ー亀裂の章 8- 足軽 対 騎馬
「ならば、足軽隊が1万もあれば、最強とうたわれる武田の騎馬軍団にも勝てるのでおじゃるか?」
しかし、その言葉を聞き、利三の顔が曇る。ん?と氏真はその彼の顔を見て、どうしたのでおじゃるかと思ってしまう。
「織田家は集団戦法で、個々の戦法に打ち勝つための訓練は行っているのでござる。しかしだ。それでも個の騎馬兵1に対して、足軽10人で対処しなければならないと言ったでござるな?」
「確かに、利三さまはそう言ったのでおじゃる。足軽と言えども、数と隊列によって相手を圧倒する戦術でおじゃる」
「武田の騎馬軍団は、個の集まりではないのでござる。武田家は騎馬軍団を言葉そのままに、軍団として鍛え上げているのでござる。足軽の集団戦法が強いと言うのであれば、純粋な騎馬兵による集団戦法はどれほどのものか想像がつかないでござる」
利三が苦虫をつぶしたような渋面となる。氏真はおそるおそる、利三に尋ねる
「武田の騎馬軍団と言うものは、それほどに恐ろしいのでおじゃるか?」
「ああ、恐ろしいでござる。もし、武田家が1000もの騎馬軍団をだしてくるというのであれば、それはこちらの3万の足軽軍団に匹敵すると言っても過言ではないかもしれないでござる」
氏真は驚きを隠せない。以前に、武田家と対峙はしてみたものの、最初から野戦を放棄して、籠城戦をしてきたので、実際に武田騎馬軍団の威力をこの目で見たわけではない。
だが、叔父の北条氏康殿までが武田家との野戦を放棄し、小田原城に引きこもったのだ。氏康殿から決して、野戦で決着をつけようとするなと、厳命されていたのは、そういうことであったのでおじゃったかと思う、氏真である。
「仮にもし、武田家が天下取りに名乗りを上げ、織田家に牙をむくようなことになれば、織田家はどうなるのでおじゃるか?織田家ですら、武田家に蹂躙されるままになってしまうのでおじゃるか?」
利三は、ふふっと不敵な笑みを浮かべる。なんでおじゃる?織田家には何か、戦国最強・武田騎馬軍団に対抗できる策があると言うのでおじゃるか?武田家にやられた身としては、それに対抗しうる織田家に期待を寄せてしまう、氏真である。
「ふふっふふっ。武田家なぞ、おそるるに足らないでござる」
「おお、さすがは足利義昭さまを奉戴し、上洛を成し遂げた、織田軍でおじゃる。一体、どのよな策があるのでおじゃるか?」
「城に籠るのでござる」
氏真は、ずこぉぉぉっと、盛大にこける。そして、三間半の槍を杖代わりに、身を起こし
「何も策がないのと一緒でおじゃるよ!」
そう、氏真に利三はつっこみを入れられようが、不敵な笑みを顔に浮かべることを止めない。
「織田軍が他家の軍とは違うことが1つあるでござる。だが、これは決定的な差なのでござる」
「籠城戦が強いと言うことでおじゃるか?確かに、籠城戦に有利な鉄砲を織田家では集めているとは聞いているのでおじゃる。だが、籠城戦では、信玄を討ち取ることはできないのでおじゃるよ?」
「そう言うことではござらぬ。大体、なぜ、お前たちに給金を払っているか、そこのとこがわかっているかの問題でござる」
織田家は給金を兵士に支払っている。そのことと籠城することと何が関係すると言うのでおじゃる?
「わかっていないと言った、顔でござるな。織田家は年中、いつでも戦える、常備軍なのでござる。しかも、4万人の兵士全員なのでござる。それゆえに、お前たち兵士を雇うために金を払っているのでござる」
利三にそこまで言われて、氏真は、はっと言う顔付きになる。
「言われてみれば、普通の大名家が年中いつでも戦えると言うわけでは無かったのでおじゃる。そもそも足軽は農民たちでおじゃる。農繁期には必ず、国に帰って、田畑を耕さなければならないのでおじゃる」
「そう言うことでござる。早ければ2月の終わりから、5月の終わり。そして、秋の始めには収穫のために田畑に縛られ、10月も半ばまで軍を出したくても出せないのでござる」
氏真はそう言ったことをすっかり失念していた。籠城して粘っていれば、武田の最強騎馬軍団と言えども、畑仕事のために撤退しなければならないのである。
「なるほどなのでおじゃる。普通の大名は1年の半分も戦ができないのでおじゃる。もっと区切っていえば、長くても3か月程度しか、連続では戦えなかったのでおじゃる」
「しかしだ。織田家は違うのでござる。相手が畑仕事をしてようが、構わず、相手国に攻め入ることができるのでござる。織田に敵する国は、農繁期に兵を出さざるおえなくなり、田畑からの収入が減り、やがて自滅するのでござる」
氏真は、織田軍を心底、恐ろしいものに見えてしまう。1年中、戦える軍を相手にして、どうやって他国は抗おうと言うのであろうかと。
それこそ、織田家と同じく、1年中、戦える軍を擁する国でなければならない。現時点において、織田家の敵は、織田家内に限られると言うことだ。
「さあ、わかったらきりきりと働けなのでござる。氏真は最初、言った通り、隊列の1番右に行くのでござる」
「そういえば、話を戻して、なんで私は1番右に行かなければならないのでおじゃる?1番右も左も変わらないと思うのでおじゃる」
利三は、ふむと息をつく。そして、おもむろに三間半の槍を自らも手にもち、氏真の左隣に位置する。
「長槍と言う物は、普通、身体の右側に構えるものでござる。槍を構えて隊列を組めば、このとおり。左側の者は右側の相手の左側面を守る形になるでござる」
「言われてみれば、確かにそうなのでおじゃる。がら空きの左側面を左側に立つものがふさいでくれるのでおじゃるな。でも、1番左のものは、それでは危なくなってしまうのでおじゃる」
「だからそこ、隊列の1番左は、隊の中で1番強いものが位置するのでござる。隊列の左方向から攻め崩されれば、隊の崩壊にもつながるでござるからな。それゆえ、氏真は新人ゆえ、1番右に位置してもらうのでござる」
しかしだと利三が言う。
「隊列を斜め前にすることを斜陣と言うのであるが、これは隊列の右側を前にするのでござる。それゆえ、接敵の機会が増えることとなり、1番右側と言えども、危険度は増すのでござる」
氏真は、ごくりと唾を飲みこむ。結局のところ、隊列の1番右であろうが、左であろうが危険度に違いはないと言うことを利三は言っているのだ。
「私に1番右が務まるのでおじゃるかな。隊の先鋒となりうるのでおじゃろうか」
そんな氏真の心配をよそに、がははっと利三は笑う。
「命が危ないと思うなら、さがればいいのでござるよ。よっぽどのことが無い限り、命を散らしてまで戦えと厳命することは、無いのでござるよ」
「そんなことをして良いのでおじゃるか?私がさがれば、皆に迷惑がかかるのではないのかでおじゃる」
「なんのための隊列だと思っているでござるか。氏真がさがれば、隊列の右端は自然と、お前の左に立っているものに成り代わるだけでござる。まあ、左端の者が早々に逃げ出すのは勘弁してほしいところではあるでござる」
信を置かれて、先鋒として右端に配置されたのか、それとも1番、さがりやすい位置だからこそ、新人の自分が配置されたのか、よくわからないのでおじゃる。
「【下級兵士はまず生き残れ】でござる」
唐突な利三の物言いに、なんのことかさっぱりわからぬ顔をする氏真である。
「この言葉は、信長さまが旗揚げしたころから、代々、訓練の隊長たちが兵士たちに贈ってきた言葉でござる。功を焦る気持ちもあろう。命を投げ出さねばならないと感じることもあろう。だが、新人はまず、生き残ることを第1に考えるのでござる」
「しかし、戦場から逃げ出してしまえば、残されたものたちに迷惑がかかってしまうのでおじゃる。それに1度、逃げてしまえば、どの面下げて、皆に顔を合わせればいいのでおじゃる?」
「はははっ。神経の細やかなやつでござるな、氏真は。戦になり、早々と逃げ出しといて、しれっと夕飯には戻ってきて、メシを喰っているような豪胆なのか、臆病なのか、わからないやつもいるのでござるよ」
氏真はその利三の言を聞き、目を白黒させる。
「そんなことを許していては、軍として成り立たないのでおじゃる。罰を与えることはないのでおじゃるか?」
氏真の疑問に対して、利三は頭をぼりぼりと右手でかく。
「氏真よ。お前は金のために命を捨てることができるのでござるか?それに、金のために命を捨てろと、お前が上司になったときに部下の者たちに言えるのでござるか?」
氏真の胸にぐさっと、言葉の矢が突き刺ささる。果たして、彼が大名の頃、散々に農民たちを無給で働かせ、さらには村の家族たちを人質に取り、逆らえないよう、命を捨てさせてきたのである。
あの者たちは金のために働いてきたわけではない。家族の命のために働いてきたのだ。その恨みのほどはいかほどであっただろうか。
だれだって、自分の命が危険にさらされれば、戦場から逃げ出したいに決まっている。だが、それを許してこなかったのは、氏真自身なのである。
「私は、私は言えないのでおじゃる。家族を捨てられずに死んでいった若者たちを大勢、見てきたのでおじゃる。その者たちもきっと、逃げ出したかったのでおじゃる。ましてや、金のために死ねなどとは、口が裂けても言えないのでおじゃる」
氏真は、かつて、仕えてきたものたち、農民たちに心底すまなかったのでおじゃると、心の中で呟く。
ああ、自分はなんと愚かな男であったのでおじゃるか。このまま、織田家の下級兵士と言えども、戦に携わっていっていいのかとさえ思うのであった。




