ー動乱の章 1- 金の使いどころ
季節は進む。足利義昭が将軍に就任してから、早3か月が過ぎようとしていた。今は1568年11月も終わりにさしかかろうとしていた。
今日も織田家の皆は、各々、仕事に励んでいた。上洛時の戦により、南近江、京周辺、そして堺周辺と領土が増えたはいいが、同時にやることも増えた。
南近江は豪族たちの取り込みと同時に六角家の旧臣たちを吸収し、関所撤廃を推し進めてきた。抵抗はあったものの、信長の有する4万の兵にはなすすべがなく、降るものたちが相次いだ。
同時に寺社の領土に関しても手をつけることになる。近江で最も大きな比叡山、そして、天智天皇ゆかりの三井寺など有力な寺社は数多くある。そして、京にももちろん、数多くの寺社がある。それらの治める領地を検地し、規模に見合わぬほどのものたちのは没収するなどし、自分たちの家臣に配分したりした。
「信長さま。お忙しいところ申し訳ないの、ですが、私の家臣より陳情書が届いています」
「またですか。いい加減、うんざりなんですけどね」
木下秀吉が信長に謁見している。なにやら、領土に関して問題が起こっているようだ。
「義昭さまが、私の家臣の領地を占有したようなの、です。聞いた話によりますと、昔、その土地を義昭さまの家臣が領していたなどと言って、どこからか、証文をもってきた、らしく。私の家臣が泣く泣く、領地を差し上げたようなの、です」
「将軍さまにも困ったものですね。そんなカビの生えた証文など持ち出しても、実効支配している織田家の領地に手を出そうと言うのは、いささか傲慢すぎます」
「将軍に逆らってはことがことになると言って、私の家臣が今回、さがりましたが、困ったことなの、です」
「その件に関しては、先生のほうで処理しておきます。将軍さまを叱っておきますので、領地のことは安心してください。ちゃんと、きみの家臣に返ってくるよう、上手くやっておきますね」
「ありがとうござい、ます!せっかく、出世したものが領地を取られては織田家の信頼に関わります、からね。きっと、私の家臣も喜ぶと思います」
「将軍さまには金は与えているのですから、それで大人しくしていればいいものを。人間、欲をかくのはいけないことですね」
「うっほん。義昭さまは金は持っていても土地を与えていないのじゃ。功のある自分の家臣に土地を与えたいという欲求はわかるのじゃ」
「貞勝くん。わかっていると思いますが、将軍に土地を持たせるということは、軍隊を養うための地力を与えることと同義です。いくら将軍さまからせがまれようが、それだけはまかりなりません」
「そうであったのじゃ。いらぬ発言、すまないのじゃ」
村井貞勝は、信長に謝る。信長は広大な領土を手にいれたが、その一切を義昭には渡していない。信長が自分の兵力でもぎとったものなのだから、当然と言えば、当然なのだが、一坪たりとも譲ってはいない。
「ガハハッ。殿、ねずみが一匹つかまったでもうす。義昭さまが放った、でかいねずみでもうす」
勝家が笑いながら、政務室の襖を開け、中に入ってくる。
「浅井家に送る予定の書簡を持っていた、面妖なねずみでもうすわ」
信長は右手のひとさし指と親指でこめかみを抑える。
「あの馬鹿将軍、いい加減にしてくれませんかね。これで何通目だと思っているんですか」
「義昭さま、また、勝手に書簡を大名家に送っているの、ですか?」
秀吉が信長に言う。信長は頭痛を感じながら、その書簡を勝家から受け取り、中身も確認せずにびりびりに破る。
あっと秀吉が言うが、信長は気にせず
「どうせ、長政くんに足利家が使う領地を明け渡せって内容でしょ。あのひとはどこまで馬鹿なのですか」
「ガハハッ。殿の言うとおりでもうす。中身を当てるとは中々にやりもうすな」
「読まなくたって、誰でも予想はできますよ。あのひと、本当に傀儡の自覚があるんですか?」
「うっほん。そんなもの微塵も自覚をしているわけがないのじゃ。自覚してくれていれば、こんな気苦労、起きるわけがないのじゃ」
「織田家の指示書に黙って、判だけ押してりゃいいんですよ。一体、誰のおかげで将軍になれたと思っているのですか」
信長は机に肘付き、手の上に顎を乗せる。
「ああ、こんなんなら、足利義栄を奪いとって、そちらを奉戴したほうがましだったかもしれませんねえ」
「そ、それはさすがに無理がある、ような」
「冗談ですよ、冗談。しかし、いくら上洛の機会を得るためとは言え、言うことを聞かないものを将軍に就けたのは失敗でしたね。いくら仮初の権威のためとは言え、これは厄介ですね」
またもや、がらっと襖が開けられ、今度は信長の奥方・吉乃が入ってくる。
「机に肘をついて、行儀が悪いですよ、信長さま」
「ああ、吉乃ですか。聞いてくださいよ」
はいはいと、吉乃は言いながら、差し入れのお菓子・カステーラを机の上に置く。
「お、カステーラじゃないですか。今日のおやつは奮発しましたね」
「はい。信盛さまに無理を言って、堺から送ってもらいました。あちらのほうも大変みたいですね。あ、今、お茶を新しくいれますね」
吉乃は、お湯をきゅうすに入れ、諸将たちの前に置かれた湯飲みに茶を入れていく。
「お茶もいいですが、いっそ、酒が飲みたくなりますね。ああ、しらふじゃやってられませんよ」
「愚痴もほどほどにしておかないと、皆さんの気が悪くなってしまいますわよ」
「それもそうですね。我慢してるのは先生だけじゃなく、皆ですからねえ」
明智光秀は、本圀寺の警護を兼ねての将軍付きで政務をこなしているので、この場にはいないが、相当ストレスが溜まっているようで、毎晩のように酒をあおっているらしい。
「光秀くん。今に身体を壊してしまうんじゃないんでしょうか。先生は心配です」
「私が光秀さんと警護役を代わりま、しょうか?」
「秀吉くん。きみの申し出はありがたいのですが、あなたも領地が増えて、そっちの管理のほうも大変でしょう?尾張や岐阜とは違って、まったく知らない土地なのですから」
秀吉は、此度の上洛の報奨として、小さい城と領地を南近江の一角に与えられた。また他に京の一部の領地に代官として任じられている。昨今の織田家の諸将の中では、北伊勢を領地とする、滝川一益に匹敵するほどである。
「土地が変われば人も変わると言いますが、南近江はなかなかやっかい、ですね。昔からの豪族が根を張り、言うことを聞いてくれ、ません」
「あまりごねるようなら、2,3人、首級をはねてしまいなさい。そうすれば、少しは大人しくなると思いますよ」
「あらあら、信長さま。あまり秀吉さんに、無茶を言ってはいけませんよ。はい、熱いお茶です。これで一息入れてください」
織田家の面々は、おやつのカステーラに手をつける。砂糖の甘味が無性に脳を刺激する。
「うっほ。甘味が聞いて、五臓六腑に染みわたるのじゃ。出来るなら毎日でも政務のかたわらに欲しいくらいなのじゃ」
「この甘味は砂糖でしたっけ。これを作るための作物が、ひのもとの気候に適してないと南蛮人に言われて、断念しちゃったんですよねえ」
信長はカステーラを一切れ、ほうばりながら、お茶をすする。
「そういえば、ハーブ園を建設する案は、どうなってましたっけ?」
「ああ、あれですかじゃ。あちらは、なんとか目途が立ちそうなのじゃ。来年には収穫にこぎつけそうなのじゃ」
「そういえば、殿は宣教師からハーブ茶を勧められて飲んだら、感激していたでもうすな。それで、ハーブ園を作ってしまおうというところが、殿らしいといば、らしいでもうす」
日本で、一番最初に、ハーブを育成、栽培したのは、実は信長である。信長はハーブティを大層、気にいったらしく、自家栽培するほどだったらしい。
「できれば、砂糖も自家栽培したかったんですがねえ。年中、暑い気候じゃないと育ちにくいらしいじゃないですか」
「ううん。そうなると、九州まで織田家の領土を広げないといけません、ね。何年後になるんで、しょうか」
秀吉が唸っている。
「中国地方の毛利がいますからねえ。5年と言ったところでしょうか。ああ、5年も砂糖を我慢しろとか地獄ですね」
「それなら、南蛮からの砂糖の輸入量を増やせばいいのじゃ。堺を手中に収めた今、不可能ではないのじゃ」
「火薬に各大名家への贈呈用の南蛮渡来の珍品などなどに加えて、砂糖も増やせっていうんですか。ううん、いくら領地が増えたからと言って、お金がいくらあっても足りませんねえ」
「ガハハッ。贈呈用だけじゃなく、殿は自分用のものも買っているではないでもうすか」
「んん?そうでしたっけ。そんなこともありましたっけ」
「南蛮制の甲冑に、びろーどのマントを買って、さらに領収書を切ってもらい、経費で落とせないかと前田玄以に頼み込んでいたのは誰ですかじゃ」
「ええ!だって、かっこいいじゃないですか。西洋甲冑にマントを身に着け、さっそうと馬に乗るなんて、ロマンにあふれているじゃないですか」
「戦だと、目立ちすぎて、すぐ、殿だとばれてしまうのじゃ。弓矢の的にされたいので?」
貞勝が信長を咎める。だが、どこ吹く風と共に信長は
「甲冑はオーダーメイドですよ。わざわざ、採寸してもらって作成してもらったのです。いやあ、届くまでに1年かかってしまいました。寸法、ぴったりですよ」
「上洛の忙しい時期に、殿は何をしているのじゃ。本当に天下を治める気があるのかじゃ」
「天下を治めるのと、趣味に金をかけるのは、また別の話ではないですか。岐阜も整備が進み、税収はうなぎのぼりです。お金は使ってこそなんぼです」
「なら、経費で落とそうとするのは、やめるのじゃ。変なところでけちるのはどうかと思うのじゃ」
「金は使いどころなのです。使うべき時には使う。けちるべき時にはけちる。これが政治というものです」
「殿個人の財布の事情を政治に置き換えるのはやめてほしいのじゃ。若いものたちが真似したらどうする気じゃ」
「あ、あの、貞勝さん。お出ししてるカステーラを経費で落とそうかと思っていたのですが、ダメなんですか?」
吉乃がおそるおそる、貞勝に尋ねる。貞勝は皆に聞こえるような大きなため息をつくのであった。