長生きした亀の話
まだ若く、希望に満ちた青年だったころ。
駆け出しの冒険者だった俺は、運命に出会った。
そこそこ大きな町で経験を積んでいた俺は、巷を騒がせる上位ランカーが名を連ねるそのパーティーをなんとはなしに眺めていた。
目指すべき姿ではあるが、今の俺には雲の上の存在である。接点などあろうはずもない。
ただ朝からなんとなくそわそわと落ち着かない。こんな状態で狩りに行っても、怪我をするだけである。今日は休養日と決めて、ギルドの食堂で次のクエストを吟味していた。
件のパーティーのうちの一人と目が合った。
長い銀髪を結い上げた、たぶん竜人であろう女性。
青天の霹靂、とはまさにこのことか。
運命だと理解した。
唯一無二の番だと、身体の奥底から叫びだしたいような、全身の細胞の一つ一つが愛おしさを発するような。
そう感じたのはお互いだと、わかる。
どちらからともなく手を取り合い、これまでの隙間を埋めるかのようにひしと抱きあった。
それからの人生は、まさにバラ色だった。
種族は違えど、同じ長命種。いつまでも共に過ごそうと、彼女のパーティーが拠点とする街に移り住み、共に暮らした。
小さな依頼をコツコツとこなして経験を積みながら、不規則な彼女の私生活を支えた。
時には彼女と一緒に出掛けるが、デートと称した街歩きよりも、一緒にフィールドを駆け、俺の実力を底上げすることに専念する時間の方が多かった。今はまだ大きな実力差があって彼女と同じクエストはこなせないが、いつかこの隔たりがなくなれば、常に彼女と一緒にいることが出来る。いつかは、彼女の背を守る役割だってこなせるはず。お互いが同じ想いであったから、彼女の檄にも熱が入るし、どんなに苦しい場面でも俺は決して弱音を吐かなかった。
それは日常で、なんてことのない日。
彼女の所属するパーティーが大きな仕事のために一ヵ月の間、家を空けることになった。
離れることは耐え難い程に寂しくもあり引き裂かれる思いであるが、留守を守るのもまた番の誉れである。
笑顔で送り出してから、それこそ幼子のように指折り数えて彼女の帰りを待った。
そろそろ帰ってくるだろうか、いやもう少しか。
疲れて帰ってくるだろうから、少しでも癒されてほしい。念入りに掃除をしていた時に訪れた突然の悪寒。全身がぞわりとささくれ立った。流行り病をもらった記憶はないのだが。帰ってきた彼女に移してはいけないと、その日は早めに就寝した。
それから数日後、せかすようなドアノッカーの音に目を覚ました。落ち着きつつも消えない悪寒に嫌気がさす。こんな体調で彼女を迎えるのは不本意甚だしい。
気鬱に扉を開けば、そこには彼女のパーティーのリーダーが俺以上に悲痛で恐ろしい顔をして立っていた。
「彼女が亡くなった。落石事故で子供を庇って巻き込まれたんだ」
渡されたのは彼女が愛用していた剣と、長く美しい銀の糸の束。
触れた瞬間にわかった。彼女の髪を梳いた時と同じ手触りだった。
唐突に理解してしまった。
もう、この世に彼女はいないと。
消えなかった悪寒が震えと脱力に変わり、そのまま気を失った。
目が覚めても、彼女がいない現実は変わらなくて打ちのめされる。
広いベッドに一人で寝るのはあまりにも辛く、ソファで寝るのが常だった。
彼女の面影を追いかけて、一緒に修業した森を彷徨った。
死ぬことも考えたが、彼女のパーティーメンバーが代わるがわる様子を見に来た。
毎日彼女の遺髪に櫛を入れた。
それこそ、死んだように生きていた。
泣いて。
泣いて。
泣いて。
どれくらいの時が経っただろうか。
ふと、体が軽いことに気づいた。左肩に張り付いていた甲羅が、脱皮で取れたらしい。
行かなくては。
なぜか思い立ち、最小限の荷物をまとめて旅立った。
あてもなく、気の向くままに各地を転々と歩いた。
路銀が底をついたら、最寄りのギルドで仕事をもらう。彼女との経験がここでも役に立ち胸を突くが、涙がこぼれることはなかった。
こうして少しずつ彼女のことを忘れていくのだろうか。
不安も恐怖も焦りもあるけれど、歩みは止まらない。
とにかく歩き、旅を続けた。
そうして出会ったのだ。
彼女の生まれ変わりに。
一目見た瞬間にわかった。
顔立ちも、髪の色も、なんなら雰囲気やしぐさだって、全部違う。
それでもわかる。
あれは、まぎれもなく彼女だ。
衝動のままに飛び出し、抱きしめ、愛を囁いた。
「やめてくださいっ!!!」
恐怖の滲むその瞳にひるんで力が抜けた隙に、彼女のぬくもりが離れた。
怯えるその身体を包むのは、自分ではない男の腕だった。
「どうして…」
「妻に何か御用ですか」
立ちはだかるその男は、丁寧な言葉遣いで疑問の言葉を紡ぐ。
威嚇と殺気を隠そうともせずに。
冒険者として腕を磨いた自分からすれば、児戯にも等しい。
「迎えに来たよ、愛しい人」
邪魔立てするならば容赦はしない。
ふと我に返ったのは、鉄格子の中でだった。猿轡をはめられ、手と足はどちらも縛られていた。
しばらくぼぅっとしていたのだが、見回りに来た看守と目が合い、厳重な監視のもとに猿轡のみ外された。
聞けば、血だまりの中で女性の亡骸を抱えているところを発見されらしい。横には同じく物言わぬその女性の夫が。
二人を弔おうとすると奪われまいと抵抗し、五人がかりでやっと縛り上げても一週間ほどずっと暴れていたそうだ。
思い出せるのは仄暗い赤のみ。
理解したのは、自分のこの手で愛しい番を殺めたということ。
涙は出なかった。
こんな最低な男に、くれてやる憐れみも悲しみも必要ない。
抵抗もせず、生気もなく、ただ憔悴しただけの殺人鬼は、炭鉱に送られた。
血の気の多い連中も多かったが、それ以上に厳しい看守を兼ねた炭鉱の猛者たち、粗末な食事、時には鞭を打たれながらの終わらない労働に、少しづつ疲弊し、大人しくなり、やがて看取ってやることも多かった。
何度か看守が変わった時、炭鉱から放り出された。
曰く、記録が古すぎて常人であれば終身刑に近い刑期はとうの昔に過ぎているし、泣きも喚きも笑いもせずにただ黙々と身体を動かしていただけの自分は相当な模範囚だったらしい。
久しぶりに川の水ではなく桶に張った湯を浴び、髭を当たり髪を整え、粗末ではあるが市井にまぎれてもおかしくない服を与えられ、幾許かの路銀を渡されて近くの村に放り出された。
「残りの人生、楽しくやれよ!」
笑う看守にそんな資格はないと言いかけて、ただ目礼を返すにとどめた。
それからはまたしばらく放浪生活を続けた。
当てもなく、知り合いもおらず、ただ気の向くままに各地をを転々と彷徨う。
森で狩りをし、街を歩き、平原を行く荷馬車の護衛として張り付き、村では魔獣討伐の依頼をこなす。
いつの間にか、体が軽かった。
そんな時に出会ったのが、彼女だ。
あぁ、彼女だ。
どうしたって間違うはずがない。
何度だって、見つけてしまう。
運命と呼ぶべきか。それが幸運なことなのか、わかろうはずもなく。
ただただその存在に、どうしようもなく浮足立った。
けれど少しふっくらとした腹に気づき、頭に血が上る。明らかな手垢。沸騰しそうなほど沸き立つ身体を、奥歯を噛み締め、拳を握り、地に足を縫い留めて耐えた。
再度、彼女を失ってはならない。
同じことを繰り返してはいけない。
幸い、彼女の乗っている馬車には空きがあった。御者に心ばかりと色を付けた路銀を渡し、彼女の隣に乗り込むのはたやすかった。一人で長距離馬車に乗る具合の悪そうな妊婦には、面倒ごとに巻き込まれまいと誰もが目をそらす。そんな彼女にしつこくない程度に話しかけ、時々水入りの革袋を差し入れる。その程度の、ただの相席。
転機が訪れたのは、とある町の宿屋だった。
馬車を降りた彼女が入った宿屋をそっと確認してから、大通りで夕食を買い込み戻ると、その彼女が軒下に。
迷いは一瞬だった。
せめて怖がらせないように、少しでも不審がられないように。
それだけは全力で気を付けて。
「ちょっと買いすぎてしまって…一緒にどうだろう?」
「嬉しい。お腹すいてたんです。良かったら私の部屋で食べませんか?」
もしかしたら声が震えていたかもしれない。
けれどそんなことも気にならないくらい、彼女が柔らかく微笑んだ。
驚きつつも後ろを歩けば、本当に彼女の部屋に案内されてしまった。
危機感はないのか。それとも単に慣れているのか。はたまたそういった生業か。そのどれもが焦燥を掻き立てるけれど、ここで警戒されるわけにはいかない。
案内された狭い部屋で、目についた肉を毒見のつもりで先に口にする。
「遠慮とかしなくていいから。好きなだけどうぞ」
ゆっくりと咀嚼する姿を目に焼き付ける。
頬は少しやせ気味だが、元々なのだろうか、それともつわりで食事がとれなかったのか。
はらりと落ちた髪を払う指が少しだけ痛ましい。水仕事をしていたのだろうか。
履いている靴は粗末というほどでもないが、かなりくたびれている。余裕のある暮らしではないのかもしれない。
そもそもが、妊婦の彼女がどうして一人なのか。
「…帰れない」
ぽつりと呟いた彼女は、腹がくちたらしくそのままぱたりと眠りについた。
彼女をベッドに眠らせ、残りの食事を平らげ簡単に片づけを済ます。
帰れないと彼女が言うならば、帰る場所を作るだけだ。
翌朝、目を瞬かせる彼女を乗せたのは、少し離れた港町行きの馬車。
少々強引だったかもしれないが、海を見に行こういう言葉に心許ない表情をする彼女はそれでも大人しく一緒に馬車に揺られていた。
たどり着いた港町、自分の持つ唯一の伝手。頼ったのは、飯屋を兼ねた娼館の女将である。
死んだように彷徨い旅をする自分がたまたまこの町に流れ着いたときに何くれと世話を焼いてくれた彼女は、曰く女将が幼い頃に助けたことがあるらしい。まったく覚えはなかったが、過去の旅の中でギルドの依頼を受けた時に何かしらがあったのだろう。自分の見た目がほとんど変わっていないことにひどく驚かれたものだ。
それはさておき。女将に頼み込み、彼女の生活を確保する。穏やかに過ごせるように。
本当なら、腹の子など生まれたら捨ておいて、彼女だけを攫ってしまいたい。安全な場所に囲い、衣服も食事もすべて自分が用意する。自分以外をその瞳に映さないように。もう二度と失わないように。
けれどきっと彼女はそれを望まないだろう。
一度、誰かを選んだのだ。
その誰かになれなかった自分は、まして前の彼女をこの手にかけた自分は、彼女を縛ることは出来ない。
ただ傍にいて、見守り、手助けすることだけは許してほしかった。
住む場所と仕事を紹介した自分に、彼女はどうも恩を感じているようだが、そんなものは必要ない。
これは、贖罪だ。
見返りを求めてはいない。
彼女を一目見ることだけでも、本来ならば許されないだろう。
けれど一度見つけてしまったのだ、自ら離れることなど出来ようはずもなく。
否、耐えきれず少し離れたことがある。
彼女が帰れないと言った町の名前。生まれたばかりの幼子の、平民にはあまりいない青い瞳。一度だけ聞いた、うなされながら呼ぶ名前。
繋ぎ合わせてたどり着いたのは、とある地方貴族の倅だった。
消すことはたやすい。それだけの力が自分にはある、覚悟も憎悪も。
だがここで再度犯罪者となり捕まれば、彼女を守ることが出来ない。帰れないと頼りなく呟いた彼女を、また一人にしてしまう。いや今だって彼女は自分を必要としてはいないけれど。それでもせめて、なにかあった時に助けることが出来る位置にいたい。できる事なら守らせてほしい。
そう決意も新たに、港町に戻った。久しぶりに会いに行った彼女の瞳に安堵がある気がするのはきっと願望だ。
ギルドの細々とした依頼をこなし、また彼女に会いに行く日々。
以前はよく受けていた荷馬車の護衛も、町を離れたくないがために受けなくなった。一夜の野宿で終えられる程度の依頼を淡々とこなし、何かと断りづらい理由を探して彼女に貢ぐ日々。
出会ったころとは打って変わって顔色の良くなった彼女と、その背に負われふくふくと順調に育つ乳児。
いつまでも続けばいいと思う日々は、必ず終わると知っていたはずなのに。
その日もいつものように彼女のいる飯屋に訪れた。
夜は娼婦が給仕をしている店というだけで、自分からすればただの飯屋だ。ただ食事をするだけだと知っている給仕の女たちは、愛想もないので気楽でいい。よく利用する。
ただその夜だけは違った。
「今夜どうだ」
「ごめんなさい、売約済みなんです」
「あぁん?どいつだよ」
明らかに給仕をするだけではない格好の彼女が、そういう意味で客に絡まれている。
目の前が血で染まりそうだ。
「私だ」
「そーゆーことなんです。ごめんなさい」
客を取らせたくなくてついた嘘だが、意外なほどあっさりと彼女が合わせてきた。
思いのほか強く腕を引かれて、女将から鍵を受け取る様子にまた腹が立つ。あれほど客は取らせるなと言っておいたのにこれだ。この場を荒げたいわけではないのでキツく睨むにとどめると、おぉこわっとおどけた様子で厨房に戻っていった。
「…金に困っているのか」
「困ってないよ」
狭い部屋だ。
彼女はベッドに乗り上げるが、敢えて椅子に腰かけた。
「では男の肌が恋しいか。まだ若いからな」
まだうら若い彼女は、さぞや愛らしく啼くだろう。
その相手を引き裂いてやりたい。
「違うってば」
この狭い部屋に二人だけという事実だけでこんなにも浮足立つのに、理由が理由なだけに両の指を組んでただただ耐える。
「なにが目的だ。もっと自分を大事にしろ」
怖がらせたいわけじゃない。
ただ抱きたいわけでもない。
幸せでいてほしい。
すべての幸福が、彼女のもとに訪れますように。
その気持ちは嘘じゃない。
「私のことは、あなたが大事にしてくれた」
ただその横に居たいと願う自分が、この世で一番浅ましいだけだ。
「今度は、私が、大事にしてあげる」
しなくていい。
しなくていいんだ。
君は、君と息子のことだけでいっぱいにして、幸ばかりの人生を送ってほしい。
だから、そんなこと、しなくていいんだ。
そう思うのに、触れる指が穏やかで。
啄む唇が慈しみにあふれていて。
分け与えられる体温が泣きたくなるほど柔らかくて。
包み込んでくる腕が、身体が、全身全霊で自分を甘やかそうとしてくる。
それに絆されてはいけない。
いけないのに。
あまりにも願ってやまなかった与えられるそれらは、どうやったって抗うことが出来ない。
ついに己の唇に彼女のそれが触れた時、潤んだ彼女の瞳が揺れた。
不安も迷いもある。
けれど、確かに自分を求めている。
それがわかったから。
たどたどしく触れてくる指を、強く握り返した。
* * *
それから三人で暮らした家は、自分にとって幸福に満ちていた。
悩んだ時も、迷った時も、指標はすべてそこにあった。
彼女が笑う道を。
それだけで、すべてが満たされた。
一度だけ、彼女を泣かせてしまったことがある。
『私があなたの番だったらいいのに』
自分が獣人だと打ち明けることは必要に迫られて仕方なくだったし、番のことは話題にも出したことはなかった。
だが何かしら察するものがあったのだろう。土地柄、決して獣人が少ない町というわけでもない。
ふと彼女の口からこぼれおちた言葉を受け止めるには、その存在はあまりに大きすぎた。
君が、それを言うのか。
最初の彼女は、自分の知らぬところで帰らぬ人となった。
二人目の彼女は、己以外を選んでいたことに耐え切れずに殺めてしまった。
君は。
ふと思い出したそれは、はたしていつの出来事だっただろうか。
もう記憶も曖昧になってきている。
いつからベッドで寝ていたのだっけ。
自分はなんと返しただろうか。
身体が思うように動かなくて、すぐそこにいる彼女に手を伸ばしても届かない。
「きみは…」
声が震えている。
伸ばしたはずの手は、なぜか布団の上で彼女の指に包まれた。
もう幾許も残されていない時間。
すべての彼女と出会えたことは、きっと運命だった。
けれど、君と出会えたことは、まぎれもなく奇跡だった。
「わたしの、つがいだよ」
初めて見つけた時の不安そうな表情。
赤子を抱くキラキラと潤む瞳。
子供を追いかける足音と、叱りつける声色。
見送りのために大きく振る手は働き者の手で。
おかえりなさいと迎えてくれる体温は、いつだって柔らかかった。
「えぇ…そうね」
あぁ、今だって。
頬を撫ぜる指のなんと馴染むことか。
彼女の見守る中で終える人生のなんと甘美なことか。
「愛してるわ、私の愛しいひと。運命のあなた」
私も、愛している。
たった一人だけの、運命の君を。




