プロローグ
松本宏一、33歳。
異世界から転移してきた女騎士に恋して十年が経ちました。
宏一は畳にうつ伏せになったまま顔だけを横へ向けた。
台所で料理をするマリアの後ろ姿をぼんやり眺める。
手伝わねばと思うのに立ち上がる気力がわかない。
(畜生、今日も好きだ……)
ここ何日か伸ばしっぱなしで手入れをしていないひげが、畳に擦れる。
落ち込む宏一を心配し、とりあえず胃に何か入れれば元気が出るだろうと、料理をしてくれているのだ。
純和風の古い家に不釣り合いな、ひとつに束ねた天然の金髪。白い肌。
(キレーだなぁ)
ぼうっと見惚れていると、不意にマリアが振り向いた。
次の瞬間、お玉が飛んできた。
「痛っ!」
「あと何日ぼーっとし続けるつもりだ。全く覇気がない。病院をクビになったくらいで何だ? お前は守るべきものを守ったんだ。誇れ」
(……化粧?)
腰に手を当てるマリアを見て、今日は珍しく化粧をしていることに今さら気づく。
吸い込まれるような碧眼には控えめなラメが乗っていた。
……誰かに会う予定でもあるのだろうか。
「……うん」
額をさすりながら身を起こす。
「調理器具で殴っても怒らんとは。全く重症だな。しっかりしろ、マツモトコーイチ!」
居丈高に叱る姿はまるで嫁のようだ。 だが、物凄く赤の他人である。
なんせ、生まれた世界すら違うのだから。
宏一が大学を卒業する年。
異世界から、女騎士マリアと幼い少年が突然この家へ現れた。
聞けば勇者に選ばれ命を狙われる少年を守るため、地球へ逃げ延びてきたという。
血を流した女騎士と、怯えて何も話せない子供。
放り出すことなどできるわけがなく、応急処置をし、熱を出したので看病し、そのままずるずると面倒を見ることになった。
マリアは見た目よりずっと若かった。
地球とは一年の日数が違うため正確ではないが、向こうの暦で換算すると、まだ二十歳にも満たなかった。
それなのに、右も左も分からない異世界で、たった一人で子供を育てようとしていた。
だから、祖母から相続したボロ家の敷地内にあるボロアパートへ二人を住まわせ、日本の常識を教え、仕事を探し、子供には学校の勉強を教えた。
気づけば家族みたいになっていた。
(駄目だ、寂しい……)
子供が巣立った後の親とは、こんな気持ちなのだろうか。
少年――裕翔は一年前、勇者として戦うため元の世界へ帰った。
そしてマリアだけが、この地球に残った。
彼女はもう二度と祖国へ帰れない。
異世界を安全に渡る方法は失われ、勇者と対をなす魔王だけが世界を越えられる存在だからだ。
高校を卒業し、戦うため元の世界へ帰った裕翔とは違い、覚悟を決めて片道切符でこの世界へやって来たマリアは、今やすっかり地球に馴染んでいる。
アニメも日本食も大好きで、典型的な外国人をやっているくらいには。
紛争があったヨーロッパの小国から、姉夫婦の遺児を連れ、日本人だった義兄の親戚である松本家を頼って来日した――そんな設定も、今ではすっかり板についていた。
固い言葉遣いも、外国人特有のものだと微笑ましく受け入れられている。
もっとも、近所には宏一と国際結婚していると勘違いしている人もいるらしいが。
それならば、どんなによかったか。
これまでのことをマリアは感謝してくれているらしく、こうして毎日のように家事を手伝いに来てくれる。
激務だった宏一にとって、帰れば温かい食事があり、家が片付いている。
それがどれほどありがたかったか。
今だって、仕事をクビになった宏一を心配して様子を見に来てくれている。
最近新調したらしい真っ白なフリルエプロンがよく似合う。
出会った頃は大人びて見えたが、今では年齢が外見に追いついた。
十年経った今も、変わらず美人だ。
シンプルな白いシャツに、今日は珍しくスカートを穿いている。
尻のラインが分かるだけでなく、しなやかな筋肉のついたふくらはぎが覗いていて悪くない。
(裸エプロンならもっと……)
新妻のマリアが裸エプロン姿で、仕事帰りの宏一を迎えてくれる。
『ご飯にする、お風呂にする、それとも私?』
そんな妄想が頭をよぎる。
オッサン臭い妄想だが、十年も片思いを拗らせているのだ。 考えるだけなら自由である。
宏一だって、そこまで悪くないはずだ。
医師免許は持っているし、激務だったとはいえ身だしなみにも気を遣ってきた。
MRの綺麗なお姉さんに、
『先生ってイケオジですよねぇ。素敵ですぅ。ところで、うちの医薬品なんですが』
などと言われたこともある。
そこまで考えて、ふと泣きそうになった。
三十を過ぎてから涙腺が妙に緩い。
仕事はクビになった。
イケオジも営業トークだ。
マリアに男として見てもらえる気配もない。
こんなに見つめていても、警戒すらしてもらえない。
そのことが少し寂しくて、それでも変わらず信頼されていることが嬉しかった。
何より、息子のように思っている裕翔が心配だった。
そうだ。
自分よりも、マリアのほうがよほど辛いだろう。
祖国には魔王だけでなく、ドラゴンをはじめとする強大な魔物が跋扈しているらしい。
宏一にとっては想像の産物でも、マリアにとっては現実だった。
どれほど恐ろしいか、身をもって知っている。
「すまん。俺が悪かった」
仕事を一つ失ったくらいで、いつまでもクヨクヨしている場合ではない。
マリアのためにも、前を向かなければ。
「お、おう。急にどうしたのだ? 立ち直ったならよかったが」
小首を傾げるマリアに、宏一は立ち上がって歩み寄る。
マリアに慰めてもらっている場合ではない。
裕翔のことを心配している彼女に、これ以上負担をかけてどうする。
「あのさ、俺、仕事探すよ」
業界に顔が利く病院長に目をつけられた以上、医師として再就職できる可能性は低いかもしれない。
どうせなら一発殴ってやればよかった。
そんな若さがもう残っていないのが、少し悔しい。
それでも前を向こう。
就職先が決まったら告白しよう――いや、駄目だ。
その逃げ癖が、十年間何も変えられなかった。
マリアは美人だ。
誘う男はいくらでもいる。
今日は珍しく化粧までしている。
……誰かに会う約束でもあるのだろうか。
そう思っただけで胸がざわついた。
もう待てない。
「マリア、俺は――」
ドドドドドドドド!
突如、大きな音が響き、宏一は固まった。
マリアもまた固まっている。
(地震か?)
いや、この音と振動には覚えがあった。
(まさか……!)
宏一は咄嗟にマリアの前へ飛び出し、その体を抱き寄せる。
「コーイチ、離せ!」
「駄目だ、離さない!」
宏一の腕の中で、マリアは後ろ手に包丁を握る。
亡き祖母が愛用していた、一番高価な肉切り包丁だ。
切れ味は折り紙付きである。
期待と不安が入り交じる。
いや、期待のほうが大きい。
それでも万が一に備え、宏一は拳を握り締めた。
(どっちだ……!)
あの日と同じように、異世界と地球を繋ぐ大きな石の扉が床に現れる。
ゴゴゴゴと音を立て、本来なら畳があるはずの床がゆっくりと左右へ開いていく。
やがて、扉の下から誰かが舞台のセリのようにせり上がってきた。
無傷で異界を渡れるのは、向こうの世界に二人だけ。
魔王か。
それとも――
「裕翔!」
「ユート!」
一年ぶりの裕翔だった。
日に焼けた肌。
ファンタジーらしい豪奢な装備。
腕には力強い筋肉がつき、身長も伸びている。
わずか一年で、少年はすっかり逞しい青年へと変わっていた。
裕翔は片手をひらりと上げる。
「やっほー。ただいま! マリアさん、宏一さん! …………あ」
裕翔が二人を見比べるように視線を動かした。
抱き合ったまま固まる宏一とマリア。
気まずそうに目を逸らされる。
「……お邪魔しました。帰りまーす」
そのまま再び異世界へ戻ろうとする。
まるで親のラブシーンを見てしまった子供のような表情だった。
そこでようやく、宏一とマリアも自分たちが抱き合ったままだと気づく。
どちらからともなく、ぱっと手を離した。
「待て待て待て待て! 裕翔!」
「待って、ユート!」
慌てて二人、石の扉へ駆け寄ったのだった。




