ー戦端の章16- 神の御業
「勝家さま。それは本当なの、ですか?信長さまは、今まで本当の力を隠していたの、ですか?」
秀吉はびっくりした顔で、柴田勝家に尋ねる。勝家は右手で顎をさすり
「今までの死合いに対して、手を抜いてきたと言うわけではないでもうすよ。ただ、殿が繰り出したあの技は秘技中の秘技でもうしてな。このひのもとで使えるものと言えば、鹿島新當流を興した塚原卜伝殿くらいでもうす」
「なんでござるか、その塚原卜伝殿の技というのは」
今度は徳川家康が勝家に尋ねる。
「本来は刀術と柔術を組み合わせたものでもうすよ。柔術とは相手の意を殺し、操り、自在に翻弄する。それを相撲の技に昇華したのが殿でもうす」
「その柔術という技は面妖なものでござるな。仮にも勝家殿と競り合うほどの力の持主の光秀殿のつっぱりを無効化するのでござるから」
「ガハハッ。普通は我輩のような力を見せつけられれば、筋肉はこわばり、相手の力を受け流すことなどできないのでもうす。しかし、それを実践の場でやってしまう殿は、真の化け物なのでもうす」
「確かに、勝家殿に睨まれただけで、おしっこちびってしまいそうになるでござるな。信長殿の心臓にはたわしのような剛毛が生えているのではないでござろうか」
「そりゃ、あの馬鹿が緊張するなんてことは、滅多にないだろうな。天下に名乗りを上げようとしてんだ。これくらいの修羅場で緊張するような肝っ玉なら、そうそうに見限ってたぜ」
そう言うのは、準決勝で信長と戦い、敗れた佐久間信盛であった。彼も解説席に現れたのである。
「相手をいなすことに関しては、俺の得意分野だけど、殿のは次元がまるで違う。あれはなんだろうな。自分たちとは別の生物なのかとたまに思っちまうときがあるわ」
「の、信長さまだって、人間、です。でも、信長さまは神仏か何かになろうとしているのでは、ないの、でしょうか」
たどたどしく、秀吉が言う。信盛がふうむと息をつく。
「殿が神仏の領域に手を出そうってのかあ。まあ、あながち的外れな意見ではない気がするなあ。そうなると、殿に対抗する手段を持つやつなんか、この世に存在するのか?」
「人間はいつだって、神仏の手によって、弄ばれてきたのでござる。信長殿はそれを嫌っているのかもしれないでござるな」
土俵上では、光秀が信長に連続の全力つっぱりを放つ。信長はその総てを喰らい、そして受け流す。
「神になろうとする人間を倒せるものなどいるのでござるか。ただの人間である、光秀殿にそれができるのでござるか」
「できるかどうかはわかりま、せん。ですが、神の意思を超えるのが人間の宿命だと、私は思い、ます。運命に抗おうとするものの集まりが、この織田家なの、ですから」
信長は暴風吹き荒れるつっぱりを受けながら、少しずつ前進する。一発、つっぱりを受けるたびに、その衝撃で地面は陥没する。光秀は、顔面、肩、胸、腕、腹と狙いを散らしている。だが、どこの箇所につっぱりを入れようが、すべて無効化されしまっていた。
光秀は荒い息を上げる。だんだん、左腕の感触がなくなってきていた。ついには、つっぱりを放つ手を止めてしまう。
「あれ?限界ですかね。では、つぎはこちらの番です」
無造作に信長が、つっぱりを放つ。それはゆっくりとした速度で放たれたものであり、なんの危険性も感じないものであった。だが、光秀の直観がささやく。これはやばいものだと。
光秀は全身の筋肉をこわばらせ、両腕を交差し、その中心で信長のつっぱりを受ける。
その途端、光秀の身体は大きく後退する。速度も何もない、ただのつっぱり一発で、1メートルも吹き飛ばされたのだ。光秀は信じられないものをみた顔をする。
「あれ。本当なら場外まで吹き飛ばす予定でしたが、持ちこたえましたか。これは予想外です」
「ふひっ。いまのつっぱりは何なのでございますか。ただの変哲もない、つっぱりが勝家さまと匹敵する威力でございましたよ」
信長は、ふむと言いながら、右手であごをさする。
「勝家くんや光秀くんのような、筋肉に頼る身だと忘れがちになるのですが、要は身体の使い方なんですよ」
光秀は納得しかねる回答を得て、頭の中がさらに混乱する。
解説席の勝家が代わりに応える。
「殿のあのつっぱりは、身体に回転を加えているのでもうす。ただ、回転させているのではなく、地面を起点に、足、ひざ、太もも、腰、背中、肩、腕、そして手へと回転を重ねることにより、人間の本来持つ力を数十倍に引き上げているでもうす」
「仕組みはわかったでござるが、それだけのことで、勝家殿に匹敵する力を生み出せるものなのでござるか?」
家康が、そう勝家に尋ねる。
「普通の人間にはあれほどの力を発揮することはできないでもうす。ただ、殿の身体は異様に柔らかいのでもうす。関節の可動域が普通の人間とはまるで違うのでもうす。あれは神話に登場する、天手力男神が得意とした、はっけいでもうす」
「相撲で、はっけいよいのこったと言いますが、その【はっけい】とはまさに、天手力男神の力という、ことですか?」
秀吉が言う。
「そうでもうす。今はとうに忘れられた御業でもうす。だが、殿はその御業の体現者なのでもうす」
「信長殿は本当に恐ろしい方でござるな。全力のつっぱりを無効化する体術に、さらにはっけいでござるか。まさに今世に降り立ちし、相撲の神なのでござるか」
家康が唖然とする。信長は神の御業を有している。どれほどの鍛錬を積めば、その領域に達することができるというのか。一朝一夕で使えるものではないはずだ。
しかし、まだ、光秀は戦っている。相撲の神に対して、まだひとの身として対峙している。信長のつっぱりを一発、受けるたびに後退していく。だが、光秀の目は死んではいなかった。
光秀は、防御を捨てた。信長の左のつっぱりに対して、それに合わせるように右のつっぱりを放つ。そして、互いの胸を打ち合う。
その時、異変が起きる。光秀が1メートルふっ飛ばされたのに対して、信長が2メートル後退したのだ。
「ふひっ。やはりでございますな。はっけいと受け身は同時にできないでございますな」
しかもカウンター気味に入ったのが功を奏して、光秀のつっぱりの威力は倍と化し、信長はよろめく。
「驚きましたね。まさか、はっけいにこんな弱点があるとは思いもよりませんでした。ううん、これは改良の余地がありますね」
はっけいは威力が高いが、体内で力を練るために、速度が落ちる。速度が落ちれば、攻撃を合わせるのはたやすくなってしまう。そこを光秀に突かれたのだ。
だからといって、光秀は、はっけいをまともに喰らっている。光秀は今、崩れ落ちそうな両ひざを心の中で必死に叱咤しているのである。
「相撲とはいいものですね。一戦、一戦、おもいもよらぬことが起きます。まるで人生の縮小図のようです」
感慨深そうに信長が言を放つ。
「ふひっ。簡単に倒せそうな者を相手に手こずるのもまた、相撲の興でございます。僕はたやすい相手に見えていたでございますか?」
「先生は全力を出し切っています。光秀くんを侮ることなど、一瞬たりともありませんでしたよ」
「そうでございますか。それは救われる一言でございます。では、力比べを続けるでございましょう」
2人は見つめ合う。そして、距離を縮めていく。光秀は右腕を信長の左脇にさす。
「右腕、100パーセントでございます!」
光秀、最後の力であった。勝ちをもぎ取るために残していた力であった。
信長は優しく、その右腕に両手で触れる。
宙に舞った。
光秀の身体が宙に舞ったのだ。回転しながら、光秀は空高く、宙に舞う。
「勝者、信長殿!」
割れんばかりの拍手を観客がする。神の御業が炸裂した勝負に、涙を流すものたちもいる。
光秀は、土俵の上で大の字になっていた。何が起きたのかわかってはいなかった。
拍手と声が鳴りやまない会場の中、光秀は、ただ空を見ていた。
自然と涙があふれてくる。
ああ、僕は敗れたのでございますね。それだけがわかる。
信長は、光秀を投げた後、その場で土俵にへたり込む。はっけいにカウンターを入れられて、光秀の全力のつっぱりを2発分もらっていたのだ。勝負が長引けば、土俵に大の字に寝転がることになったのは自分かもしれなかった。
「いい勝負でしたね、光秀くん」
解説席に集まる4人は、涙を流していた。
「こんな名勝負、これから先、見ることはできないでござるかもしれないですな」
家康が流れる涙をそのままに、言う。
「美しくも悲しい。相撲というものは、ここまで出来るものなの、ですか」
秀吉が言う。
「我輩。この勝負、見れたことを一生の誇りにするでもうす」
「ああ、俺もだ。俺もあの領域に足を踏み入れたいぜ」
勝家、信盛がそれぞれの感想を言う。
土俵上に、2人の奥方たちが殺到する。本来は、土俵上は女人禁制であるが、行司役の義昭は。やかましいことは言わずにおいた。讃えられるべき2人をただ讃えているだけなのだ。それを叱責するのはやぼである。
とおちゃん、とおちゃんと、光秀の娘・珠が、土俵に倒れ込む、光秀にしがみつく。その顔は涙でくしゃくしゃになっていた。光秀は、ただ優しく、その頭を撫でる。
「負けてしまいましたね、光秀さま」
「ふひっ。ひろ子でございますか。信長さまに負けたのでございます」
「あなたさまは信長さまを追い詰めたではありませんか。次は勝てますよ」
光秀は動かぬ身体で有りながら、首だけをまげ、信長の方を見る。信長は精魂尽きたのか、土俵に座りこんでいる。ああ、そうか。信長さまの全力だという言葉は本当だったのでございますね。
「ふひっ。次にやるときは、きっと僕が勝ってみせるのでございます」
「光秀さま。今はゆっくりと休んでください」
光秀はそっと目を閉じる。涙が流れるまま、意識が遠ざかっていくのを感じるのであった。