ー戦端の章 4- 筋肉の神に愛された男
「いやッスよ!俺をこの若さで殺すつもりッスか!」
前田利家叫ぶ。がっぷりよっつに組むだけで死ぬとかわめくって、どういうことよと小春は思う。いくらなんでも言いすぎだろうと。
「はははっ。利家殿。それでは、奥方さまたちが利家殿を弱いと思ってしまうでござるよ。ここはひとつ、やってみたらいかがでござる?」
家康がはやし立てる。だが、利家は断固拒否の構えだ。
「いっとくッスけど、勝家さまは人間をやめているッス。たとえ、松に情けないと思われても、いやなものは嫌ッス」
「あら、利家さん。戦う前から逃げだすとは、これはいかに。お前さんをそんな情けない男に育てた覚えはないのでありますよ」
利家の嫁、松が言う。それでも、利家は言うことを聞かない。
「そこまで言うなら、ちょっと待つッス。身代わりを連れてくるッス」
利家が席を立ち、どこかに行く。一体、誰を連れてくると言うのか。
5分後、利家は明智光秀を呼んでくる。
「ふひっ。信長さまからの火急の用事と聞き、はせ参じましたがどうしたのでございましょうか」
「信長さまが、勝家殿と、がっぷりよっつになってほしいってことッス。相撲の予行演習ッス」
「ふひっ、そんな件でございましたか。僕はこう見えても、岐阜にいたころは相撲の神童とよばれていたでございます。倒してしまっても構わないでございますか?」
ほうと信長は息をつく。
「光秀くん。こっそり、相撲大会の優勝を狙っているのですね」
「はい。不肖の身ながら、優勝して女の子にモテモテになりたいでございますからね」
「では、勝家くんを倒したら、先生から金一封を出しましょう。ついでに、女の子も紹介しますよ?」
「ふひっ。いいのですか。そんな約束をしても。とびきりの美女をご用意してもらうことになるでございますよ」
光秀はやる気満々だ。着物の上をはだけ、その身体を皆に披露する。光秀の身体は筋肉でひきしまり、美しさも感じる。
「ほう。言うだけあって、美しい筋肉ですね。相当、鍛え上げたものだと思います」
信長が素直にそう感心する。
「ふひっ。忙しい身ではあれ、毎日の鍛錬は欠かしていないでございます。それに、織田家に来てから栄養たっぷりの食事もいたしていますゆえ、僕の身体は日々、進化しているでございます」
光秀は自信にあふれている。よっぽど、相撲の腕に覚えがあるからだろう。だが、周りの男連中はニヤニヤが止まらない。
皆は邪魔にならないよう机を移動させる。何が始まるのかと、周りの兵たちも騒ぎ出す。
「おい、光秀さまが勝家さまと相撲をとるんだってよ!」
「え、相撲大会は明日なんだぶひい。何をしてるんだぶひい?あのひとたちは」
「弥助は思うのデス。光秀さまの筋肉は1日そこらで出来上がるものではありまセン。これはいい勝負になるのデス」
「ううん。だけど、勝家さま相手だろ。いくらなんでも、ぶが悪いんじゃないのか?」
「じゃあ、僕は光秀さまに一カ月分のお小遣いを賭けるんだぶひい。彦助をすっからかんにしてやるんだぶひい」
「ええ!俺も大穴狙いで光秀さまに賭けようとしてんのに。ずるいぞ」
「はやいもの勝ちなんだぶひい」
周りの兵士たちも声を上げる。そして、賭けが行われ、オッズは光秀3対、勝家7であった。その結果に光秀は不満な顔をする。
「ふひっ。織田の方々は、僕が新参者ゆえ、実力がわかっていないでございますね。勝家さまに賭けたものたちには悪いですが、勝たせていただくでございます」
「ガハハッ、その意気や良し。我輩も久々に本気を出そうというものでもうす」
「お前さま。くれぐれも殺してはいけないのでありますよ」
香奈が勝家に言葉をかける。なあに案ずるなと勝家が応える。
勝家が席を立ち、光秀と見つめ合う。
「ふひっ。服を脱がないのは、余裕のあらわれでございますか?」
「なあに、今から脱ぐから心配せずともいいでもうすよ」
勝家が立った姿勢から、足を広げ、腰を少し落とす。そして両腕を天高く掲げる。
「ふんっ!!」
びりっと何かが裂ける音がする。光秀は何の音かと思う。しかし、次の瞬間、何の音か判明する。
勝家の着物が、彼の筋肉が膨張するのに耐えきれず、細切れに四散したのであった。
「えっ?」
思わず、光秀は疑問符を発する。
「待たせたのであったでもうす。さあ、一番。この勝家と死合おうではないか」
小春は見た。勝家の背中の筋肉が膨張していく様を。これは死人が出る。小春の脳裏にそう浮かぶのは自然なことであった。
「ちょっと、勝家さま。そこまででいいじゃないかい!」
「ガハハッ。男と男の勝負に女性が口を出すは、無礼なこと。そこで黙って見てもらうでもうす」
「ほっほっほ。小春さん、うちのがああなっては、誰も止めることはできませぬ。光秀さんにそれ相応の自信があることを祈りましょう」
「香奈さん、あんた、それでいいのかい。ひとがひとり死ぬかもしれないっていうのに」
小春が取り乱す。信盛は、不謹慎ながら、その慌てる姿も存外、可愛いものだと思う。
「なあに。光秀のほうを見てみろ。あいつはやる気だ」
男と男が勝負をする。それは、時には死を覚悟する時がある。光秀は人間だ。だが、同時に一介の将である。死線は戦で何度もくぐりぬけてきた。
「ふひっ。勝家殿。相撲は筋肉の量できまらぬでございます」
光秀は威勢を張る。背中から絶えず冷や汗が出る。だが、それすら気持ちいいと彼はそう感じるのである。
「光秀のやつ、すごいッス。勝家さまのあの筋肉を見ても、闘志を捨ててないッス」
利家は、光秀を侮っていた。ビン底眼鏡のやつのどこにそれだけの闘志を隠しもっていたのかと感心する。
「先生も光秀くんの評価を変えざるおえませんね。勝家くんと対峙すること、それだけで命は削りとられます」
なら止めろよと、諸将の奥方連中は思う。だが、声にはならない。相撲は神聖な儀式なのだ。それを割って入ることなど、神すら許されない。
「ふひっ。では、いかせてもらいもらうでございますよ、勝家さま」
「おう。この勝家に向かってきたこと、生涯の誉れとするがよい」
2人を見守る観衆は固唾を飲む。鎮まりかえった会場において、その唾を飲む音すら、まわりに響きそうである。
行司役の信長が配を掲げる。
「両者、みあってみあって」
光秀と勝家は両手を空に構える。2人の気は膨れ、観客はその気に圧せられる。
「はっけよい、のこった!」
2人は、がっぷりよっつに組み合う。
光秀はこのとき、ひとつの失策を犯したことに気付く。勝家の肌に触れる手は異質なものを触ったという感触だ。この相手とがっぷりよっつに組んではいけなかったのだ。
勝家のしたことは簡単なことだった。ただ、光秀を優しく抱擁したのであった。
その抱擁はただ優しく、菩薩の抱擁であった。光秀は、両目から何かがあふれてくるの感じる。そう、これは涙だ。涙が自然とあふれてくる。
「ふぐう!ふぐう」
光秀は、自分が涙を流すことに必死に抗おうとする。その抗いは声にならない音を口から出すことになる。光秀の顔は涙を流しながら、鬼の形相となっていく。
対して、勝家の顔はただ優しいものと変わっていく。いとおしい赤子を抱く、母親のようであり、菩薩の顔であった。
やめておくれ。そう声を上げそうになる小春であった。だが、声は口からは出ない。小春は信盛の方を向く。信盛は神妙な顔つきであった。信盛は、そっと、小春の手を握る。その手は暖かかった。
光秀の姿は、勝家の筋肉に包まれていき、その姿は段々、見えなくなっていく。光秀がふと、動かなくなってしまった。
光秀の両の膝が折れていく。ああ、終わりの時間がきてしまったのだ。誰もがそう見ていた。だが、光秀はの心はまだ折れていなかった。
「ふぐおおおおお!」
折れかけていた心を必死に鼓舞する。前に出ろ。僕の足よ。日々、鍛錬に耐えてきた、僕の全身の筋肉よ。動け、ただ動け。
光秀の右足が前に1センチメートル動く。続けて、左足を1センチメートル動かす。光秀は、勝家の死の抱擁を受けながらも足を動かす。足掻く。もがく。
「お、おい、アレ、どうなってんだよ」
ほんの僅か、本当にほんの僅かであるが、勝家の身体が後退しているのだ。まだ、光秀は死んではいない、生きているのだ。
「ふぐぐぐぐおおおお!」
2センチメートル。3センチメートル。光秀は前へ、前へ突き進む。勝家は、ふむと息をつく。
「光秀よ。大義であった。もう休め」
勝家は、ほんの少し、力を強めた。今度こそ、光秀の膝が完全に折れる。そして、彼の両ひざは地面につく。
「そこまで。勝者、勝家くん」
行司役の信長が試合を止め、勝者の名前を告げる。
観衆からまばらに拍手が起こり、それは喝さいへと変わっていく。それは、勝者の勝家へ送られたものなのか、果たして、果敢に挑戦を諦めなかった光秀に対してなのか。
勝家は抱擁を緩める。光秀の身体は前のめりに地面につっぷす。もう立つ力すら、光秀には残されていなかった。
小春は流れてくる涙をぬぐう。ああ、相撲とはこんなに綺麗でいて、残酷なものかと。勝負ごとには必ず勝ち負けがつく。彼らは力を出し尽くしたではないか。では、両者が讃えられるべきではないのか。
10分後、目を覚ました光秀が身を起こす。
「光秀くん。無理をしてはいけません。まだ、寝ていなさい」
「ふひっ。僕は負けてしまったのですね」
止まったはずの涙がまた、両の目からあふれてくる。
「僕は鍛錬に酔っていたのでございます。上には上というものがあるのでございますな」
誰に言うとでもなく、光秀が言葉を発する。
「勝家殿に対して、光秀、お前は頑張ったよ。さあ、涙を拭きな」
信盛が、光秀に手ぬぐいを渡す。渡された手ぬぐいで、光秀は顔を拭く。
「あれ、おかしいのでございます。拭いてもふいても涙があふれてくるのでございます」
負けたことへの悔し涙であろうか、それとも、筋肉の神に愛された勝家との勝負ができたことへの嬉し涙であろうか、彼の涙は止まらない。
「泣いとけ、光秀。泣いた分だけ、男は強くなるもんだ」
信盛は、よしよしと光秀の頭を撫でる。
「僕は強くなりたいでございます。信盛さま」
光秀は強くなりたい。ただ、そう思うのであった。