苦渋の撤退
中央軍事委員会副主席(上将)は、静かに続けた。
「主席……撤退の判断を……お願いいたします。
これ以上犠牲を増やせば、中国の未来そのものが危うくなります。」
会議室は、完全な静寂に包まれた。
趙建国国家主席は、長い間、目を閉じたまま動かなかった。
その肩は、わずかに震え、息遣いが荒くなっていた。
先ほどまでの傲慢で自信に満ちた表情は、完全に崩れ落ち、代わりに額には脂汗が浮かび、唇は血の気を失って青ざめていた。
彼は、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、怒りと狼狽、そしてこれまで味わったことのない敗北感が、はっきりと浮かんでいた。
「……撤退を、認めるのか?」
声は低く、かすれ、ほとんど聞き取れないほどだった。
東部戦区司令員(上将)が、苦渋を滲ませながら進み出た。
「主席……現実を直視しなければなりません。
日本海軍連合艦隊は、我々の大規模飽和攻撃を98%近く迎撃しました。
残った15%も、ほとんどが軽微な被害に留まっています。
一方、我々は駆逐艦・フリゲートの4割を失いました。
これ以上攻撃を続ければ、空母までもが露わになり、全滅は避けられません。」
趙建国は、血走った目で司令員を睨みつけた。
「全滅だと?
我々が……世界最大の軍事大国である我々が……小さな島国に全滅させられるというのか?!
ふざけるな!!」
彼は机を両手で叩きつけ、声を荒げた。
その音が、会議室に激しく響き渡った。
「即時反撃だ!
残りの全兵力を投入して、日本艦隊を海底に沈めろ!
小日本など、すぐに全滅するはずだ!!」
しかし、その命令に対して、誰も即座に返事をしなかった。
中央軍事委員会副主席が、重い声で言った。
「主席……それは不可能です。
我々の艦隊は既にミサイルをほぼ撃ち尽くしています。
次の大規模攻撃を行うには、再集結と再装填に時間がかかります。
しかも……日本軍は『神風巡航ミサイル』を我が艦隊にロックオンしたままです。
弾頭は戦略級FAE多弾頭システム——燃料気化爆弾MIRVです。
一発でも命中すれば、艦内は瞬時に壊滅します。
さらに、日本の戦略型原子力潜水艦薩摩級が日本海に展開しています。
我々が核攻撃を行えば、即座に報復を受け、中国本土は壊滅状態に陥ります。」
趙建国は、ゆっくりと椅子に崩れ落ちるように座った。
彼の拳は強く握りしめられ、関節が白くなっていた。
目には怒りと、明らかな狼狽、そして崩れゆくプライドが混在していた。
「……日本に……核攻撃を……?」
彼は、かすれた声で繰り返した。
副主席が、最後に静かに言った。
「主席……我々はまだ、戦争を続けられる余力があります。
しかし、ここで無理に攻め続ければ、中国全体が危険に晒されます。
戦略的撤退を……お願いいたします。」
会議室に、再び重い沈黙が落ちた。
誰もが、言葉を発することができなかった。
国家主席の過剰な自信が、現実の軍事力の差と、相互確証破壊の恐怖の前に、ゆっくりと、しかし確実に崩れていく様子を、全員が目の当たりにしていた。
趙建国は、長い間、目を閉じたまま動かなかった。
その肩は、わずかに震えていた。
13年前、台湾を制圧したときの勝利の記憶と、今の惨状が、激しく彼の中で衝突していた。
やがて、彼は重い息を吐き、目をゆっくりと開けた。
「……撤退せよ。」
声は、低く、かすれていた。
「全艦隊に命じる……即時撤退せよ。
損害を最小限に……中国本土を守れ……」
その言葉を聞いた瞬間、会議室にいた将軍たちの間に、安堵と苦渋の入り混じった空気が流れた。
趙建国は、モニターを見つめたまま、静かに呟いた。
「日本……よくも……ここまで……」
国家主席の声は、もはや怒りを通り越して、深い疲労と、初めての敗北感に染まっていた。
東部戦区司令員が、深く頭を下げた。
「了解しました。
全艦隊に、撤退命令を伝えます。」
北京の中南海では、最高指導者を含む全将軍が、苦渋と現実の前に、ただ沈黙するしかなかった。
東シナ海では、灰色の鋼鉄の龍が、静かに、しかし確実に、次の行動を待っていた。




