ー進撃の章16- 力を得る代償
信長は家康に武田家の駿府攻めについて、いくつかの疑問点を上げる。
「信玄くんは、田畑を荒らし、民の安寧を崩すような戦いを駿府で行っているようですね。もしかすると、そこから流民が流れてくるかもしれませんね」
「信玄殿の戦の仕方は古いのでござる。確かに、田畑を焼くことや、人捕りを行うことは全国どこの大名もやっているでござろう。しかし、俺たちがやっている戦は天下万民の幸せと安寧のためでござる。俺は信玄殿のやり方が気に喰わないのでござる」
「しかし、相手の士気をくじき、民の心を支配者から離れさせるには良い手なのは確かですからね。ひのもとの国の民は侵攻してくるものよりも、守ってくれない領主に、より恨みを抱くのですから」
ひのもとの国の民は、世界の常識とは違い、自分の身を守らぬ領主や政治家を実際に領土を荒らす敵国の兵よりも恨むと言う常識がある。
この恨みの声はすさまじいものであり、かつて、鎌倉の幕府が元に攻め込まれたときのことを思い出していただければ良いだろう。
鎌倉の幕府は武士たちや、被害を被った民たちの援助や俸禄を与えることが出来ず、さらには朝廷までもが、鎌倉の幕府を非難し、鎌倉の武士の名誉を大きく傷つけた。
だが、その名誉を傷つけたのが朝廷の宣伝によるものなのに、彼らが恨んだ先は、報いに応えなかった鎌倉の幕府であり、執政・北条家であった。
もう1度、言おう。朝廷は武士たちの活躍を全て無かったことにし、神風という自然現象のみがひのもとの国を救ったのだと宣伝し、武士たちの名誉を傷つけたのだ。だが、恨みの矛先は実際のひのもとの支配者、執政・北条家に向けられた。
まさにプロパガンダは、鎌倉末期から行われていたのである。
「怖い話なのでござる。守る民から恨まれるのには、さすがに心が耐えきれぬでござる」
「まあ、先生たちが優しすぎるのが問題なのかも知れませんけどね。そもそも、ひのもとの国には、領民を守ると言う自覚すら、先生たち以外の大名たちには、存在しないんじゃないでしょうかね」
「そうでござるなあ。民のためを思うなら、寺社や豪族が関所を作り、民を重税で苦しませている事実に心を痛めぬわけがござらぬからな」
「それどころか、彼らは喜んで、自ら進んで関所を乱立させてますよ。それが実態です。敵国は、その支配体制を崩すきっかけになるかも知れないのですから、当然、領民は自国の大名より、敵国の大名に期待を込めるのでしょうね」
「かつて三河の地は、内乱が勃発し、今川義元の手により、俺は人質となってしまった。そのことにより、三河は敵国の今川義元に従属せざるおえなくなり、地獄の地と化したのでござる」
家康は苦虫を噛んだような顔つきになる。
「敵国に支配されれば、安寧がやってくるなど誰も保障をしてくれないのでござる。三河の民たちや兵たちは全てを奪われたでござる。生きる権利さえも奪われたのでござる!」
家康は、今川義元に才を認められ、嫡男・氏真と変わらぬ待遇で義元の下で育てられた。教育も行き届き、そのおかげで軍才や政才に磨きをかけたのである。
そして、義元に10歳の年上の女性を妻としてあてがわれたが、家康は熟女好きな性癖なため、喜んでその女性を迎え入れたのである。その女性こそが、瀬名姫であり、嫡男・信康の母親でもある。
「俺は何も知らなかったのでござる。義元に恩すら感じていたのでござる。だが、あの日、桶狭間の戦いで三河の兵たちと再会したときに、それは恨みに変わったのでござる!」
家康が桶狭間の戦いの折、三河の兵を率いることを許された。だが、精強で知られた三河の兵たちは、皆、痩せ細り、あばらの骨が胸に浮き出ているものたちばかりであった。
その弱りきった兵たちを率いて何ができようかと家康は思った。だが、今川義元が下した命令は度を越えていた。
「あの男は、俺に三河の兵に死ねと命じてきたのでござる。最前線も最前線、尾張の那古野城から南10キロメートルしか離れていない、大高城に詰めよという命令でござった。もし、あのとき、信長殿にもっと兵がいたら、俺は大高城で死んでいたのでござる!」
信長が桶狭間で戦ったときは、守る兵2000、攻める兵2000で、4000しかなかった。そのおかげで、家康は命を拾ったのである。
「まあ、あの時は全く、織田家に余裕なんてものがなかったでしたしね。義元を討ち取ったあと、家康くんが退いてくれて、ほっとしましたもんですよ」
「あとで聞いた話。那古野城に詰めていた将が、柴田勝家殿と聞き、本気で、おしっこちびったのでござる。反攻に出ずに良かったのでござる」
「家康くんって、勝家くん絡みで、おしっこちびる機会が多くないですか?」
「信長殿のほうが気が確かなのかと思うでござるよ。なんで、勝家殿の本気もーどにも平然とした顔をしていられるのか、その秘訣を知りたいくらいでござるよ」
信長がふふんと鼻を鳴らす。
「相手の気と同調するんですよ。まともに正面から受ければそりゃあ、おしっこちびって当然ですね」
「気を同調させる?よくわからないでござるのだが」
家康は、よくわからないと言った顔つきだ。
「相手の気をそらすとか、意を受け流すなどといろいろとあるんですが、その一種で先生の場合は合気と言った技術なのですね」
信長はさらに続けて言う。
「例えば、台風で凶風が吹き荒れているとしましょう。家康くんの場合は、強固な家だったとしましょう。しかし、それでは凶風をまともに喰らい、家の屋根は吹き飛んでしまいます」
家康はふむふむとその信長の話を聞く。
「先生の場合は、凶風の中を漂う、鳥の羽毛のようなものです。凶風のなかに溶け合うように舞い上がるのです」
「なるほどでござるな。まったく意味が分からないのでござる」
「まあ、極意も極意の話ですから、今の家康くんの相撲の実力では、分かりづらいかも知れませんね。どうです?先生に弟子入りして、共に神の領域に挑みませんか?」
「信長殿に弟子入りすれば、勝家殿に一矢報いることが、俺でもできるようになるでござるか?」
「家康くんの才能なら10年、修行すれば、あるいはと言ったところでしょうか?」
「10年も経ったら、勝家殿は50才になってしまうのでござる。いくらなんでもご老体を投げ飛ばすのは気がひけるでござるよ」
人間50年の時代である。この時代の50才は現代と違い、老人の域に達している。老人を相撲で投げ飛ばしたところで、何の誉れにもならないのである。
しかし、たまに、70才以上まで生きる者もいた。しかし、それでも70才までであり、ことさらに稀な存在なのである、そういう人は。
「勝家くんなら、50才すぎても現役ばりばりだと思うんですけどね」
「そうかも知れぬが、今の最高潮である、勝家殿にこそ、勝ちたいのでござる」
信長は、ふふふっとほくそ笑む。
「家康くんはわがままですね。では、1年で勝家くんに勝てるように仕込んであげましょうか?」
「なんと!1年で勝家殿に勝てる方法があるのでござるか?」
「その代り、人間としての何か大切なものを失ってしまいますがね」
家康は、驚きの表情を作る。
「それは、ちょっと嫌なのでござる。ちなみにどういったことになるのでござるか?」
「そうですね。力を得る代償に、おしっこがとまらなくなってしまったりでしょうかね。実際に、訓練に耐えきれなくて精神を壊してしまう人のほうが大多数でしょうけど」
「失敗すれば精神が壊れて、力を得ることに成功したとしても、おしっこをちびっりぱなしでござるか。ううん、それって、何か得があるのでござるか?」
「正しい手順を踏まずに力を手に入れようと言うのです。たかだか、おしっこが噴水のように出続けるくらい、我慢してくださいよ」
「噴水のようにでるのは嫌でござるよ。せいぜい、ちょろちょろ漏らすのかと思えば、噴水ってどういうことでござるか。身体の水分が10分もせずに全部、排出されてしまうでござるよ」
信長は、うん?と言った顔つきです。
「言われてみれば、そうですね。家康くん、死んでしまいますね」
「妙に納得した顔で言わないでくれでござる。1年で勝つのは諦めるのでござる」
「それは残念ですね。家康くんが初めての成功例になると思っていたのですが。曲直瀬くんには、実験体を手に入れることは出来なかったと伝えておきましょうか」
「よりにもよって、曲直瀬殿の薬が関わっていたのでござるか!俺を実験体にしようとするのは止めてほしいのでござる」
「曲直瀬くんには、疲れや眠気が吹き飛ぶような薬の発明をしてもらっている最中なのですよね。ただ、副作用が強すぎて、実現性にとぼしいのが残念なところです」
「その副作用のひとつが、おしっこが噴水のように飛び出すと言うわけでござるか。もう少し、ひのもとの国の民たちの健康を考えた薬を作ってほしいのでござる」
「まあ、これで家康くんにも、超人になろうとするなら代償が必要だと言うことがわかってもらえたと思います。それでもあなたは力を求めますか?」
神の御言葉なのか、それとも悪魔のささやきなのか。
「いや、いいでござる。俺は人の身のままでいたいでござる」
信長は、ふむと息をつく。
「人の身のまま、神の域に達しようというのも、また傲慢な話ですね。家康くんは欲張りものですよ」
「相撲で神の域に足を踏み入れつつある、信長殿に言われたくないセリフでござるな」
「先生は相撲界だけではなく、行く行くは、この国の神にすら挑戦をするつもりだったりしますけどね」
「信長殿!それは、いけないのでござる。禁忌の領域なのでござる」
この国の神。すなわち、信長が言いたいこと、それは。
「この国の神と言うことは、帝たちを指すことになるでござる!決して、公の場で言ってはいけないのでござる」
「まさに生きた神たちが、この国の民の頂点に君臨しているわけです。ということは、先生がこの国を治めると言うことは、神に成り代わると言って過言ではないと思うんですけどね」
信長はそう言う。だが、家康はこの神になろうと言う目の前の男に言い知れぬ畏怖を感じるのであった。