第55話 知らなかった「老い」
面倒に思って黙っていると、
「ねぇ、これ一万五千円ってやっぱり高くない?」
と、母が再び言った。
肌は発光しているし、まつ毛は完璧だし、髪の毛までツヤツヤな美容部員さんがお辞儀をして見送ってくれたあとも、きっと私たちの無事を願っているのだろう。
少し離れた場所から、にこやかにこちらを見守ってくれている。
「ねぇ、お母さん。」
「なによ。」
「さっきの店員さんに聞こえるかもしれないから、あんまり大きい声で言わない方がいいよ。」
母にだけ聞こえるよう、小さな声で伝えた。
すると母は首を傾げた。
「え?何?」
「だから。」
私は少し近付いて言い直す。
「今の親切な店員さんに聞こえちゃうかもしれないよ。」
「あー。」
母はうなずいた。
「大丈夫、大丈夫。聞こえないわよ。」
私は呆れてため息をついた。
その瞬間だった。
ぞわり、と鳥肌が立った。
今、母は。
私の声が聞こえなくて聞き返したのか?
さっきの私は、十分近くで話していたはずだった。
聞こえない距離じゃない。
百貨店だからだろうか。
普段来ない場所で、周囲の音に慣れていないだけ?
それとも年齢のせい?
最近疲れやすいと言っていた。
以前より昼寝も増えた。
体力も落ちたと言っていた。
聞こえなかったのは、ただの偶然?
それとも——
悪い予感が次々と脳内を駆け巡る。
がん。
転移。
脳。
神経。
自分でも止められないほど、嫌な言葉ばかりが浮かんでくる。
頭がくらくらした。
すると母は、
「それより一万五千円よ。」
と言った。
まだ言うのか。
「私ね。」
母は紙袋を持ち上げる。
「この袋の中に、三十倍の眉毛が入ってるようには見えないの。」
知らんがな。
しかし母は真剣だった。
「これ全部使い切る前に死んだらどうするの?」
私は立ち止まった。
この人は。
さっきまで聞こえなかったことなんて気にもしていない。
そして今、自分の寿命とアイブロウの内容量を比較している。
私はさっきまでの不安が少しだけ馬鹿らしくなった。
けれど。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ。
母の後ろ姿が、前より小さく見えた。
母はこれから始まる治療に耐えられるだろうか。
母は、自分のことを24歳だと思っているようだが、実年齢は違うわけだ。当たり前だけれど。
母が元気な分、病気でいることを忘れてしまうし、母が歳を取るということが、こんなにも自分が恐れていると言うことを知って、少し驚いた。




