ー戦端の章 8- お前は筋肉をなめた!
注目の第1試合、細川藤孝と柴田勝家の下馬評は、4対6と、ほぼ拮抗していた。兵士たちの多くは勝家に賭けたのだが、京の都の民衆は、細川に賭けたからだ。
「これは、いささか不満な下馬評であるでござるな。まあ、織田家の兵士たちは心のよりどころである、勝家殿に賭けたといったとこでござるか。まあ、そのご期待には沿えないでござる」
「ガハハッ。下馬評など、気にするなでもうす。優劣は場外で決まるものでなく、土俵の上で決まるものでもうすよ」
「それもそうでござるな。目の前の敵を見失ってはいけないでござった。失礼したでござる」
「なあに、気にすることはないでもうす。さあ、死合おうではないか」
「土俵の上はすでに臨戦態勢のようですが、解説の利家くん。あなたの意見はどうでしょうか」
土俵の下に解説席を設けた信長が前田利家と、意見を交換しあっていた。
「まあ、多くの方には、勝家さまの実力のほどは、昨夜の光秀の1件で知れ渡っているッスね。それでも下馬評は4対6ッス。さすがは、細川殿ッスね。だてに【相撲の神秘 筋肉と伝統芸】の著者といったところッスか」
利家は、やや不満顔だ。
「利家くん、きみ、この2人のうち、どちらかと2回戦で当たるんですよね。正直、どっちに勝ってほしいですか?」
「俺は信長さま以外だったら、誰でも良いッス。この大観衆の中、いちもつをさらす危険がないだけで、安心ッス」
「おやおや、利家くんは、優勝する気がないみたいですね。さて、話を戻しまして、2人の対戦ですが、案外、もつれこむと踏んでいるんですよね、先生は」
「おや、信長さまにしては、勝家さまを信じてないっぽいッスね。俺に言わせれば、勝家さまの圧勝だと思うッスけど」
「筋肉という点の力だけなら、勝家くんの圧勝ですよ。ですが、相撲の本まで書いている、細川くんですよ。きっと、何かしら対抗策のひとつやふたつ、持っているでしょう」
「そんなもんッスかねえ。まあ、見てみることにするッスか」
そんな2人をよそに、行司役を買ってでた足利義昭が軍配を片手に、ひがあしい、細川藤孝、にいしい、柴田勝家と声を上げている。
「双方、見合って見合ってでおじゃる」
細川と勝家が土俵上で睨み合う。
「さあて、80パーセントと言ったところでもうすか」
細川は勝家のつぶやきに、うん?と疑問符を頭に浮かべる。しかしのその疑問は一瞬にして吹き飛ぶ。勝家から発する気が膨れ上がったのだ。
「お主、その筋肉はなんでござる!」
勝家の気が膨れ上がると同時に、彼の肩と足の筋肉が膨れ上がったのだ。細川は背中に冷や汗が噴き出る。やばい、この相手は私を殺す気だ。
「はっけよい残ったのでおじゃる!」
義昭が軍配を振るう。決戦の火ぶたは斬って落とされた。
勝家がまず動く。しかしその動きは緩慢なものではなく、神速と言っていいものであった。細川はその神速に驚き、体を動かすのに一瞬の戸惑いがあった。
その戸惑いは死線において致命的であった。まともに正面から勝家の肩からのぶちかましをくらったのである。
「ふぐお!」
その肩からのぶちかましは、細川の意識を飛ばすのに充分な威力であり、彼は吹き飛ばされかけた。
「おお、勝家さまのぶちかましがきれいに決まったッス。これは勝負あったッスか!」
解説席の利家が思わず、声をあげる。
「いや、まだです。細川くんはまだ死んではいません」
信長が冷静に土俵の上を見ている。
「なんでッスか。細川さまの意識はすでに飛んでいるッス。勝家さまのあれをくらって生きているわけがないッス!」
「細川くんの左手をよく見てください」
細川の左手の小指が一本、勝家のまわしに引っかかっていた。それが彼を土俵につっぷすのをぎりぎりのところで防いだのであった。
細川はその命綱を手繰り寄せ、がっぷりよっつに勝家と組む。だが、彼の意識はまだ戻っておらず、目の焦点は定まっていない。
意識のないままの細川は、数千と繰り返されてきた訓練のたまものなのか、自然と身体が動いている。勝家の重心を左右に揺らし、彼が体を大きく、右にぶれる。
その機を逃さぬように、細川が右腕を勝家の左脇に差し込み、上手投げをかます。
「うおお、勝家さまが投げられそうッス!どういうことッスか」
「細川くんの身体には相撲の動きが染みついています。いまだに彼は意識がないでしょう。ですが、それが功を奏して、最高の動きを身体が勝手に為しているのです」
勝家の身体が大きく右に浮いて行く。左足はすでに宙に浮き、これは決まったかと思われた。
「右足、100パーセントでもうす!」
なんということだろう。勝家の右足のみの筋肉が盛り上がり、異様な形になっていく。そして、勝家の身体がそれ以上、右に傾くことは止まった。
細川はここで意識が戻る。俺は何をしたのでござるか。そうだ、勝家殿と相撲を取っていたのだ。今、どういう状況なのだ。
細川は自分と勝家の体を見る。俺は無意識に動いていたのか。そして今、絶好の機会でござる。ここは一気に押し切るでござる。
だが、勝家の身体は動かない。なぜだ、なぜ、この体勢にまできて、この男、倒れない!
「ああ、だめですね。細川くんの意識が戻ってしまいました。勝負ありですね」
「なぜッスか。あと少し、力を入れるだけで細川さまの勝利ッスよ」
「意識がとんでいるからこそ、勝家くんの殺気に耐えれたのですよ。だからこそ、細川くんは萎縮することなく、戦えていたのです」
細川は意識する。勝家の身体に触れる腕から力が抜けていく。なぜでござる。なぜ、身体は言うことを聞いてくれぬでござる!
勝家はふうと息を吹く。
「細川殿。見事でござる。ここまで我輩を追い詰めたこと、誇りに思い、逝くがよい」
勝家は右足一本で、自分の体重と細川の体重を支えている。おもむろに彼は右足を動かす。斜めだった身体が起き上がり、再び、がっぷりよっつの姿勢に戻ったのであった。
細川は意識が戻ると同時に、全身から冷や汗が噴き出る。だめだ、この男と相撲を取ること自体が間違いであったのだ。肉体が、精神が全力で逃げ出そうとしている。この場はいやだ。死ぬのはいやだ。
「感謝の100パーセントでもうす」
勝家の言葉と同時に、彼の全身の筋肉が盛り上がる。左足が、右腕が、左腕が、そして背中の筋肉が変貌していく。
そして、次に、勝家はただ、ただ単に、身体を左に振る。だが、その単純な動きには想像を絶する破壊力が生み出される。
細川が飛んだ。そう、彼は宙に舞ったのだ。そして、土俵の上から、彼は消えた。
細川は自分の身になにが起きたのか、全く理解が追いついていなかった。ただわかるのは勝家殿の肉体が自分から離れたということだけだった。そして、ここでまた、細川の意識は途切れる。
「勝負ありでおじゃる。勝者、勝家!」
行司役の義昭が軍配を勝家に向ける。勝家は、うおおおと雄たけびを上げる。猛獣のような声を上げた。
「おや。勝家くんがめずらしく吼えていますね。戦場以外で、吼えるのはそうそうないですよ」
「そうッスね。それほど、細川さまは難敵だったってことッスか」
「勝家くんをわずかの時間でも、本気にさせたということですね。細川くんは」
「細川さま、すごいッス。もちろん、勝家さまもすごいッスけど。信長さまは、本当にこの勝家さまに勝てたんすか?」
「そうですよ。まあ、それはご想像にお任せしますが。しかし、今大会、荒れそうですね。1試合目から、これですからね」
「で、細川さま、死んじゃったッスか。惜しい人を亡くしたッス」
信盛が土俵から離れた場所で、細川を介抱している。呼吸はある。よかった、死んではいないか、なら大丈夫だろう。
「おい、救護班。細川殿を運べ、そっとだぞ」
担架を持ってきた救護班が到着する。細川を担架に乗せる。すると細川がううんと唸り、目を見開く。
「ここは。私は何をしていたでござる?」
「おお、気が付いたか、細川殿。あんたは勝家殿と相撲を取っていたんだぜ。たいしたもんだ、勝家殿を本気にさせたんだ」
細川は思い出す。土俵上の悪夢をだ。全身がガクガクと震えだし、唇をブルブルさせる。
「ここは嫌でござる。早くここから運んでくれでござる」
細川は涙を流し、信盛にしがみつく。
「落ち着け、細川殿。もう勝負は決まったんだ。安心しろ」
「おわったのでござるか。もう戦わなくていいのでござるか。あの悪魔と戦わなくていいのでござるか」
細川の身体ががくつくのが止まらない。信盛は優しく、彼の身体を抱く。彼は、ああああと声を上げる。それほどの恐怖だったのだ。勝家と死合うこと。それは、死を意味する。彼は知らなかったのだ、死線を超えねばならぬ戦いであったことを。
「おろか。私はおろかであったでござる。敵を見誤っていたでござる」
細川は襲い掛かる死の感触に振るえる。心構えからしてダメだったのだ。知らぬで済まされることではない。
「まあ、あんたは勝家殿を甘くみていたことは確かだ。だが、そのおかげで、全力で戦えたんだ。誇りに思うことはあれ、恥じることじゃないぜ」
信盛が細川をなだめる。
「ただ、あんたの間違いは、試合だと思ったことだ。織田家の相撲は死合いだ。次やることがあれば、その辺を忘れなきゃいい」
そう声をかける信盛であったが、細川はいまだ身体を振るわせている。
「怖い。お家に帰りたい。寒い、寒いよ。ここはとても寒いよ、お母さま」
ああ、これは再起不能かもしれねえなあと信盛は思う。
「救護班、医務室に運べ。しばらくゆっくり寝てもらえ」
信盛は救護班に指示を飛ばす。細川は担架に乗せられ運ばれていくのであった。