<書籍発売記念SS>軍神と寝間着と娘の話
書籍化にあたって、本編には入れられなかったエピソードをお一つどうぞ。
サクラがカイに連れてこられて、二日目の晩の出来事です。
己の剣が娘を貫く。
破魔の名をいただき、魔を断つことこそに真価を発揮するとはいえ、戦においては数多の人命をも奪ってきた剣だ。
鎧一つ身に着けぬ柔らかな白い肌が鮮血に染まるのを想像することは難しくなかった。
だが、破魔の剣を身に受けた娘は一滴の紅を滴らせることなく。
一瞬の突風に囲い護られ。
やがて静かにその場に捧げられた。
そこに破魔の剣の姿はない。
ああ、破魔の剣が鞘を得たのだ。
主の手を離れ、ひと時の平穏を得たであろう剣に感じた感情はなんだったのか。
娘の処遇は、キリングシーク第二皇子正妃とすることで事なきを得た。
破魔の剣が選んだ鞘だ。
剣の使い手が望めば、それはどのような形であれ、もちろん叶えられて然るべきであろうが、それでも、事を成しえたことにカイはホッと息をついた。
これで、誰に憚ることなく剣を手元に置いておける。
あれは己が剣の鞘。
それが女の姿であるならば、もっとも強固な縁で縛れば良い。
常に己の領域に留め置くために。
それでも、その足でどこかに逃げようとするならば、腱を断てば良い。
許せぬほどに姦しければ、喉を潰せば良い。
何にせよ、今しばらくは、この件に煩わされることもないだろう。
などと思っていたカイの思惑は、しかしながら、一日目の夜に早くも覆された。
「……カイ様、これを」
湯浴みを終えたカイに、マアサが手渡したのは、薄手の寝間着である。
いつもならローブのみを羽織って寝室へ、ベッドに入るときはこれを脱ぎすてて、シーツへの潜り込む。
これが睡眠へのルーティンだ。
だが、手にあるのは、いわゆる寝間着。
シンプルな上衣と、同じ生地で仕立てられているズボン。
手触りからして素材はシルク。
しっとりと馴染む手触りは悪くない。
だが、この場合、それはどうでも良いことだ。
「……なんだ、これは」
寝間着など、ある程度の年齢に達してからは、身に着けたことなどない。
それは別段特別な嗜好ではなく、この国の多くの成人男性の習慣であるはずだ。
なのに、寝間着、だと?
「カイ様は、本日もサクラ様と同じベッドでお休みになるのですわね?」
頭一つ以上低い位置から、しっかと見つめてくる幼い頃からの世話人に、カイは頷く。
「無論。あれは俺の剣だ」
だから、手元から離すことはない。
本音を言えば、昼間も傍らに置いておきたいくらいだ。
だが、カイの答えに、マアサは小さくため息をつく。
「剣ではありません。年若いお嬢様でございますよ」
マアサはピシッと指先で、カイの手元にある寝間着を指し示す。
「昨日は気が動転しており不覚を取りましたが、もう、あのような暴挙は許しません。今夜からはそれをお召しになってお休みくださいませ」
暴挙、とは。
娘が気を失っていることを良いことに、荷物扱いで馬に積んで屋敷に連れてきたことか。
ドレスを身に着けた娘をマアサに丸投げしたことか。
娘の方こそ寝間着を身につけていたから、マアサが着替えさせたのだろうが、それがカイが寝間着を着るに至る「暴挙」というものに、どう繋がるのか。
「サクラ様が破魔の剣の鞘であることは理解しておりますし、カイ様にはお考えがあって正妃とされるのであろうことは承知しております。ですが……まだ、その時ではないとお考えなのでしょう?」
マアサの言う「その時」が、いわゆる本来の初夜を指しているのだろうと察する。
確かに、カイにはそれを今夜、とは考えない。
「そのお考えは尊重いたします。サクラ様もあまりに急なことでございましょうから」
心優しい侍女頭の考えとは裏腹に、カイのそれへの考えとしては今は必要ではない、というそれに尽きる。
娘の心内など、わずかにも慮ってはいない。
もっとも、あえて、言うべきことでもない……余計にマアサの怒りに触れるだろうことを言うこともない、と黙っているカイにマアサは言葉を続ける。
「それに……サクラ様をお側に置きたいカイ様のお気持ちも重々承知しておりますの」
ならば、そろそろ解放してくれまいか。
そう思うカイを見透かすように、マアサが再びカイをキッと見やった。
「とはいえ、今までわずかな交流もなかった殿方なのですよ、サクラ様にとってのカイ様は。そのような方の肌を目の当たりにするなど、何も知らない無垢なお嬢様に、どれほどの衝撃を与えることでしょうか!」
そう言って、マアサは目頭を押さえる。
カイを納得させるための大仰な仕草かと思いきや、その目じりにはほんのり涙が浮いている。
随分と肩入れするものだ。
確か、マアサは息子ばかり5人ほどいて、娘はいなかったはずだが、そのせいだろうか。
カイにしてみれば、あれは剣の鞘であるとの認識はあれど、それだけである。
わざわざ、自分自身の慣習を変えてまで、娘に寄り添う必要はない。
「今晩はもう寝ているだろう」
無駄な気はしたのだが、そう言ってみた。
娘を迎え入れる手続きやらなんやらで、ようやく眠りにつける態勢になった今は、もう既に夜中である。
マアサが先に寝かしつけたという娘も、この時間であれば深い眠りの中にある可能性は高い。
そっと隣に忍び込めば、それで良いではないか。
なぜ、カイが忍び込まねばならないのか、少し腑に落ちないが致し方ない。
ところが、カイの妥協案はマアサには通用しなかった。
「慣れない環境に夜中に目が覚めたとしましょう。そこにカイ様の裸です!夫になられる方とはいえ、ほとんど見ず知らずの男性の裸!」
マアサが力説する。
カイは肩を竦めた。
正直なところ、何かを身に着けて眠るというのは、なんとなく野営を思い出して落ち着かないのだ。
安全と思える領域で、ゆっくりと身を休めるためには、それが望ましい。
だが、マアサの断固とした態度に問答をすることの労力を惜しむ。
「……分かった。これを着れば良いのだな」
バスローブを脱ぎ、用意された寝間着を身に着ける。
満足げに頷くマアサに見送られて、カイはようやく寝室へと足を進めた。
ノックをせずに入った部屋は、わずかな明かりが灯されている。
夜目がきくカイには不要なものだが、これもまた、慣れない環境に放り込まれた娘を気遣ってのマアサの采配であろう。
もともと足音を、気配を消すことに慣れている身であれば、意識せずとも娘を起こさずにベッドへと近づくことに成功する。
ベッドに横たわろうと思いつつ、そうはいってもやはりこの寝間着は寝苦しい。
マアサの目はないし、娘は寝ている。
逡巡は一瞬たりともなくカイは上衣を脱いでベッドの上に放る。
半身だけであっても、解放感に息をつきながら、娘を覆うシーツをそっと剥ぎ、その傍らに横たわってシーツを己と娘の身に掛けたその瞬間。
パチッと娘の瞼が上がる。
起きた。
カイが思った瞬間。
「……っ……っ……」
娘は声なき声を上げて、がばりと身を起こした。
その拍子にカイの身を覆っていたリネンがふわりと舞い上がり
「……っ!……っ!……」
露わな上半身を目にしたのであろう娘はさらにパニックになった。
見てはいけないというように、目元を覆うと、そのまま顔をシーツに押し付けるようにして丸まってしまった。
身に着けているものが締め付けのないワンピース形の寝間着のせいか、そこにはいるのはまさに恐怖に身を縮ませる幼子そのもの。
なるほど、マアサの言う通り。
カイはこの娘にとっては恐怖の対象か。
帝国の双璧。
漆黒の軍神。
そう呼ばれ、畏怖の対象とされることには慣れたつもりでいた。
いや、実際にここが謁見の間であり、戦場であったならば、カイは目の前に在る怯えて縮こまる者たちに何の感傷も抱かなかっただろう。
だが、この私室のベッドの上、敵意もなければ害意もないか弱き存在に、こんな風にひたすら怯えられるのは思った以上に、カイの心の隅っこに残る柔らかな部分に突き刺さった。
マアサの言う意味を、ここにきてカイは現実として受け止める。
この娘にとって、カイは交流がなかった異性であると共に、より脅威の対象だ。
絶対的な権力を持つ略奪者なのだから。
今晩は同じベッドに眠るのは諦めて、隣の部屋のソファに横になるか。
剣を側に置きたい気持ちはもちろんあるが、この娘を妃として迎え入れる状況は整っているのだ。
今は、それで良しとするべきだろう。
そう決めて、ベッドを降りようと身じろげば、揺れにそれを察したらしい娘が、慌てたように
「お待ち下さい」
カイを留める。
とはいえ、声は震えているし、顔を上げることはない。
「申し訳ございません……大丈夫です……あの、どうぞ……」
震える声で、縮こまったままの姿で、大丈夫と言われても。
大丈夫な気がしないカイの視界の隅に、さきほど脱ぎ捨てた上衣。
カイはそれを手に取り、改めて身に着けた。
正直なところ、この布一枚をまとうだけで、どれほど娘の恐怖心が薄らぐのか分からない。
それでも、ここはカイが妥協すべきところだろう、と。
「……お前も横になれ」
きっちりと上衣を着こんで、声をかける。
娘はピクリと肩を揺らした。
カイはそれ以上は促さない。
先ほど考えたように、娘がどうしても受け入れられないのであれば、執務室で眠れば良いのだ。
見守るカイの前、さほどの時間を置くことなく、娘はそろそろと顔を上げ……寝間着を身に着けているカイを見て、ぱちくりと目を瞬かせた。
そして、その体から少しではあるが、強張りが解けるのも見て取れる。
「寝るぞ」
もう一度、呼びかけ、今度は自ら寝台に横たわる。
さらに己の横に導くようにポンポンと叩けば、娘ははっとして動き出し、そろそろと身をカイの隣に横たわらせた。
昨晩、そして、今朝と、触れた長い髪は緩やかに三つ編みにされていて、カイと娘の間にわずかな壁を作り出す。
柔らかなその感触を思い出し、ふと、編まれたそれを解いて指に絡ませたい衝動に駆られたが、さすがに憚れて止まった。
「……ありがとうございます」
囁くようなそれは、聞き間違いでなければ礼である。
ちらりと娘を見やれば、まるで、こっちを見てはいけないとばかりに顔も体もまっすぐに上を向いている。
いったい、何についての礼なのか。
攫われて。
妻という名目を押し付けられ。
無体にも男と同じベッドで眠ることを強要されているこの状況で。
「……おやすみなさい」
沈黙のカイをどう思ったのか、娘はいくらも緊張がほぐれたような声音でそう告げてくる。
瞼は既に閉じられていて、シーツの下の胸元は思いのほか、穏やかに上下している。
「おやすみ」
これに返す言葉には迷わなかった。
娘はカイの答えに満足したのか、淡く色づく唇の端が上がったように見えた。
瑞々しい頬。
細い顎から、流麗な線を描く首元。
長いまつげが縁取る瞼の下にある瞳は何色だっただろうか。
確かに、これは若い娘。
だが、やはりカイにとっては、剣の鞘。
こうして傍らに横たわっていたところで燻る欲はなく、当然ながら抑えるものは何もない。
カイの視線を感じているのか、いないのか。
さきほどまでの怯えはなんだったのかというほどには、短い間をおいて、やがて、聞こえてくる娘の呼吸が眠りについたことを知らせてきた。
なるほど、と、またカイは思う。
娘の方は娘の方で、カイが肌を晒さなければすぐさま寝入ってしまえるほどには、カイに何も求める気はないらしい。
略奪者としても。
夫としても。
そのことに満足のような、どこか焦燥感のような……そんなものを抱きながら、カイは瞼を伏せた。
着なれない寝間着は、なかなかにカイに眠ることを許してはくれないが。
娘の中の剣は、さぞかし安穏な眠りについているのだろう。
また、あの慣れない感情が沸き上がったが、カイも、また、浅い眠りへと落ちていく。
カイが名前を付け損ねたその感情は、憧憬とか、羨望とか呼ばれるもの。
そのことにカイが気が付くのは、時を経て娘がサクラであると認識し、気づかぬ想いや燻る欲を持て余し。
やがて、肌を晒したサクラを抱いて寄り添い眠る、安穏とした夜を迎えてからだ。




