ー亀裂の章 3- 氏真(うじざね) やり直す
「一体、全体、なんでこんなことになってしまったのおじゃる」
12月の寒空の早朝、今川氏真は20キログラムはあるであろう、米俵を抱え、ある行軍に従事していた。
「おい、新入り!へばってんじゃねえぞ。訓練はまだまだ続くんだからな」
「ひい、ひい。お給金が良いからとチラシに書いてあったから、応募してみたものの、まさか一言返事で採用されて、次の日には訓練開始とは思っていなかったのでおじゃる」
氏真は体中から吹きだす汗に全身を濡らしながら、ほとほとにまいったと言う顔付きである。
ここは、堺の町はずれ。織田軍が新兵たちを調練していたのである。
氏真は家康の計らいにより、先月の11月には、堺に家族とともに移住してきたものの、ただ、家康殿の世話になるだけでは悪いと思い、自らも働いて、日銭を稼ごうとしていたのだった。
しかしながら、商売をしようにも、そのようなことをした経験もない氏真にとっては敷居が高く、ここ堺は商人たちが日々、つばぜり合いを繰り広げているような場所だ。
そんな土地で、ど素人の氏真が商売を始めれば、ライバル店に1週間も経たずに潰されるのがオチである。
では、大工仕事はどうだと言うことで、やっては見たものの、こちらも長続きがしない。そもそも、とんかちとのこぎりの違いすらわからないレベルである。
「お前!とんかちを頼んだら、のこぎりを持ってくるなんて、とち狂ってんのか?どこのボンボンの生まれだよ。役立たずは帰れ」
大工の親方に毎日、叱られてばかりの日々である。それでも家族のためと必死に頑張るものの、慣れない作業で材木を運んでいる際、足をすべらせ、その材木の下敷きになる。
「おおい、大変だ!とっちゃん坊やが材木の下敷きになったぞ。だれか手を貸してくれ」
薄れ行く意識の中、自分の情けなさに涙が出そうになる、氏真である。
気がつけば、住んでいる長屋に運びこまれていて、額には濡れた手ぬぐいが置かれていた。
「わたしはどうしたのでおじゃる?確か、大工仕事をしていたはずなのでおじゃる」
身体のあちこちがずきずきと痛む。ふと、脇を見れば、早川殿が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる。
「あなたさま。無理はしてはいけないと、あれほど言っているではないですか。あなたさまは大工仕事中に材木に押しつぶされたと聞いております。その話を聞いたとき、私は一瞬、目の前が真っ暗になってしましましたのよ」
そうか、また失敗してしまったのでおじゃるか。殿さま暮らしにうつつを抜かし、庶民たちの仕事のひとつも満足にこなせない自分がとてつもなく情けなくなってしまう。
政治はできるが、そもそもとして、それが商売のセンスに直結するかと言われれば、応えはノーだ。力さえあればだれでもできそうな大工の仕事につけば、自分の無知さ加減に思い知らされる。
氏真はほとほと、自分に嫌気がさして、涙がこぼれ落ちそうになる。
「泣かないでくださいまし。あなたさまは頑張っているのです。家族のだれが、あなたさまを責めましょうか。家康殿からはお金は仕送りされているのです。つつましく暮らしていく分には充分なのですよ」
「そういう問題なのではないでおじゃる。男がおぎゃあと産まれおちた以上。自分の手で家族を養うのは当たり前のことなのでおじゃる。男としての誇りを失ってまで、生きながらえたいとは思わないのでおじゃる」
早川殿は、やれやれと言った表情だ。だがしかし、ぼんぼんと思っていたこの方も、1人の男なのですねと思う。そう言うことであれば、女であり、その男の妻である、私が支えねば、どうすると言うのか。
「わかりました。あなたさま。今日、町で買い物をしていたら、こんなチラシを見つけたのですわ」
早川殿はそう言うと、1枚のチラシを夫の氏真に渡す。氏真はそのチラシに目を通すと
・来たれ老若男女!織田家ではいつでも兵をそれを支える女性を募集している。まもれ未来のひのもとの国!
・朝、昼の飯付き。給与は月2貫(=20万円)。幹部こーすもあるぞ!
・実例:農民出の下級兵士が2000人を率いる城代へ!
・合婚で有利になります。兵士たちのかっぷる成立率は実に8割越え!
・堺近郊にて住処完備。物価も安くて住みやすい!
・入隊希望者は、織田家・京在住、人事担当:明智光秀まで。お手紙、直接でも構いません!
「なんと、織田家への下級兵士募集のちらしでおじゃるか。わたしにもう1度、戦人に戻れと言うのでおじゃるか、早川殿は」
「あなたさまは立派な大名だったではないですか。その軍事の才能を寝かしたまま、無為に人生を生きると言うのならば、いっそ、いちから織田家でやり直してみてはいかがでしょうかと思ったのですわ」
氏真は、ふうむと言い、右手であごをさする。今までやったこともないような大工の仕事をするよりかは、昔とった杵柄、戦に関わる仕事をしたほうが、幾分かはマシなのかもしれない。
「それに女性の方も応募されているようですし、早川もご一緒させていただきますわ。そうすれば、氏真さまにも喝がはいって良いかと思うのですわ」
氏真は、ぎょっとして目を剥く。
「ならぬならぬでおじゃる。こういう、軍隊において女性を募集するということは、兵士たちの慰めものになれと言うことでおじゃる。いくら給金が良いと言っても、早川殿がほかの男といちゃいちゃするのは、我慢ならぬのでおじゃる」
早川殿は、まあ!と言い、その後、おかしそうにくすくすと笑う。
「大丈夫ですよ。ほら、チラシをしっかり見てくださいですわ。女性は朝、昼の炊き出しや、兵士たちの衣服の洗濯ですわ」
氏真はチラシを再び見、しっかりそう書いてあることに、ほっとする。女性は月1貫(=10万円)であり、午前で終わる仕事としては、充分な手取りである。
しかし、氏真は、ううんと唸る。
「ぼんぼんの私が言うのもアレでおじゃるが、早川殿は、炊事、洗濯をしたことがあるのでおじゃるか?」
「まあ!侮らないでほしいのですわ。こう見えましても、父・氏康に、女としてのたしなみを叩きこまれているのですわ。それに駿府の城にいたころから、こっそり、私も炊事に参加させていただいてましてよ?」
「なんと、誠でおじゃるか。私は気付かなかったのでおじゃる。いつものご飯は、どこぞのメシ屋から買ってきたものばかりだと思っていたのでおじゃる」
「失礼なひとですね。買ってきたものをお膳に並べているとばかり思っていたのですか?あなたさまがそんなことを言うのであれば、これから作ってさしあげないのですわ」
機嫌を損ねた早川殿は、ぷいっと横に顔をそむける。その姿を見、氏真は、おろおろとしだす。
「言い過ぎたのでおじゃる。私は果報者でおじゃる。毎日、うまいうまいと食べておるのでおじゃる。頼むから機嫌を直してほしいのでおじゃる」
氏真は頭を畳の床にこすりつけるように下げる。早川殿は、その夫の姿を見て、くすくすと笑い始める。
「あなたさま。冗談でございますよ。顔をあげくださいな、子供たちが見ていますわよ?」
子供たちが、面白そうな顔で自分たちを見ている。とーちゃん、なさけなーいと一番下の娘に言われる始末である。
氏真は、うっほんと咳払いをし、下げていた頭を上げる。
「早川殿には苦労をかけて、すまないのでおじゃるよ。私だけの給料で暮らせていけるなら、何の問題もなかったというのにでおじゃる」
「そんなことを言わないでくださいましですわ。夫婦と言うものは、2人で苦労を分かち合い、子供たちを育てていくものですわ。ですから、早川も、お供させていただきますわ」
それにと、早川殿は言う。
「早川は、子供がもうひとり、欲しいのですわ。そうなれば、必然的に出費は、かさみます。がんばってくださいまし、あなた」
「昼間だけでもなく、夜もがんばらなくてはいけないのでおじゃるな。ふう、こうなれば、織田家の下級兵士でいちからやり直していくのでおじゃるよ」
氏康は覚悟を決める。妻と子供たちを守っていくことに矜持を覚える。そして、人事部・明智光秀宛に兵士参加への意思を綴った手紙を送るのであった。
「おらああ!あと1キロメートルだ。喜べ。これが終われば、お待ちかねの朝飯の時間だ。最後の力を絞り出せ」
早朝の行軍を最後列で見守る兵士が、竹刀をぶんぶん振り回しながら、氏真の尻めがけて、ほわたたたた!と連打する。尻を叩かれるたびに、氏真は、ひぃ!と声を上げる。
「まさか、駿河、遠江、三河を治めていた、大大名・今川義元の嫡男が、このような仕打ちを受ける人生を歩むとは思わなかったのでおじゃる」
「無駄口、叩いてる余裕があるなら、速度をあげやがれ。ほおら、褒美のケツ罰刀だ!」
氏真は、もう一発、尻に竹刀のご褒美をもらう。
「ご褒美、ありがとうでおじゃる!でも、それ以上、叩かれたら、尻の穴が緩んでしまうのでおじゃる」
氏真は数々のご褒美をいただいた結果、1週間、屁がとまらない症状に悩まされることとなる。
「よおし、早朝の行軍は無事、終了だ。さあ、続く訓練のためにも、喰え。残さず喰え!」
訓練の隊長である兵士が皆に指示を飛ばす。新兵たちは、待ってましたとばかりに炊事が行わている広場に殺到していく。氏真は、疲れ果て、動く気力すら残っていない。
「お前、そんなところで倒れていて、どうする気だ。喰わねば、この後の訓練についてこれると思っているのか!」
隊長が、怒鳴り声を氏真に浴びせかける。
「私は、もう動けないのでおじゃる。それに、こんなに動いたあとに、メシなど喰えるわけがないのでおじゃる」
情けない奴だ!と隊長は一喝する。
「お前は、何のために兵士になったのであるか!それでも、輝かしき織田家の一兵士であるつもりか」
「きゅ、給金につられて、やってきただけなのでおじゃる。何か志を持って、入ったわけではないのでおじゃる」
「ばっかもーーーーん!お前が光秀さまに送った手紙は読ませてもらっているぞ。何やら、家族を養うためと、これから増えるであろう、赤子のためにも頑張ると綴ってあったではないか」