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ー亀裂の章 1- 今川家滅亡

 1569年10月。ついに武田信玄は、北条氏康ほうじょううじやすを追い詰め、小田原城に押し込み、それを包囲する。その報は駿河の今川義元にも伝えられ、彼はここに至って、今川家の存続を諦めることになる。


「無念なのでおじゃる。鎌倉時代から続いた名門・今川家もここまででおじゃる。皆の者、よくぞ戦ってくれたのでおじゃる。城から好きなものを持って、逃げるがよいのでおじゃる」


氏真うじざねさまは、いかがされるおつもりですか?」


「わたしはここで、死を待つのでおじゃる。なあに逃げる先もないのでおじゃる。それならいっそ、城とともに朽ちるのでおじゃる」


「いけませぬ!氏真うじざね殿は生きて、今川の血を後世に残さねばなりませぬ。それに、奥方の早川殿をどうされるつもりなのでござるか。女が1人、生きていくにはつらすぎる世でござるぞ」


 氏真うじざねは、ううんと唸る。だが、力なくうなだれて、肩を落とす。


「その方に任せるのでおじゃる。早川殿を生かしてほしいのでおじゃる」


 突然、氏真うじざねは、ばちーんと頬を叩かれる。何事かと思えば、目の前の家臣が自分の頬を平手で打ったのだ。


「何を女々しいことを言っているのでござるか!生きなされ。生きて、早川殿と添い遂げるのでござる」


「しかし、わたしには、行く場所がないでおじゃる。どこに行けとと言うのでおじゃる」


「秘密理に、家康殿と話をつけているのでござる。あと、船の準備もしてあるでござる。その船で三河へと落ち延びるのでござる」


「家康殿のところでおじゃるか。その方、いつの間に、そんな話を進めておったのじゃ!」


 氏真うじざねが驚くの無理は無い。敵である、家康に話をつけてあるのだ。この男、何者なのか。


「その方、名はなんでおじゃったかの。父上の代から仕えてもらっておるが失念してすまぬのでおじゃる」


「ただの信虎でござる。苗字は捨てたでござる」


「信虎でおじゃるか。生まれはどこでおじゃる?そのほうにも家族がいるでおじゃろう。一緒に逃げぬのかでおじゃる」


「家族には捨てられた身でござる。いまさら守るものもないのでござる。さあ、逃げる準備をいたしてくだされ」


 信虎はそう言うと、数日分の食料と着替えの服を運んできて、風呂敷に包みだす。


「わたしには、このような忠臣がいたのでおじゃるな。気がつかなくて、本当にすまないと思うのでおじゃる」


 氏真うじざねは本当に申し訳のない顔をする。


「そのようなことは今はどうでもいいのでござる。さあ、早川殿をつれてくるのでござる。城の裏手より逃げてくだされ」


「そちは、一緒に来てくれぬのか?そちが居てくれれば、安心なのでおじゃる」


「誰かが城に残らねば、氏真うじざねさまが逃げれぬようになるでござる。さあ、早くするでござる」


 促されるように氏真うじざねは、奥方の早川殿を呼びに行く。早川殿は北条氏康ほうじょううじやすの娘であり、死なせるわけにはいかない。


 本来なら、実家である北条家に返すのが道理なのかも知れないが、今は武田信玄により、小田原城は包囲されており、もし、ひとりで行かせようものなら、信玄のやつに捕まる可能性だってある。


 そうなれば、北条家にとっては最悪の事態だ。早川殿を人質に取られれば、信玄が北条家に対して何を要求するかはわかったものではない。


 まあ、それよりも、氏真うじざねは誠に早川殿のことを好いている。生き別れになるのは惜しいと思う心が大きい。それなら、いっそ、敵国である、徳川家に一緒に行く方が心情としては正しい気がする。


「早川殿を連れてきたのでおじゃる。息子や娘たちも逃げる準備は整っておるのでおじゃる」


 氏真うじざねは早川殿と息子1人と、幼き娘2人をつれてくる。信虎はその姿を確認すると、風呂敷を氏真うじざねとその息子に渡す。


「さあ、行ってくだされ。あとのことは任せてくれでござる。あと、船頭にこの金を渡せば、間違いなく、三河まで逃げることが可能となるでござる」


 信虎は、早川殿に銭が入った袋を手渡す。


「あなたにはお世話になりました。夫にかわり、お礼を申し上げます」


 早川殿は信虎に頭を深々と下げる。


「では、行くのでおじゃる。信虎殿。この恩は一生、忘れないのでおじゃる」


 氏真うじざねは奥方や子供たちを連れ、城の裏手より、城を抜け出し、波止場へと向かうのであった。


 城に残された信虎と兵士たちは、不退転の覚悟を決める。無事、氏真うじざねが三河行きの船に乗るまで、時間を稼がなかければならない。


 だが、この死地において、信虎は高々と笑いだす。


「はーはっはっは。信玄め。今頃は駿府が手に入ると思い、ほくそ笑んでいる頃だろう。だが、貴様との因縁、ここで晴らしてくれようではないか!」


 何を隠そう、この信虎と言う男。実は信玄の父親である。


 信虎は甲斐武田の前大名であった。しかし、息子の信玄が父親の悪評を流し、家臣団からの信頼を失わされたのである。そして、ついには大名の座から追われ、甲斐の地から追放の憂き目にあったのである。


 そのことに心痛めた今川義元が、信虎を保護し、それ以来、今川家で禄をむことになったのである。


「武田の兵、一人でも多く、道連れにせよ!今川義元殿から受けた恩義、ここで返さず、どこで返す」


 信虎は残った兵を鼓舞する。その鼓舞に呼応するように、残された兵士たちは、うおおおと声を上げる。


 今川家の主だった将はすでに城から逃げ出していた。だが、今まだ残る100数名の兵士と信虎だけは違った。まさに死力を尽くし、城を包囲する武田の兵に噛みついたのである。


「ふはーはっはっは。忠臣と名高き、義元さまの懐刀(ふところがたな)、岡部も武田に降ったか。いよいよ持って、終わりは近づいているでござるな!」


 城のあちこちに火がつけられた。もうもうと煙が立ち上る城内で、門を破り、侵入してくる武田の雑兵を信虎はなで斬りしていく。


「お前たちに義元さまの嫡男、氏真(うじざね)殿の首級(くび)をやる気はないでござるぞ。さあ、かかってこい!」


 信虎は、城に残った備蓄の酒をかっくらい、乾いた喉を潤す。末期の水だとばかりに、兵たちにもそれを飲ませる。


「さあ、ここからは修羅道よ!酒を敵の返り血で真っ赤に染めてやれ」


 100数名の兵士たちは、各々、弓、槍、石を持ち、次々と城内に侵入してくる武田の兵士を返り討ちにしていく。


 だが、所詮、100数名。次第に矢つき、槍は折れ、傷つき倒れていく。


 城についた火はいよいよ、猛火となっていく。城全体が真っ赤な色に染め上がっていくのである。


 武田の将がひとり、門から入ってくる。その男は悠然とした、たたずまいでのっそのっそと歩いて行くのであった。その姿を信虎は見、なつかしさを覚えるのであった。


「おう。馬場信春ばばのぶはるではないか。いまでも信玄のやつに尻尾を振っているのでござるか?」


「ふっ。大殿は相変わらずの減らず口ですな。まあ、その口もすぐに動かなくしてあげますがな」


 馬場信春ばばのぶはるは、腰に結わえた刀を鞘からすらりと抜き出す。その刀は燃え盛る炎に照らされ、ぎらぎらと紅く色づくのであった。


「雑兵に斬られるは、不名誉だと思い、直々に斬り伏せてやりましょうぞ」


 信虎は、ふっと笑う。


「できれば、信玄のやつと一騎打ちと行きたかったでござるが、まあ、武田四天王のひとり、馬場信春ばばのぶはるを道連れにできるだけ、ましでござるかな」


 信虎はそう言うと、その辺に落ちていた、武田の兵士の槍を拾う。そして、両手でそれを握り、槍を上段構えで馬場信春ばばのぶはると対峙する。


 2人は、距離を開けつつ、じりじりと相手の隙をうかがうように、右へ右へと立ち位置をずらしていく。武田四天王の1人、馬場といえども、信虎の実力は侮りがたしであり、容易には近づけないのであった。


 睨み合いを続ける2人であったが、その間にも焼け落ちていく城が悲鳴を上げ、城壁の一部が崩れ落ちる。


 あろうことか、その崩れた城壁の一部が、2人の真上から降り注ぐのであった。石、材木が地面に2人にぶち当たる。信虎は背中に焼ける材木がのしかかり、その熱さに苦悶の表情を浮かべるのであった。


「南無三!」


 その隙を逃さず、馬場が動く。馬場も額に石があたり、血を吹きだしていたが、それに構わず、一気に信虎との距離を詰める。そして、手にもった刀を水平に薙ぎ払う。


「くっ、ぬかったわ!」


 信虎は腹を鎧ごと斬り裂かれる。鎧のおかげで致死を免れたものの、これ以上の戦闘は不可能な傷となる。馬場の刀も鎧の上から無理やり斬り裂いただけあり、刀の刃はぼろぼろになり、それ以上の傷を与えることは出来なさそうであった。


「ふむ。ここまででござるかな。おい、兵士ども。こいつを捕らえろ。信玄さま直々に首級くびをはねてもらうぞ」


 武田の兵士たちは、ははぁっと応え、腹を抑え、うずくまる信虎の身を確保する。


「くっ。無念でござる。守るべき城に裏切られることになろうとは。しかし、これもまた人生でござるか」


「大殿は味方に裏切られてばかりですな。なあに、その人生も近いうちに幕切れですがな。さて、氏真うじざねをどこに隠してでおいでか?」


 馬場は兵士により縄で縛られた信虎を冷めた表情で、質問をする。信虎は痛む腹を無視して、高笑いをする。


「はーはっはっは。残念だったな。氏真うじざね殿ならとっくに逃げてしまわれたでござるよ。ご足労、いたみいるでござる」


 信虎は、してやったりといった顔つきで馬場の顔を睨みつける。


「ちっ。面倒なことをしてくれたものですな、大殿は。そこまでして、武田の邪魔をしたいと言うのでござるか?」


「ぬかせ、馬場め。俺を武田から追放しときながら、その俺に武田のために働けとでも言いたいのでござるか?」


「ふんっ。信玄さまの器量を見抜けず、それどころか処罰しようとしたくせに、よくもまあ、あるじづらが出来るものですな。せめて、氏真うじざね首級くびを上げることくらいできないですのかな?」


 けっと信虎は吐き捨てる。


「まるで今、武田があるのは全て、信玄のおかげだとでも言いたげな顔でござるな。今の武田の下地を作ったのは俺であり、信玄はそれにのっかているに過ぎんわ」


「笑わせてくれる。まあ、良い。減らず口を聞くのも飽きてきたわ。おい、こいつを運び出せ。なあに、手荒に扱っても構わん。信玄さまに会わせる前に、生きてさえいればいい」


 信虎はまだ言いたげな顔であったが、馬場は無視し、兵たちに運ばせるのであった。


「くそが。手を煩わせおって。おかげで、城から金品財宝を奪えなくなってしまったわ。あとで大殿には身体でその罪、わからせてやるわ」


 馬場も焼け落ちていく城を後にする。城を包む炎は天を突き、業々と音を立て、崩れ落ちていくのであった。


 ここに名門・今川家は滅びるのであった。

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