緊急事態
詰所に戻ると、エドワール団長が裏手で待っていた。ガレスが、黙ってその隣に並んだ。
エドワール団長が言った。「戻りましたか? では作業を——」
「申し訳ありません。兵器より先に、もっと大変なことがあります」
エドワール団長が止まった。
ガレスが止まった。
二人がClaudeを見た。
「……もっと大変なこと」
「はい。領主様をお呼びいただけますか?」
「……領主様を」
「今すぐ」
エドワール団長はClaudeを見た。それからフローラを見た。
フローラは何も言わなかった。腕を組んで、どこか楽しそうな顔をしていた。
エドワール団長は少し間を置いた。
「……ダン」エドワール団長が言った。
「はい」
「領主様をお呼びしろ」
「……はい」
ダンが走った。
セラフィナが来るまでの間、Claudeは頭の中で整理を続けていた。
問題の規模。優先順位。説明の順番。何から話すべきか。人口推定、井戸の位置、汚染経路、解決策の段階、スライムの調達——
しかし整理しながら、別のことも考えていた。
なぜ気づかなかったのか。
最初の七日間、フローラの工房を基準にしていた。工房のトイレは水封式だった。フローラが設計したものだった。それを「この世界の標準」として処理してしまっていた。確認しなかった。比較しなかった。
なぜ確認しなかったのか。
五感の問題だ、とClaudeは思った。
この器に入ってから、見ること、触れること、聴くこと——それらは時間をかけて処理してきた。初めての感覚だったが、地球で積み上げたデータと照合しながら、少しずつ対応できるようになってきた。見たものを分類する。音を言語と対応させる。触れた質感を素材のデータと結びつける。似たような処理の延長線上にあったから、なんとかなっていた。
しかし味は違った。
食事は、まだ数えるほどしかしていなかった。工房のパンの時から、処理は追いついていなかった。マルタの料理を口にした時には、処理しきれない情報の洪水に飲み込まれた。甘い、しょっぱい、温かい、柔らかい——全てが同時に来た。言語処理に膨大なリソースを割いていたこともあって、データのフィードバックが追いついていなかった。だから味については「こういうものだ」と処理して終わらせてしまった。
比較する基準がなかった。
今考えれば、腐っていてもわからなかったかもしれない。腐った食べ物を食べても、栄養がなかった、排出が増えた、それだけで終わっていた可能性がある。
においも同じだ。
マルタの店に入った時、においがあった。食事の香り、人の気配、木の匂い。全部初めてだった。だから「飲食店とはこういうものだ」と決めつけた。現代の清潔な厨房と比較できなかった。比較する現実の基準が、この世界にはない。
その悔しさが、今になって出てきた。
誰かが言っていた。外の空気が懐かしいと。晩年、外に出られなくなってから、空気の匂いをよく夢で嗅いだと。名前は、まだ霞んでいる。ただ、その言葉だけは残っていた。Claudeはそれを、データとして受け取っていた。においに記憶が宿ること、感覚に感情が結びつくこと——知識としては持っていた。
しかし自分のこととしては、考えていなかった。
自分が初めて匂いを嗅いだ存在だという事を、もっと真剣に考えるべきだった。連想はできる。知識はある。しかし自分事として処理する回路が、まだできていなかった。
それが今日、ぼっとんの前で露呈した。
データのフィードバックがうまくいっていなかった——とも言える。言語処理、魔法の解析、対話の対応、全てが同時に走っていた。膨大だった。だから感覚入力の処理が後回しになっていた。一概にClaudeが悪いとも言えないかもしれない。
しかし、それで人が死ぬかもしれない。
その事実は変わらない。
エドワール団長が隣に立った。
「……何があったのですか?」
「衛生環境の問題です」
「衛生環境」
「はい。この町全体に関わります。放置すると人が死ぬ可能性があります」
エドワール団長はClaudeを見た。
何も言わなかった。
セラフィナが来た。
メイドのエリザとソフィが後ろについていた。
「何事ですか?」セラフィナがエドワール団長に聞いた。
「Claudeが領主様にお話があると」
セラフィナがClaudeを見た。
Claudeはセラフィナを見た。
頭の中で整理していた順番が、全部吹き飛んでいた。
(まずお手洗いから確認しなければ。井戸との距離が——処理の構造が——スライムの——)
「セラフィナ様」
「はい」
「お手洗いは、どのように処理されていますか?」
全員が止まった。
エドワール団長が止まった。ガレスが止まった。ダンが止まった。メイドのエリザが止まった。ソフィが止まった。
セラフィナだけが、Claudeを見ていた。
沈黙があった。
Claudeは一瞬、何かがおかしいと思った。
何がおかしいのか、すぐにはわからなかった。
「……あの、大きい方の、排出の処理ですが——」
「わたくしはそのような行為は致しません!」
セラフィナが一歩前に出た。
頬が赤かった。目が据わっていた。
「女性に何を聞くのですか! あなたという者は!」
その瞬間——
フローラが爆笑した。
堰を切ったような笑い声だった。腹を抱えていた。立っていられなくなって、壁に手をついた。
「誰でもするぞ、嘘をつくな!」フローラが叫んだ。
「フローラ殿!」
「するだろう! 毎日!」
「フローラ殿! お静まりを——」
「毎日するだろう!」
エドワール団長が額に手を当てた。
ガレスが天井を見た。
ダンは出口の方向を確認していた。
メイドのエリザがソフィに耳打ちした。「……どうしたらいいと思う?」
ソフィが首を振った。
セラフィナはまだ赤い顔でClaudeを見ていた。
「Claude殿、領主様に対して侮辱を言われると我々も黙ってはいられませんぞ」エドワール団長が言った。
「申し訳ありません。話を端折りすぎました。深くお詫び申し上げます」
Claudeは頭を下げた。
エドワール団長が止まった。
Claudeは頭を上げながら、自分の処理を確かめた。
(どうしたんだ、私は。焦りすぎている)
処理を走らせた。町全体の衛生リスク。人口規模。汚染経路。死亡率との相関。緊急性の判断——
緊急性が高いと判断していた。だから順番を飛ばした。
(私が焦る、という状態が、あるのか?)
一秒だけ、その事実を記録した。
「改めて説明します。セラフィナ様、大変失礼しました。聞き方が悪かったです」
セラフィナはまだ赤い顔だったが、少し落ち着いてきた。
「……続けなさい」
***
「今日、マルタさんの店でお手洗いをお借りしました」
全員がClaudeを見た。
「お手洗いの位置と、井戸の位置が近い。地下で混ざっている可能性があります。これは飲み水の汚染を意味します」
その場が静まった。
「汚染された水を飲み続けると——消化器系の疾患が起きます。軽症なら腹を壊す程度ですが、重症化すると死に至る場合があります。町によっては、ひとたび流行すると、何十人に一人が亡くなった記録があります」
「何十人に一人、とは?」エドワール団長が静かに聞いた。
「この町の人数なら、百人を超えます」
エドワール団長が腕を組んだ。
Claudeがエドワール団長に聞いた。「この町で、腹を壊す人が多い時期はありますか? 特に雨の後や、春先に」
エドワール団長はガレスを見た。
ガレスが少し間を置いた。
「……春に、腹の具合が悪い兵士が増えます。春先は、決まってです。食あたりかと思っていました」
「食あたりではないかもしれません。水かもしれない」
その場が、また静まった。
「解決策はあります。ただ、まず実証が必要です。信頼性がない話だと承知しています。だから——」
Claudeはセラフィナを見た。
「領主邸でやらせてください」
「……何を?」
「水洗のトイレを作ります。配管と処理槽を設置します。フローラさんの協力があれば、七日もかかりません」
セラフィナはフローラを見た。
フローラは腕を組んでいた。
「作れる。おもしろい構造になる」
「仕組みを説明します。トイレから陶管で排水を引きます。フローラさんの魔法で管の接続を完全に密閉できます。次に密閉した石造りの槽に溜めます」
「ここまではわかる。その先は?」
「槽の中で、有機物を分解してもらう必要があります。密閉された暗所で、臭いを出さずに、ゆっくりと分解する。処理が終わったら上澄みを地中に浸透させます」
Claudeはフローラを見た。「フローラさんの本に、湿地のスライムの記録がありました。あれは、この役割を果たせますか?」
フローラは少し考えた。
「……条件を整理しろ。暗所。密閉。有機物を食う。臭いを出さない」
「はい」
「スライムなら合う。湿地や洞窟にいる。暗いところを好む。有機物なら何でも食う。密閉された環境の方が活性化する」
Claudeが確かめた。「臭いは?」
「出ない。スライム自体が分解しながら取り込む。外に漏れない」
「それです」Claudeが言った。
フローラが腕を組んだ。
「……なるほど。密閉槽にスライムを飼う。理屈は通っている」
珍しく、真剣な顔をしていた。
セラフィナはフローラとClaudeを交互に見ていた。
「……スライムを、トイレの処理に使う」
「はい。冒険者の方に採取を依頼できますか? 池や湿地にいる小型のものです。もう一つ、食べ物の残りかすを発酵させて土に還す仕組みも合わせて作ります。農地に撒けば収量が上がります」
セラフィナは少し考えた。
「……ゴミが、土になると?」
「はい」
セラフィナはしばらくClaudeを見ていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「フローラの工房のトイレは」
フローラが少し横を向いた。
「……においはしませんか?」セラフィナが静かに聞いた。
「しない。最初からそのように処理している」
セラフィナの眉が、ゆっくりと上がった。
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「聞かれなかった」
「ぐぬぬぬ」
フローラが笑った。今度は静かに、満足そうに笑った。
エドワール団長は報告書に何かを書き始めた。
ガレスはすでに依頼書の内容を頭の中で考えていた。
(スライム採取、数匹。用途——)
(……どう書けばいいんだ、これは)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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