継がれる意志
戦国時代最大の事件の幕が閉じた。そして時は進み… …
時は戻り、それから30年の月日が過ぎた京都慈照寺にて… …。
あれほど降り続いていた雨は既に上がっていた。外には先ほどまで空を覆い尽くしていた厚い雲が痕跡も残らずに飛散し、今は三日月と星々が天を仰ぐ美しい夜空が広がっている。まるでこれまで何もなかったかのように空は晴れ晴れとしていた。
「やはり……、十兵衛ではなかったのですね。安心しました。とても長かった私の心の中の霧も、ようやく晴れたように感じます。でも、どんな雨もいずれ上がるものなのですね。まるで今日の天気のように… …」
一連の話を聞き終えた養華院は、ホッとしたように囁いた。
「真実をお伝えするのに永き刻を刻ませてしまったな。申し訳ない。一見、突発的に起こったとも思える本能寺の一件であるが、実は綿密な戦略と調査の上に成り立っていたのじゃ。秀吉らが何気なく要請した鳥取城攻略での援軍も、明智軍や細川軍らの兵力を見極めるためのもの。その時より石田三成による罠は仕掛けられていたのじゃ。また、水攻めを受けた清水宗治は、最後まで秀吉との講和に反対した毛利の忠義者。秀吉に与することで毛利に未来がなくなることを危惧したのであろう」
天海は縁側から臨む星空を見上げながら、遠い過去を想起したのだった。
「前久公はその後どうなったのでありましょうか」
と、深海は前久の安否を気にかけた。
「彼は逆賊、明智に協力したと秀吉に難癖を突き付けられてな、徳川家康公の庇護を求めて駿河に下向していきおった。それから数年後、前久と名乗る者が現れては政務をこなしていたらしいが、当の本人の消息は実のところ不明じゃ」
「そうでありましたか。心配でありますね」
「そうでもなかろう。そろそろほとぼりも冷めた頃合。その者なら直に戻ってきそうじゃよ」
「だと良いのですが……。もし前久公がご健在なら、彼は今の家康公による国造りをどう思われているのでしょう」
「信長殿と語らった国のあり方のことじゃな。家康公の目指す国造りは、ある意味で理想形を具現化しつつあるように思われる。ただ一つ、今なお大坂城に残る豊臣家が問題であるな。関ヶ原の戦以降、家康公という唯一の求心力を持つ大名に纏まろうとする動きを内から妨害しておる。大坂が存在する限り、またまだ信長殿の目指した国造りは完成せぬであろう。それに家康公は、世界には飛び出さぬ方針の様じゃ。信長殿とは間逆の方針よ。しかしそれも良い。民が住みやすい世界こそが良き国である。これも天下布武のひとつのカタチであろう。養華院殿もそうは思わんかね」
「そうでありますね。私には政治のことは良くは分かりませぬが、きっと大きく違う事はないのでありましょう」と、養華院は目をふすめながら微笑えみ、そして各々は寝床へと散会した。
翌日、養華院が飛騨に旅立つ挨拶をしに天海の病床を訪れると、深海は手土産と称して二つの包みを差し出した。
ひとつは竹の皮に包まれた昼食用の握り飯、そしてもう一つは小奇麗な小さな木箱だった。深海はそれらの手土産を渡すと、朝の手仕事をしに東求堂から出て行った。
養華院は手渡された木箱を開けた。中には昨日、深海が肌身離さず使っていたという可愛い茶入れが入っていた。
「深海殿、いえ――、森成利の記憶は戻っていたのですね」
「それは分からぬ。昨日の話を聞いて記憶を取り戻したのか、初めから記憶など失くしていなかったのか。彼は賢い男であるからな。さすが信長殿が最後までそばに置き、面倒をみた男じゃよ。しかし、そなたにその唐物茶入れを譲ったということは、信長公の意志をくみ取ったと考えて良いのではないかな」
「そうですね。きっとそうだと思います」
養華院はその唐物茶入れを、しばらく黙って見続けた。その光景を見た天海は、ひとつの戦国の世が終わったとばかりに、ホッと肩をなでおろした。
「あなた様はこれからどうされるのでありますか」
養華院が天海に尋ねた。
「拙僧は予定通り深海に“天海”の名を譲った後は、久々に近衛家に戻り、そして残りの余生を全うするつもりじゃよ。そう言うそなたはどうされるのじゃ」
「私も残り少なき寿命でありますよ。旦那様が残したこの九十九髪茄子と共に、旦那様の意志をつなぎとうございます」
「うむ。ではまたいずれ、あの世で会おうぞ。帰蝶殿」
「はい。その時は旦那様とご一緒にお酒でもいかがですか。前久様」
戦国の世は闇に消える霧がごとし。
昨日絶え間なく降っていた雨は夜明け前に止み、空は晴れ渡っていた。東求堂から見える木々には新たな蕾が芽吹き、そよ風が頬を伝う。
この数日後、戦国の世に旋風を巻き起こした異端の元関白・近衛前久は他界、養華院も二か月後にこの世に未練を無くしたかのように後を追った。
深海はその後『天海』と名乗り江戸幕府の礎を築くと、天下布武の片鱗を見定めたかのように一六四二年、その生涯を閉じた。
おわり
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