ー亀裂の章 6- あっち向いてほい
やもりの黒焼きが飛び散った机を手ぬぐいで拭きつつ、氏真が尋ねる。
「将軍さまの結婚相手を合婚とやらで決めてよいものでおじゃるのか?大名と言えども、正室というものは、他家の大名家の娘と相場はきまっているものでおじゃるよ?」
「農民出の俺には、その辺、よくわからんのだぜ。でも、合婚は身分の差、関係なく相手を決めていいってやつだから、庶民が将軍さまの嫁さんになるっていうことだぜ?」
「それがいけないことなのでおじゃる。大名の妾とならば、身分の差など、考慮されぬことはあるかもしれないでおじゃるが、さすがに将軍さまが庶民を嫁にもらうのは、大名たちが許さないのでおじゃるよ!」
「好きになった相手と結婚するのが1番っす。将軍・義昭さまが合婚にて、惚れた相手を見つけられれば、それが1番だと思うっす」
「しかしでおじゃる。清正先輩や、正則先輩には、わかりにくい話かもしれないでおじゃるが、身分の壁と言うものは相当に厄介なのでおじゃる」
「おまえさま?」
早川殿が氏真に言う。
「もし、早川が庶民の出であったら、北条氏康の娘でなかったら、おまえさまは、早川との結婚を断っていたのですか?」
氏真は早川殿の言葉に、ぐうの音もでない。
「氏真の負けなんだぜ!結局、身分身分って言うが、恋沙汰は、身分の壁をつきぬけるんだぜ」
「僕もそう思うっす。いくら政略結婚の類と言えども、好かぬ相手とはいやっすからね。まあ、僕たちみたいな農民出で、さらに3男4男のご身分じゃ、結婚できるだけでもありがたいんっすけど」
氏真は皆の意見を聞き、観念する。
「わかったでおじゃる。まあ、皆に言われてみれば、身分などというものの弊害が見えてくるものでおじゃる。こんなものが無くなっていく世の中になってほしいものでおじゃる」
「皆がそう思えば、世の中は変わっていくのですわ。もし、早川が死んで農民に生まれ変わったとしたら、それでも、おまえさまとは添い遂げたいと思いますわ」
「私も、早川殿と同じ気持ちでおじゃるよ。未来永劫、何度、生まれ変わっても、早川殿と添い遂げたいのでおじゃるよ」
氏真と早川殿は自然と手をつなぎ、見つめ合う。
「ひゅーひゅー!お熱いことなんだぜ」
「これは今夜もずっ魂ばっ魂っすね」
清正と正則が口笛を吹き、2人をはやし立てる。
「おい、そこのお前ら。いちゃつくのは結構だが、朝飯をしっかり食べぬか!」
「おっ、やっべ。光秀さまの家臣の斉藤利三さまだぜ。光秀さまと違って、言動も厳しいひとだから、注意が必要なんだぜ」
「隊長の名前は、利三と言う名でおじゃったのか。そう言えば、名を知らなかったのでおじゃる」
氏真が抜けたことを言う。
「氏真。俺らのことを言われているっす。さっさと喰えっす。あのひとが担当のときの訓練は地獄を見るっす」
「他にも指導してくれる隊長殿がいるのでおじゃるか?」
「ここの班は、明智光秀さまの従兄弟の明智秀満さまと利三さまの持ち回りっす。どちらも光秀さまの軍を支える重臣たちだから、気をつけたほうがいいっす」
ふうむと息をつく、氏真である。
今川家の大名をしていた時は、兵士の訓練など、農閑期の時に他国への分捕りや人捕りを兼ねての実地訓練ばかりであり、織田家のように毎日、専任的に訓練をするということはなかった。
さすがに大名や武将たちの子飼いになれば、常時、馬の訓練などを欠かさずやっていたものだが、下級兵士となれば、槍を持つ時間より圧倒的に鍬を持っている時間のほうが長いのである。
三河の兵に遠江の兵があっさり負けたのは、三河の兵がもともと強いところを、さらに毎日のように訓練してきたことが要因のひとつであると、氏真は考える。
この時代、最強に近いであろう、武田騎馬軍団を擁する武田家相手に今川家が粘れたのは、元々、野戦を放棄し、徹底的な籠城戦であったからである。
籠城戦においては、騎馬の強さなど意味を為さない。しかも足軽自体の練度は、武田家も今川家も同じ程度と言って過言ではない。足軽の装備の質も似通ったものである。
そもそもにおいて、昨年の夏あたり。調度、足利義昭さまが将軍になられてから、火薬を積んだ船がぴたりと駿河の港にくることが無くなったのだ。
鉄砲は籠城戦においては重宝する。雨が降ってようが、城内から鉄砲を使えば、使用不可能になると言う心配自体がなくなるからだ。
今川家でも、鉄砲は50丁ほど所持はしていたのだ。だが、肝心の火薬が駿府の港へ流れてこない。これでは使いようがなかったのだ。
備蓄の火薬を使って、なんとか武田家の猛攻をしのいでいたのだが、結局は火薬切れとなり、駿府の城の防衛力は著しく低下したのであった。もし、鉄砲が倍の100丁、いや、火薬が駿府に入荷できれば、冬を越すくらい持ちこたえていられたのかもしれない。
しかし、無いものは無かったのである。
今となっては昔の話だ。思い出して悩むのも嫌だと思い、過ぎ去りし過去を頭を左右に振ることにより忘れることとする。
氏真は腹いっぱいにメシをかきこみ、さらにはなめこ汁をぶっかけて、胃に流し込むことにする。喰った喰った。あれほどの量、食べきれるものではないと思ったが、人間の可能性というものは素晴らしいのでおじゃると思う、氏真である。
「さて、喰い終わったし、少し、食後の運動でもするんだぜ。正則、いつものアレをしようぜ」
「お、アレをするっすか。今日こそ負けないっすよ」
清正と正則は席を立ち、おもむろに中腰に構え、互いに右手の拳を握る。そして、その握りこぶしを腰の右側に持っていき、はあああ!と声を上げる。
氏真が一体、何をはじめるのでおじゃるかと不思議な顔をしていると、清正と正則は声を張り上げ
「じゃんけんぽいだぜ!あっち向いて、ほいっだぜ」
清正がグーを出し、正則がチョキを出す。清正は右手を正則の顔の目の前に持っていき、握りこぶしから人差し指を一本立て、あっち向いてほいという声と同時に人差し指を天にむける。
それと同時に、正則は顔を下に向ける。正則は顔を元のいちに戻し、ニヤリという顔付きをする。対して、清正は、ちっと舌打ちし
「じゃんけんぽいっす!あっち向いて、ほいっす」
今度は、清正がパー、正則がチョキだ。くっと短く、清正が唸り、正則がふっと笑う。そして、正則は、人差し指を左に向けると、清正も同じ方向に顔を向けた。
「やったっす!僕の勝ちっす」
「ちっくしょおおおお!まさか、こんなにあっさり負けちまうとは思わなかったんだぜ」
氏真は清正と正則の一連の動きを見て、じゃんけんで勝ったほうが、上下左右に指を振り、負けた方は、これまた上下左右に顔を向ける。
指と顔の向きが同じならば、勝負が決まるということなのでおじゃるな。うんうんと頷く氏真である。
「おっし、清正。でこぴんと、しっぺと、牛の乳のおごり。どれがいいっすか?」
「うーん。牛の乳は完全敗北だから、無しとして、でこぴんでお願いするぜ」
「後悔するなっすよ。じゃあ、でこぴん、いくっす」
そういうと、正則は清正の額に、右手を開いた状態で持っていき、中指の先端を親指でひっかけるようにし、思いっきりその中指に力を込める。
そして、ひっかけていた親指を少し動かし、力を込められた中指は、戒めを解放され、弧を描くように清正の額にぶち当たる。
ぱーーーん!と乾いた音がする。
「ふはははっ!正則、お前のでこぴんなんぞ、効かな、ううう、いってええええ」
威勢を張ろうとした清正であったが、額を両手で抑え、地面にもんどり返り、ごろごろとその場で左右に身を揺らしている。
「とてつもなく痛そうなのでおじゃる。食後の運動にしては、きつすぎる処遇ではないかでおじゃる」
「これくらいが僕らには調度良いっす。勝負ごとで負けて、命があるだけもうけものっす」
「清正殿の痛がりようだと、私が喰らえば昇天しそうでおじゃる」
未だに、地面でごろごろと左右に身を振る、清正を見て、ぞっとしてしまう氏真である。
「氏真も僕とひと勝負といくっすか?ハンデで、僕は最初の3回、グーをだしてやるっす」
「ええ?私もやらなければいけないのでおじゃるか?ううん。しかし、ハンデを3回もくれると言うのであれば、勝機はこちらにあるでおじゃるし」
「おまえさま。やってみてはいかがですわ。清正さんや、正則さんとの友好を深めるためにもですわ」
早川殿に促され、ううんと唸っていた氏真であったが、意を決し
「よし、正則先輩。ひと勝負お願いするのでおじゃる」
「おっ、やる気になったっすね。じゃあ、俺は最初の3回はグーを出すっす」
氏真と正則の勝負が始まる。本当に正則は言った通り、3回ともグーを出す。それに合わせて、氏真はパーで応酬するが、そのあとがいけない。
「あっち向いて、ほいでおじゃる!」
3回とも、氏真は正則の顔の向きとは違う方向に指さしてしまい、せっかくの勝機を逃がしてしまったのだ。
焦る氏真を前にし、正則は、ふふふっと思わず笑い声をもらしてしまう。
「じゃんけんぽいっす、あっち向いて、ほいっす!」
動揺を隠しきれなかったのか、氏真は何も考えずに顔を下に向けてしまう。そして、おそるおそる、目を上目づかいに正則の指を見ると、彼のそれは下を向いていた。