ー動乱の章 8- 北条氏康、参戦
2月に入り、信長は二条の城建設のために、兵1万と民の中から募った1万を連れて京へ向かおうとした。その矢先に、ある報せが届く。
「え?武田家、まさか負けちゃうんですか?」
「丹羽ちゃん、思うんですけど、もう武田と縁、切ったほうがいいんじゃないですか?」
さしものの信長も、戦国最強とうたわれる武田騎馬軍団率いる、あの武田信玄が今川相手に負けそうだとの一報に驚きを隠せないのであったのだ。
正確に言えば、上杉と同盟を成立させた北条家が、後顧の憂いなく、今川家に加勢にきたのだ。北条家の突然の参戦で、武田信玄の戦略は大きく崩れることになったのだ。
さすがは相模の獅子こと、北条氏康である。あの武田騎馬軍団を互角、いやそれ以上の力を見せつけているらしい。
「じゃあ、家康くんのほうもやばいということになるんですか、これ?」
「んー。家康さまも災難なのです。丹羽ちゃんが、今川家をプロデュースしてきましょうか?」
徳川家康と武田信玄は、今回の今川攻めに関して、共同戦線を張る約束をしていた。だが、蓋を開けば、武田信玄の敗走が濃厚になるという、とんでもない事態なのである。
当然、徳川家康にとっても、大誤算も大誤算である。2方向からの同時攻めのはずが完全に予定が狂ったのだから。
「まったく、信玄殿には期待を裏切られたのでござる。ここは力攻めと行かず、使いたくはなかった手を使うでござるか」
2か国で、1か国を挟み込むように攻めるのだ。負けるはずもない戦である。だが、家康は念のため、ある策を弄していた。
「遠江の城を守る今川家の諸将に、書状を送るのでござる。かねてからの約束通り、所領を安堵するゆえ、徳川につけと」
家康は力攻めを諦め、策による、今川家臣団の切り崩しに出たのである。
「やれやれ、これでは割りに合わぬ戦になるでござるな。結局、遠江の半分を手にしても、今川の家臣をそのまま、使うことになりそうでござる。労力の割りには見返りが少ないのでござる」
北条氏康にも、徳川家への対処までは手が回るはずもなく、遠江の半分は諦めることにする。しかし、武田家は別だ。甲相駿3国同盟を潰した張本人を許すことは絶対にできない。
「おう。義元のせがれの、氏真。遠江は、徳川にくれてやりな。その代り、信玄の野郎は、俺が必ず滅ぼしてやるからな。あいつめ、覚悟しやがれ」
今川家・北条家ともに、狙うはただひとつ、武田信玄の首級だ。信玄の裏切りにより、長年、安定してきた、越後、相模、駿府、甲斐の関係が、一気に崩れたからだ。
この今川・武田・北条の戦いで一番、得したのは誰か。
実は、上杉謙信なのである。
軍神・上杉謙信は、戦の申し子と呼ばれる男だが、本当のところ、武田家、北条家相手に、勝ったことがない。
上杉家は、この2国に対して、本来の目的を成し遂げていないと言ったほうが理解されやすいかもしれない。
武田家と戦う理由は、村上吉清が北信濃を武田信玄に奪われて、その村上が謙信に泣きついたからだ。謙信は義戦と称して、5度も川中島で戦をしたのだ。だが、成果は全くでなかった。
北条家と戦う理由も、これまた義のための戦である。北条氏康により、関東から追い出された大名たちが、謙信に泣きついたのだ。こちらのほうも全く成果が出ていない。
成果がでないだけなら、まだ良かった。上杉謙信は武田・今川・北条の3国同盟結成により、地盤が強固となった北条家に近年では逆に攻められる事態に陥っていたのである。
「僥倖。まさに僥倖である。我こそ軍神・上杉謙信である。神を傷つけることは不可能である」
上杉謙信は、自分の神の力が発現したのだと、周りに触れ回るほどであった。上杉家の家臣たちは主家の滅亡を予感していたほどだ。それほど、上杉家は追い詰められていた。
しかし、そうはならなかった。この危機を大逆転せしめたのは、謙信さまが神の御力をつかわれたからだと家臣たちは信じた。自分の仕える謙信さまは、神の顕現だと思いこむようになったのだ。
「神だ、殿はまさに神がこの世に舞い降りたお方なのだ。殿!我ら、家臣一同、ますます、貴方さまにお仕えさせていただきたい!」
面白くないのは、北条氏康である。
「くっそ。完全に誤算だったぜ。信玄が馬鹿やったせいで、せっかくの上杉攻めは全てパアだ。根本的に戦略を変えることになるとはな。この手間賃、信玄、てめえの首級で支払ってもらうからな。
北条家は半ば、人質同然に北条三郎を上杉家に送る。唯一、良かった点は、謙信が北条三郎を気に入り、養子に迎えてくれたことだ。これで、三郎の命の危険はなくなったと言ってよい。
信長は、やれやれと思う。東は同盟国の徳川家康と武田信玄に任せてあるのだ。しっかりしてもらわないと困る。畿内は正月に三好三人衆の襲撃があったばかりだ。畿内が安定してない今、東に軍を向けることもできない。
「もしかすると、武田家は本当にやばいことになりそうですね。東に北条氏康、南に今川氏真、北に上杉謙信ですか。3方を敵に囲まれてしまいましたねえ」
信長は、やらなければならない仕事が増えたことに頭を痛めることになる。
「まあ、信玄が泣きついてくるかもしれませんが、貸しも作れますし、これはこれで良かったかも知れませんね」
すんなり、武田家が今川家を滅ぼしていれば、増長する可能性だってあるのだ。貸しは作れるだけ作っていたほうが安全であると思う、信長である。
信長はとりあえず、武田家のことは放っておき、京の都を目指す。まずは、足利義昭の安全が第一だ。東のことは、そのあとである。
「おお、御父、信長殿。よく戻ってきてくれたのでおじゃる。たった2週間でおじゃるが、まろは寂しくてしかたなかったのでおじゃる」
「はははっ、将軍さま。少し大げさではありませんか?先生が義昭さまを放っておくわけがないじゃないですか」
「そうは言われてもなのでおじゃる。こんなあばら屋では、落ち着いて眠ることはできないのでおじゃる」
本圀寺は、三好三人衆に攻められ、ぼろぼろであった。そのため、織田家が宿舎としていた屋敷に義昭を招きいれたはいいが、ひとの家では勝手気ままに過ごすこともできず、よく眠れぬ日々が続いていたのであった。
「将軍さま、2カ月ほど、辛抱してくださいね。立派なお城を建築しますので」
「なんと、城を2カ月で建てるというのでおじゃるか。それで、こんなにも兵と民を連れてきたというわけなのでおじゃるか」
信長が京の都に2万もの人員を連れてきていたのだ。そのものたち、全員、城を作るためとは、まさに前代未聞である。
「信長殿は一体、何をする気なのでおじゃる。城ひとつのために、ここまでしてくれるのは何のためなのでおじゃる?」
「天下に将軍さまのすごさを見せつけるために決まってるじゃないですか。2カ月で城を建てるんですよ。それはそれは、ひのもとの国を驚かすことになって、面白いじゃないですか」
「信長殿は、やることなすこと、いつも、まろを驚かせるのでおじゃるな。御父の忠節、誠にあっぱれなのでおじゃる」
「では、さっそく、城の普請を開始しちゃいますね。義昭さまにも働いてもらうので、覚悟しておいてください」
「なんと、将軍である、まろにまで、城の建築を手伝えと言うのでおじゃるか!」
「何を言っているんですか。将軍さまが住む城なんでしょ?自分の住処くらい、自分も汗を流すくらいでないと、困りますよ」
「そうは言っても、まろには仕事があるのでおじゃる。天下に号令をかけなければいけないのでおじゃる」
「そんなこと、今は置いといてください。先生と一緒に、城づくりの号令をかけましょう。きっと楽しいと思いますよ」
義昭はううんと唸る。そして、ぽんと手を合わせ
「わかったのでおじゃる。任せっぱなしは気がひけるでおじゃるしな。どれ、まろもひと働きさせてもらうのでおじゃる」
そう言い、義昭も城づくりに参加することになったのだが、後悔、先に立たずとはまさにこのことであった。
早速、信長は二条の城の建築を始める。普請役の代表は丹羽長秀が担当し、各地に指示を飛ばすのであった。
「おーい、丹羽ー。この材木はどこに運べばいいんだー?」
「信盛さま、それは第2区画に運んでくださいなのです。それと、第3区画にも材木を運ぶよう手配をしておいてほしいのです」
「第5区画に人員を1000人ほど回してほしいッス。手が空いてるものたちは、どこにいるッスか?」
「利家さん、第1区画で人手が余っているのようなので、そのひとたちを使ってほしいのです。手配書を作成するので、少し待ってほしいのです」
「あ、あの、信長さまが大石を運んでいるのですが、あれ、ほっといていいん、ですか?」
「猿さん。信長さまは、放っておくのが一番なのです。勝手にさせておいたほうが身のためなのです」
「で、ですけど、あれはさすがに放っておくと、まずい気がするの、ですが」
秀吉が、指をさす方向には、信長たちが作業員たちと大石を運んでいる。
「ほら、皆さん、石を運びますよ、そおれ、そおれ!」
信長はあろうことか、大石に赤と白の布を被せ、さらにしめ縄をその石にくくりつけ、ど派手な様相にさせている。そして、その大石の上に乗っかり、その上から、皆に掛け声している。
「そおれ、そおれ!ほら、もっと、引いて」
「の、信長殿。ただでさえ重いのに、上に乗るのはやめるのでおじゃる!引っ張ってる、こっちの身にもなれでおじゃる」
「将軍さま、腰が入っていませんよ!さあ、引いて引いて」
「ひいい。手伝うと軽々しくいうものではないのでおじゃる!御父は人使いがあらいのでおじゃる」
義昭や作業員たちは額に汗し、大石を引っ張る。信長は皆をはやし立てる。
二条の城建築は、祭りの様相を見せ始めていたのだった。