はて、何かあったのじゃろうかと将軍・足利義昭は思う。
信長は、義昭が座る席の机に、そっと判をおしてほしい書状を差し出す。それを義昭が確認すると、ぎょっと目を剥くことになる。
「昨年、認めてもらいました、殿中御掟に追加の5条を付け加えさせてもらいました。ご確認の上、判を押してくださいますかね?」
その追加の5条の内容とは
1:将軍が諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事
2:将軍の御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上、御思案なされ、信長と相定められるべき事
3:公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候といえども、将軍に領中等、之なきに於ては、信長の分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事
4:天下の儀、何様にも信長に任、置かるるの上は、信長は誰々によらず、上意を得るに及ばず、信長の分別次第に成敗をなすべきの事
5:天下御静謐の条、将軍は禁中の儀、毎時、御油断あるべからざるの事
「御父・信長殿、どういうことでおじゃる!今まで、まろが出した大名への書状をすべて破棄しろとは如何様なことでおじゃる」
義昭は怒気を込め、信長に言う。
「いえ、ですから、将軍さまがワシに無断で出した、各国の大名への書状を全部、なかったことにしてほしいんですよ。ほら、ワシが目を通してないのに、将軍さまが書状を出したとして、その内容に問題があったら困るじゃないですか」
「まろが考えたことをなぜ、御父・信長殿を通さねばならぬのでおじゃる。そこがそもそもおかしいのでおじゃる!」
「いえ、おかしくはないですよ。大名同士の書状にはルールと言うものがあります。将軍さまはその辺がわかっていないのですよ。ですから、ワシが精査をさせていただきたいという話なのですよ」
そんな大名ルールがあるのかと義昭は思う。もしかしたら、自分は自分であずかり知らぬことがあるのかと思い、矛を一旦、収めることにする。
「わかったのでおじゃる。では、第3条についてでおじゃる。まろは元々、家臣に与える土地を持っていないのは承知しているのでおじゃる。今更、何を条文化しておるのでおじゃる?」
「昨年も言いましたけど、将軍さま。未だに古いカビの生えた証文を持ち出して、織田家の家臣たちから、領地を奪おうとする、将軍さまの家臣があとを絶たないのですよ。これは一体、どういうことかと、こちらのほうが聞きたいのですが?」
義昭は、昨年、殿中御掟9箇条に判を押した際、信長から織田家の領地に手を出すなと釘を刺されていたのだ。だが、それを無視し、証文の偽造を行い、自分の家臣に土地を与えようとしてきた経緯がある。
「そ、それはじゃな。やはり、証文は大事じゃと思うのでおじゃる。家臣たちが昔、所持していた土地を返してほしいと言うのは最もな言い分だと思うのでおじゃる」
消え入りそうな声で反論する義昭に対して、信長は一喝する。
「それをしたらいけないと何度、言えばわかってもらえるんでしょうかね?もし、将軍さまが自分の土地を、誰かが証文を持って来たら、返すのですか?いいえ、そんなことしないでしょう?」
義昭は、ぐぬぬと唸る。
「将軍さまが自ら治める土地がないのは知っています。ですので、ワシが代わりに将軍さまの功ある家臣に褒美として土地を与えますので、将軍さまは何もしないでください。トラブルの元なんですからね、将軍さまのやっていることは」
信長は義昭にきっぱりと言い放つ。
「土地のことはわかったのじゃ。御父・信長殿に頼ることにするのでおじゃる。しかしだ、第4条は、どういったつもりなのでおじゃるか!」
「え?今まで通り、ワシが将軍さまの名の下に、政務を行うと書いてあるだけではないですか。何か不都合があると言うのですか?」
「いや、それはそうでおじゃるが、御父・信長殿が、まろの裁可を得ずに政務を行っていいと書いてあるのでおじゃる。これは、おかしいと思わないのかでおじゃる?」
「いや、将軍さまこそ、何を言っているのですか。昨年の宴の席で、将軍さまが、【信長殿がおれば、まろは何もしなくてよく、大変、助かっておるのでおじゃる。これからも、そのように信長殿には頼らせていただくのでおじゃる】と言っていたじゃないですか」
「たしかに言ったは言ったのでおじゃる。しかしでおじゃる。まろの認可を得ずに何事もやっていいとは言ってないのでおじゃる」
信長は義昭の言に対して、ふむと息をつく。
「将軍さまの認可をわざわざ頂いていては、こちらとしても、政務に滞りが起きて、面倒なんですよね。将軍さまの認可をいただこうが、いただけないであろうが、やることには変わりはないのですよ。それに結局、いつも、最終的には判を押してもらっているじゃないですか」
「それはそうでおじゃるが、まろは将軍でおじゃるよ?その家臣が何かをするのであれば、目を通し、判を押すのが当たり前だと思うのでおじゃる」
「別に判を押すなと言っているのでは、ありませんよ。将軍さまに判をいただくのが、後か先かというだけの話です。政策には、すぐに実行しなければならないことが多いのです。ここで、わしと将軍さまが言い争っている間にも、民たちは飢え苦しんでいるのです。それを早急に救うには、将軍さまの認可をいちいちもらっている暇など、ないのですよ」
信長の言うことは最もなことだと、義昭は思ってしまう。確かに、自分が信長の政策に関して、ごねてしまえば、困るのはひのもとの国に住む、民たちである。
「わかったのでおじゃる。あとからでもいいから、まろに話を通すのでおじゃる。民たちの安寧、まろも考えているのでおじゃる」
渋々であるが、義昭は、信長の言い分を認めることにする。しかしだ、これでは、まろは別にいてもいなくてもいいのではないのでおじゃるかとさえ、思ってしまうのである。
そう思っている義昭に対して、信長はさらに告げる。
「それとですね、将軍さま。いささか、朝廷や帝に対して、不遜な態度を取っていませんかね?禁中より、苦情が来ています。将軍さまが朝廷や帝に対しての仕事をおろそかにされるのは、困るんですよ」
「何故、まろがあいつらのために頭を下げねばならぬのでおじゃるか!あの者たちは、国の寄生虫なのでおじゃる。喰わせてもらっているだけでも、ありがたいと思うのでおじゃる」
義昭の言に、信長は、ふうと長いため息をつく。
「将軍さまは一体、だれのおかげで将軍に就けたと思っているのですか?」
「そ、それは信長殿のおかげでおじゃる」
「そうではありませんよ。ワシは後押しをしただけで、実際に義昭さまを将軍に決めたのは帝並びに朝廷の貴族たちなのです。その大恩ある彼らに対して、不遜な態度を取るのは、どういうことかと言いたいのです」
「確かに帝は、この国の最高権力者かもしれないでおじゃるが、実際に政治を行っているのは、まろたち武士であるのでおじゃる。仕事をせぬものに何故、頭を下げなければならないのでおじゃる!」
信長は、またもや、ふうと長いため息をつく。
「その最高権力者である帝を、武士の頂点である、将軍さまが敬うことをしなければ、だれが、帝の権威を保障するというのですか。将軍さまが帝を敬うことをしないのなら、その帝から頂いた、将軍の地位も地に堕ちるに決まっているじゃないですか」
義昭は、くっと口から漏らす。
「将軍が将軍という地位を保障するのは、帝や朝廷があってこそなのです。将軍さまは武士たちの主人であることは、間違っていません。ですが、帝は将軍含め、武士、町民、農民すべての主人なのです。どちらがより偉いかは自明でしょう?」
義昭は渋面となる。帝を袖にするための地位である、将軍という役職でありながら、帝の臣に過ぎぬという、信長の指摘に、反論する術を持ち合わせてないためだ。
「わ、わかったのでおじゃる。不承ぶしょうではあるが、帝に、朝廷の行事については、しっかりと励ませてもらうのでおじゃる」
「不承ぶしょうじゃいけませんよ。将軍さまにしかできない、唯一の仕事なのです。渋面で務まれては、将軍さまに仕えている皆が困りますよ。笑顔でお願いします」
信長がにっこりと笑い、さあさあと義昭に促す。義昭は、ひきつった顔で、無理やり笑顔を作るのであった。
「さて、追加の5条の中身も説明が終わりましたので、前と同じように、将軍さまの判をいただけますか?」
「しかし、これに判を押してしまえば、まろは、まろは」
義昭は、わなわなと震えている。信長は、ふむと息をつき
「将軍さま。正月の合婚で知り合った女性は、お気に召しましたか?噂では、ぼん、きゅっ、ぼーんの器量良しと聞いておりますよ?」
義昭は、信長にそう言われ、ぎょっとした顔になる。
「な、何を言い出しているのでおじゃるか!ま、まさか、お竹ちゃんに何かするつもりでおじゃるか」
「お竹さんと言うのですか。それは良い名でございますね」
「お竹ちゃんに手を出すと言うのであれば、御父・信長殿と言えども、許さないでおじゃるよ!」
「落ち着いてください。義昭さま。そのお竹さんと、仲が良いことは、ワシとしても嬉しい限りですよ。この際ですから、この信長にすべて任せ、そのお竹さんと子をなしていただけませんか?将軍さまには跡継ぎが必要ですからね」
信長は、心底、優しい声で言う。義昭は思う。ここで判を押さねば、お竹ちゃんとの仲が引き裂かれるのではないかという不安に押しつぶされそうになる。
「さあ、判を押してください?将軍さま。あとは全て、この信長にお任せください」




