1.紫の瞳
春先の冷たい風が、孤児院の古びた門を静かに揺らしていた。
荷物を抱えた少年少女たちが、世話人へ別れの挨拶を交わしていく。その中で一人だけ、今にも泣き出しそうな顔を浮かべている少年がいた。
「ナクト、そんな顔するなよ。これから学校だぜ?」
金髪の少年――ジーンは、隣に立つナクトの頭を乱暴にわしゃわしゃと撫で回した。
「う、うぅ……」
情けない声を漏らしながら、ナクトは肩を縮こませる。
「ジーン、やめなさい。ナクトが困ってるでしょ」
呆れたように息を吐き、黒髪の少女――リゼアがジーンの手をぺしりと払い落とした。
そのまま彼女は、心配そうにナクトの顔を覗き込む。
「大丈夫? ナクト」
「……うん。ありがと、リゼア。でも、ジーンのせいじゃないんだ」
ナクトは申し訳なさそうに視線を落とした。
「ぼくが……勝手に怖がってるだけだから」
そう言うと、彼は耐え切れなくなったようにその場へしゃがみ込み、膝を抱える。
リゼアはそんなナクトを見た後、じろりとジーンを睨みつけた。
「だから言ったじゃない」
「えぇ!? おれ悪くねぇだろ!?」
納得いかない様子で声を上げるジーンだったが、すぐに困ったように頭を掻くと、ナクトの前へしゃがみ込んだ。
「……なあ、ナクト」
ジーンは真正面からナクトを見つめる。
「おれたち、ずっと一緒だっただろ?」
「……うん」
「だったら大丈夫だ。学校行っても、もし何かあっても、おれが守ってやるからさ」
まるで太陽みたいに笑うジーンを見て、ナクトは小さく目を見開いた。
その隣でリゼアも優しく微笑む。
「私もいるわ。だから、一人で抱え込まないこと。分かった?」
二人の顔を交互に見つめた後、ナクトはようやく小さく笑った。
「……ありがと。ぼく、頑張ってみるよ」
ジーンが立ち上がり、大きく背伸びをする。
「よーし! じゃあ未来の騎士団様が出発してやるか!」
「まだ学校にも入ってないでしょうが」
「細けぇことはいいんだよ!」
リゼアの呆れ声と、ジーンの笑い声が重なる。
ナクトはそんな二人を見つめながら、孤児院の方を振り返った。
玄関前では、世話人たちがどこか寂しそうに手を振っている。ナクトはぎこちなく手を振り返し、それから小さく息を吸った。
国の外れにある孤児院は、広い田畑に囲まれた小さな農村の中にあった。今日は雲一つない快晴――とはいかず、灰色の雲が空一面を覆っている。まるで、これから始まる未来への不安を煽るような空だった。
ナクトたち三人は、魔法学校のある街へ向かっていた。
孤児院から三十分ほど歩いた先に、小さな汽車駅がある。街へ行ったことがあるのはリゼアだけだ。
先頭を歩くリゼアの後ろを、ジーンとナクトが続いていく。
「おーい!」
道中、ジーンは畑仕事をしている農夫や、すれ違う村人たちへ大きく手を振っていた。
「行ってくるぜー!」
無邪気に笑うジーンとは対照的に、ナクトは俯きがちに歩いている。靴先で小石を転がしながら、とぼとぼとした足取りで後を追っていた。
道端に潰れた小鳥が落ちていた。ジーンは気にも留めず通り過ぎる。リゼアも一瞬視線を向けただけだった。
だがナクトだけは、何故か足を止めた。その小さな亡骸から目を離せない。
――寂しい。
ふいに、そんな感情が胸へ流れ込んできた気がした。
「そろそろ着くわよ」
リゼアが振り返りながら声をかける。するとジーンはぱっと顔を輝かせた。
「おっ、本当か!? おれ、汽車なんて初めて乗るぜ!」
「……ぼくも」
ナクトも小さく呟く。
「ちゃんと、お金足りるかな……」
不安そうに、擦り切れた財布の中を覗き込む。中には、何度も折り曲げられた紙幣が数枚入っているだけだった。
そんなナクトを見て、リゼアは呆れたように肩をすくめる。
「大丈夫よ」
そう言って、彼女は内ポケットから一つの封筒を取り出した。
「世話人のみなさんが、ある程度持たせてくれたから」
封筒は思ったよりも厚い。
リゼアが少しだけ得意げに口角を上げると、ジーンは「おおーっ!」と目を輝かせた。
「さっすがリゼア! 頼りになるな!」
「アンタたちが心配すぎるだけよ」
リゼアは呆れ半分に息を吐く。その横で、ナクトは封筒を見つめながら、小さく胸を締め付けられていた。
――期待されている。孤児院のみんなが、自分たちの未来を願って送り出してくれた。
汽車の中は、思っていたよりもずっと空いていた。石炭の焦げた匂いが車内に充満しており、慣れないナクトは思わず眉を寄せる。
蒸気の熱気も混ざり合い、どこか息苦しかった。
「とりあえず座ろうぜ!」
ジーンは楽しそうに声を上げると、窓際にある四人掛けの向かい合わせ席を指差した。
三人は荷物を置き、それぞれ席へ腰を下ろす。
汽車がゆっくりと動き始めると、窓の外の景色もゆるやかに流れ始めた。
見慣れた田畑。風に揺れる麦畑。ぽつぽつと並ぶ農家の家屋。
けれど、進むにつれて景色は少しずつ変わっていく。民家の数が増え、人通りも目立ち始めていた。
「私たち、どんな魔法が使えるようになるんだろうね」
窓の外を眺めながら、リゼアがぽつりと呟く。普段は冷静な彼女の声も、今日はどこか弾んでいた。
「おれは断然、炎系統だな!」
ジーンは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「炎をまとった剣士とか、絶対かっこいいだろ!」
「単純ね……」
リゼアは呆れたように笑った。
「私は正統魔法なら何でもいいわ。どんな魔法でも絶対にものにしてみせる」
その言葉には、強い自信が滲んでいた。ジーンとリゼアの会話は、未来への期待でどんどん熱を帯びていく。
その横で、ナクトは静かに窓の外を見つめていた。流れていく景色を眺めながら、不安を誤魔化すように指先を握り締める。
「ナクトはどうよ?」
ジーンがひょいと顔を覗き込む。
「えっ……?」
「どんな魔法使いたい?」
ナクトは少しだけ考え込み、小さく視線を落とした。
「……なんでもいいかな。でも」
そこで言葉が詰まる。
「闇魔法は、嫌だな……」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。するとジーンが、少し意地悪そうに笑う。
「えー? ナクト、割と闇魔法似合いそうだけどな」
「ジーン!」
リゼアがすぐさま睨みつける。
「大丈夫よ、ナクト。ここ数年、闇魔法を授かった人なんて一人もいないんだから」
そう言って安心させるように微笑むと、リゼアはジーンの脛を軽く蹴った。
「っ痛ぇ!」
「冗談でも言わないの」
「わ、分かったって! たださ、ナクトの目ってちょっと珍しいだろ? その淡い紫色とか、それっぽいなーって」
ナクトは無意識に目を伏せる。窓ガラスに映る自分の瞳が、ぼんやりと揺れていた。
「……ぼく、多分」
小さな声が漏れる。
「魔法を授かれないかもしれない」
「は?」
ジーンが眉をひそめる。
「だって、みんなみたいに“魔法を使いたい”って強い気持ちが、ぼくにはないから」
ナクトは自嘲するように笑った。
「魔法って、そういう人が選ばれるんでしょ?」
その言葉を聞いたジーンとリゼアは、顔を見合わせる。そして二人同時に、小さくため息を吐いた。
――また始まった。
そんな空気だった。
「大丈夫よ」
リゼアが静かに言う。
「ナクトは昔から強くなりたいって言ってたじゃない」
「そうだぞ」
ジーンも真っ直ぐナクトを見る。
「おれ、実はこの中で一番魔法を欲しがってるの、ナクトだと思ってるけどな」
その言葉に、ナクトはゆっくり目を見開いた。
だが、何かを返す前に――。
ガタン、と汽車が大きく揺れる。
どうやら次の駅へ到着したらしい。
扉が開くと、ぞろぞろと人々が乗り込んでくる。
黒いローブを纏った魔法使いたち。杖を携えた大人たち。そして、自分たちと同じくらいの年頃の少年少女。
車内は一気に騒がしくなった。
その光景を見た瞬間、ナクトの胸の奥で、不安がじわりと膨れ上がる。
自分だけ、違ったらどうしよう。握った手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。
窓ガラスに映る自分の瞳。淡い紫色のそれが、一瞬だけ黒く染まる。その奥で、何かがざわついた気がした。ナクトは思わず振り返る。だが、車内にそんな気配はない。
「……ナクト?」
リゼアの声で我に返る。
気づけば、ナクトの爪は自分の手のひらへ食い込んでいた。




