番になりたい女の話
ねぇ、あなた。
私と一緒になって、本当に幸せだった?
ふと繕い物の手を止めた私は、日当たりのよい場所に移動させたカウチに横たわりまどろむ夫を眺める。
その寝顔は本当に穏やかで。
目元の深い皺も、今ではもうほとんどが白いけれど元々は深い緑だった髪も、日に焼けて健康的ではあるけれど少しかさついた手も、そのどれもが共に過ごした年月を表しているようで、愛おしいものだ。
* * *
夫との出会いは、たまたま同じ馬車に乗り合わせたという、ただそれだけだった。
当時身重だった私は、とにかく落ち着いて子供を産める場所を求めて馬車に揺られていた。
頼れる人もなく、行く当てもなく、僅かな路銀を心許なげに握りしめるばかり。
元々住んでいた街にはそれなりに知り合いも多かったけれど、もうあそこにはいられない。
逃げるように出た街は一度も振り返らず、曖昧なままの目的地を闇雲に目指して長距離馬車に揺られていた。
経由地として訪れた町で、一泊だけ宿をとった。
心も体もくたくたで、とにかく安心して休める場所が欲しかったからだ。
かなり奮発して個室にした。さすがにうら若い女の一人旅で、隣に誰が寝るかもわからない大部屋には入りたくなかった。
食事の付かない安宿だ。
なにか買ってこなければ。
そう思いながらも、胸元にしまい込んだ革袋の中身は、これから先のことを考えると出費は少しでも抑えたい。
ため息をつきつつ、軒下から一歩を踏み出せずにいる。
「ちょっと買いすぎてしまって…一緒にどうだろう?」
そんな私に声をかけてきたのは、壮年の男性だった。
同じ乗合馬車に乗ってたから、お互い一人旅だねなんて世間話もした。
赤の他人だけれど、それよりほんの少しだけ気安い関係。
「嬉しい。お腹すいてたんです。良かったら私の部屋で食べませんか?」
精神的に追い詰められていた私は、きっと正気じゃなかった。
普段なら絶対にこんなことは言わない。
知らない男に声をかけられてもたいていは無視するし、明らかな下心が見え透いた誘いになんて乗らない。ましてや自分の部屋に男を連れ込むなんて。
「こっちです」
驚いたような男の顔ににっこりと笑いかけて、手を引いて歩きだす。
きっと誘ったはいいけど、諾の返事が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
一瞬のためらいの後に、それでも男はついてきた。
二階の一番奥の扉を開ける。
「なんにもないけど、どうぞ」
個室とはいえベッドがあるだけの狭い部屋。
ベッドの両端に腰掛け、真ん中に食事を広げる。
買ってきたばかりの食事はまだ湯気を立てているものもあり、私の鼻腔をくすぐる。ここ最近は常に空腹気味だったせいか、お腹がぐるぐると動くのがわかった。
「遠慮とかしなくていいから。好きなだけどうぞ」
そう言った彼がぱくりと肉の一切れを食べてみせるので、私もそれに続いて食べた。
久しぶりの肉の脂に、舌が溶けたかと思った。それほどに美味しかった。
ここ二週間ほどは、馬車の振動とつわりの気持ち悪さにひたすら耐える日々で、最低限の食事と水分だけで過ごしていた。食べ過ぎればすぐに吐き、食べなさ過ぎても気持ち悪い。強い匂いも駄目で、体臭のキツい労働者風の男達と乗り合わせたときには、手持ちの麻袋に顔をうずめてひたすら耐えていた。
それがここ数日、突然体調が回復した。常にムカムカとしていた胃が驚くほどすっきりして、今なら無限に食べられそうな気すらしている。
本当に遠慮なく食べ、めいっぱいお腹に食事を詰め込んだ。
でも全然苦しくない、気持ち悪くもならない。頭のてっぺんから指の先まで、充足感にあふれている。
そうしたら今度は眠くなって、つい、そのままベッドに倒れこんだ。
「満足した?」
「えぇ、とっても!」
男は途中から食べるのをやめ、じっとこちらを見ていた。
身の危険は感じないが、そう装っているだけかもしれない。
食事の代金代わりに、何かを要求されるかもしれない。
「明日、すぐに発つのかい?」
身構えたけれど、続いた言葉は拍子抜けするほど穏やかな声だった。
食事中もぽつぽつと話はしていた。世間話の域を出ない程度の、当たり障りのない話。
田舎に帰ると嘯いていたけれど、本当は帰る家なんかどこにもない。
「わかんない」
瞼を閉じれば浮かぶのは、両親の顔。
元気でやっているだろうか。せっかく貴族の邸に下働きとして働くことが出来たのに、逃げるようにやめてしまった娘の咎が、彼らに向かないことを祈るばかりだ。
「帰りたい…」
けれど、もうあの街にはいられない。
お腹の子供の父親は、勤めていた邸の坊ちゃんだ。可愛いねと声をかけられ、用事があると呼び出され、大丈夫だよと言われながら襲われた。恐怖と嫌悪に体が竦み、それでも拒絶するという選択肢はなかった。貴族の言うことは絶対だ。終わったら銅貨を数枚握らされた。これで新しい靴が買えると思って、声を殺して泣いた。
呼び出されたのは一度ではなかった。不定期で何度も続き、半年ほど経った頃だろうか。賄いを食べている途中、突然気持ち悪くなり、吐いた。そういえば今月は月のものが来ていないことに気づいた私の顔が真っ青だったらしく、体調不良を心配してくれた同僚たちの言葉に甘え、使用人用の大部屋で休ませてもらった。シーツを頭からかぶっても指先が冷たいまま、ただどうしようどうしようとぐるぐる考えを巡らせる。
ノックもなく入ってきたのは、坊ちゃんの侍従だった。この街を出なさいと、ただ一言。きっちりと扉が閉まってから顔を出すと、シーツの上に小さな革袋。両手の指で余るほどの銀貨が入っていた。やるべきことはひとつ。少ない荷物をまとめて、部屋を出た。
「…帰れない」
閉じた瞼が開かない。
あれから逃げるように移動を続けている。身体も心も疲れ切っていた。
久しぶりのベッドと、美味しい食事で満たされたお腹。もう、指一本動かせない。
記憶は、そこで途切れた。
朝起きてまず確認したのは、胸元に隠してある路銀だった。減っていない。
倒れるように眠ったはずなのに、ちゃんとシーツにくるまっている。食事の残骸は跡形もなく、男の姿もなかった。
不思議に思いながらも簡単に身支度を済ませて階下へ降りると、女将に連れが外で待っていると声をかけられた。
いないはずの連れに、心当たりは一人しかいなかった。
「なぁ、海を見に行こう」
馬車は違う便を取り直したし、目的の港町もここから一週間もかからずに行ける。
そこで元気な子供を産むんだ。
なんのてらいもなく向けられた言葉は私の胸にするりと入り込んで、差し伸べられたその手をつかんだ。
そうして馬車に揺られ辿り着いたのは、大きな港町だった。
連れられた先は、大通りから一本入ったところにある飯屋を兼ねた娼館だった。
やっぱり騙されたんだ、ここに売られるんだ、と絶望しながら男と女将の会話を聞いていたのだが、どうも様子が違うようだ。
絶対に客は取らせるな。
労働力だが、妊婦だから重労働はさせるな。
安心して子供を産めるように取り計らってほしい。
間違っても客は取らせるな。
…どうやら住込みの働き口を紹介してくれているようなのだが。
娼館なのに客は取らせるなと何度も念を押した上で、どこに隠し持っていたのか決して軽くはない音を立てて革袋が差し出されていた。
苦笑する女将に案内されたのは、従業員用の部屋らしい。
それなりに清潔感のある部屋で男と二人っきりになると、彼ががばりと頭を下げた。
「こんな伝手しかなくて申し訳ない」
だが働き口は必要だろうから、せめて信用できる女将を紹介した、と。
場所柄、妊婦には慣れてる者が多いから悪い場所ではないはずだ。
何か困ったことがあったら、すぐに言ってほしい。
正直なところ、こんなに手厚い紹介をもらって驚いている。
身重でしかも住込みの働き口など、何の伝手もない小娘一人では決して見つけられなかっただろう。
炊事洗濯は経験もあるから、慣れてしまえばそれほど苦にはならないはずだ。
もし無事に子供を産むことが出来たならば、乳母の口が見つかるかもしれないし、乳だって売れるかもしれない。
妊娠がわかってからずっと不安で、孤独で。
張りつめていた心が、たった今ふわっと緩むのがわかった。
踏みしめていた両足から力が抜けて、ぼす、とベッドに尻もちをついてしまった。
「ありがとう、ございます…」
「あぁ、泣かないで!」
そう言っておっかなびっくり伸ばされた指が目じりをそっと拭って、自分が泣いていたことを知る。
慌てふためく彼の顔と、優しすぎる指先の対比が可笑しくて、つい笑ってしまった。
それからは、慌ただしくものんびりとした日々が過ぎた。
一階の飯屋の掃除をしてから仕込みを手伝い、二階にある客を入れる個室のシーツを洗い、賄をもらって自室で食べる。
厨房の料理人は寡黙だが冷たいわけではなく、重い食材などは手伝う前に既に運ばれていた。
娼館で働く女の子たちには、別の娼館で身ごもり捨てられた元娼婦だと思われていた。
同情して優しくしてくれる者もいれば、もちろんそうじゃない子もいる。
ここに私を連れてきたかの男は、いつの間にか当然のように毎日顔を見せるようになった。
朝一番に顔を見に来ることもあれば、飯屋で夕食をとっていることもある。
滋養に良いとされる食材片手に立ち寄ることもあるし、本当に顔を見るだけで帰ることもある。
お腹の子の父親だと勘違いする人もいるが、特に訂正もしていない。
甲斐性のない男でかわいそうねとあからさまに蔑んでくる子もいるが、彼には感謝しかないし、彼自身が特段気にしているわけでもないようなので放っておいている。
日々はあっという間に過ぎ、雪のちらつく早朝に、私は無事男の子を出産した。
私と同じ、栗色の巻き毛。
私と違う、青い瞳。
赤子を背負って働く日々は、時折訪れるせつなさや暗澹たる心の奥底を忘れさせてくれるのにちょうど良い。
出来る範囲ではあるけれどそれなりにまじめに働いたおかげか、世間話をする程度の知り合いも増えた。
相変わらずふらっと顔を出す男は、最近つかまり立ちを始めた幼子を何とも言えない視線で見つめている。
それがどういう感情なのか私にはわからないが、一つだけわかったことがある。
あの男は、私を『女』として見ている。
そうと分かったときは、ただただ恐ろしかった。
奉公先の坊ちゃんのように、有無を言わせぬ腕力に体を明け渡すのか。
想像しただけで身体が震えた。
眠る息子に背を向けて、嗚咽を堪えた夜もある。
けれどそんな私をよそに、男は毎日会いに来た。
あくる朝はまだ露に濡れた花を摘んで。
ある昼はチーズを挟んだサンドウィッチを片手に。
とある夜にはただ静寂と共に。
ただの友人を装っているその態度は、あくまで紳士だった。
近すぎない距離を保ち、時には慣れない手で息子をあやし、子守唄を歌う私のそばで晩酌をする。
穏やかな眼差しだけれど、時折宿る強い光が私が女であることを否応なく自覚させる。
今のこの生活は、すべてこの男の手によるものだ。
衣食住が保証され、息子を優先しながらできる範囲で働くことが出来る。
こぶ付きの下働きにしては、最上級の待遇。
まかないだってただの下女に与えられるものではなく、飯屋で金額を取っているものと遜色ない食事が与えられている。
彼がいなかったら、私も息子も、既に生きてはいなかった。
息子の顔を見ることさえなかったかもしれない。
彼には返しきれない恩がある。
いつその恩を返せと言われるのか、戦々恐々とした日々だった。
しかし慣れとは恐ろしいもので、あんなに恐怖した男の視線も今では何も感じない。
触れ合った時間の分だけ、彼は決して同意なく自分に手を出してこないという根拠のない絶対の自信が出来上がった。きっとそれを信頼と呼ぶのだろう。
そうして過ごすうちに、むしろ彼の視線に喜びを覚えるようになった。
たくさんの娼婦に囲まれ粉をかけられたってどれも平坦な視線で受け流すのに、私を見つけた途端に輝くあの瞳。
なにより知り合いも安心して頼れる者もまったくいないこの街で、常に私を気にかけてくれている存在がいるという喜び。
ある夜、私は決意した。
息子は知り合いの家に今夜だけとお願いして預けてある。
いつもより少々露出の多い服をまとい、いつもは使わないような化粧品で目元を艶やかに染める。
貸してくれた女将は、きっとうまくいくさと笑ってくれた。
今夜は、娼婦として店に立つ。
この店は飯屋で給仕をしながら、客から声をかけられるのを待つ。
私もまずは普通に飯屋の給仕として注文を取り、配膳して回った。
見慣れない給仕の姿にちらほらと品定めするような視線がまとわりつくが、今はすべて無視。
娼婦として客を取るならここで微笑み艶っぽくウィンクでもしておくのだが、私の目的は違うのだ。
麦酒のジョッキをテーブルに置いたところで、横に座っていた男にするりと腰を抱かれた。
「今夜どうだ」
「ごめんなさい、売約済みなんです」
「あぁん?どいつだよ」
嘘である。
だからそんなに周りを見回しても、誰も名乗りを上げやしない。
酒が入って赤い顔の男は大柄で、元来血の気が多いのだろういかにも海の男という、この辺ではよく見かける風体である。
気に入ってくれたらしいが、今の私には有難迷惑だ。
どう切り抜けようか迷っていると、突然後ろに体ごと引かれる。
「私だ」
いつになく低い声が、よろけた私の身体を抱きとめた。
見上げると、眉間に深い皺を刻む見慣れた男の顔が。
わずかに安堵のため息をついて、その腕に抱き着いてわざとらしくしなを作った。
「そーゆーことなんです。ごめんなさい」
不貞腐れた顔をした大柄な男には早々に背を向けて、抱きしめたままの腕を引いて歩きだす。
向かうはニ階の個室。
事前に頼んで、一部屋開けてもらっている。
女将から鍵を受け取ると、茶目っ気たっぷりのウィンクが飛んできた。
うまくやりなよ。
優しい激励に、こくりと小さく頷いて再度決意を固める。
今夜、この男を、私のモノにする。
鍵を差し込む手が少し震えてしまったが、なんでもない足取りを装ってするりと部屋に入り込む。
粗末なテーブルセットと、部屋の大部分を占める大きなベッド、それだけでいっぱいになってしまうような狭い部屋。
私は迷わずベッドに腰掛けたが、彼はわざわざ椅子を選んだ。
深い深いため息をついてうなだれる男。
二人っきりだが、ちっとも怖くなかった。
「…金に困っているのか」
ようやっと吐き出した息を整えて、うめくように彼が言う。
足りないものがあれば言えといっただろうと、言外に責められている。
「困ってないよ」
息子を背負い、時には預けて、午前中は洗濯に精を出し、午後は厨房の仕込みを手伝う。
対価として間借りしている部屋は日当たりも良く、息子と一緒に昼寝をすることもある。
まかないは美味しいし、彼も頻繁に差し入れと称して露店で買ったであろう食事や日持ちするお菓子を置いていく。
成長につれてすぐに小さくなってしまう息子の服は、いろんなところからお下がりが来るから、着ているうちに破れた箇所を繕い、時には男に貰ったお菓子を添えて、また別の必要な場所に届ける。
下働きとしては好待遇過ぎる暮らしだ。
なんの不足があろうか。
「では男の肌が恋しいか。まだ若いからな」
侮蔑するような響きではなかった。
諦めにも似た、淋しさと苦しさをないまぜにした弱い声だ。
「違うってば」
確かに私はまだ若い、と思う。
彼からしたらまだまだ小娘と言っても過言ではないだろう。
過去に何度も襲われた身体は、今でもふとした瞬間に竦んで動けなくなることがある。
それでも自身を奮い立たせて立ち上がらなければならない、日々の生活のために立ち回らなければならない。幼い我が子のために。
そのための力となったのは、縮こまり啜り泣きたくなる心を慰めたのは、決して愛する息子の笑顔だけではなかった。
あんなにも私を気にかけてくれる人は他にはいない。
こんなにも私を想って行動を起こしてくれた人は他にはいない。
私を愛してくれているのではないのか。
そう思うのは、自惚れで、傲慢だろうか。
「なにが目的だ。もっと自分を大事にしろ」
彼は、自分が今にも泣きだしそうな顔をしているのを自覚しているのだろうか。
すぐ隣にいてくれたら、抱きしめられるのに。
私が全力で慰めてあげるのに。
今その権利が、私は欲しい。
「私のことは、あなたが大事にしてくれた」
端的に言えば、絆されたのだ。
最初は向けられる愛情が末恐ろしかった。何か、下心があるようで。
今だって決してないとは言い切れないけれど。
それ以上に、十二分過ぎるほど与えられたから。
もう怖くない。
「今度は、私が、大事にしてあげる」
椅子に座る彼を、そっと抱きしめた。
無抵抗だが、触れた瞬間にびくりと体を揺らしたのがわかる。
視線は定まらず、今にも泣き出しそうなほど揺れていた。
男女の営みについてはどうしても怯えが勝るけれど、なだめ、慈しむ方法ならいくらでも知っている。
子供をあやすように優しく撫でさすり、体温を分け与え、啄むようなキスをすれば、抱きしめた冷たい身体もほんのりと体温を宿していく。
揺れていた瞳は熱に浮かされ、震えていた指に力がこもる。
そうしてやっと本来の目的として、安いベッドがきしむ音を立てた。
それから間もなく、幼い息子と一緒に引っ越しをした。
荷物はそれほど多くない。
私は息子と手をつないでのんびりと歩く。
向かう先は、新しい我が家。
住込みで借りる一室ではなく、ルームシェアの集合住宅でもなく、小さな一軒家。
いつの間にか準備されていた、三人で住むための我が家である。
大きな布袋ふたつ分の荷物を抱える彼は、道案内と称して少し先を歩き、時折振り返りながら眩しそうに目を細める。
きっといまだに信じられないんだろうな。
かくいう私も、あまりに実感がなくて足元がふわふわしている感じ。
幸せにする、と、震える声で伝えてくれた。
幸せになろう、と強く返した。
* * *
その言葉に違わず、その後の生活は幸福に満ちていた。
もちろんしんどいこともあったけれど、過ぎてしまえば良い思い出である。
息子はすでに巣立ち、しっかり者のお嫁さんと一緒に商会を立ち上げた。今のところ順調なようだ。
私はといえば、最近は窓辺のロッキングチェアに座って編み物をするのが日課になっている。
ぽかぽかとした日差しが皺の増えた指先を照らすけれど、もう今更嘆いたりしない。
この皺は、彼とともに年月を歩んだ証だから。
「あら、起きたの?」
衣擦れの音がしてベッドを覗くと、彼がゆっくりと瞬きをしているところだった。
小さく動く指が何かを探しているようで、迷わず両手で包み込む。
私たちの生活を支えた手はこんなにも力強く、けれど固く、もう動かなくなってきてしまった。
最初はだんだんと細かい動作がしづらくなり、次に体が硬くなって屈めなくなり、ついにはベッドの住人となった。
「おはよう」
定まらなかった視線が私を見とめて、目じりがほんのり緩んだ気がする。
ついぞ年齢は教えてくれなかった。
長生きするタイプの獣人だと明かしてくれたのは一緒になってなお随分と経ってからで、あまり私には教えたくなかった事らしい。
知り合う前の方が長いであろう彼の人生に何があったのか、ほとんど教えてはくれなかった。
気にならないと言えば嘘になるけれど、それ以上に今が幸せだったから。
一度だけ言ってみたことがある。
『私があなたの番だったらいいのに』
どうやら獣人には番という存在がいるらしいとの話を聞いてきた幼い息子に、ママはパパの番なの?と聞かれたことがあった。
真に受けたわけではないけれどそうだと嬉しいなと希望を込めて、彼に問うた。
『君は…』
その時の彼の表情ときたら!
まぁ違うことはわかっていたけれど。
そもそも私は獣人でもないし、運命とも呼ばれる対の存在など信じたこともなければ感じたこともない。
けれど、彼の表情があまりにも驚愕に満ちて、なんなら声も指先までもが震えていたから。
触れてはいけない話題だったのだと瞬時に悟った私は、そのまま買い物に逃げた。
それ以来、我が家では番の話はタブーになった。
「ねぇ、あなた」
いつも通りの日常、いつも通りの幸せ。
それだけでよかった。
けれど。
「私と一緒になって、本当に幸せだった?」
返事は期待していない。
もう寝たきりになって数日の彼には、死の足音がすぐそこまで迫っている。
息子は孫を見せてやれなかったと嘆いた。
お嫁さんはただただ手を握ってくれた。
十分だ。
こんなにも満ち足りて、穏やかな生活を送れるなんて、彼と出会うまでは思えなかった。
私は本当に幸せだったの。
でも、あなたは。
決して口数の少ない方ではないあなたは、その実、大事なことは何にも云ってくれなかった。
あふれ出る喜びも、抑えがたい怒りも、耐えがたい悲しみも、微笑みあふれる些細な楽しみでさえ。
いつもいつもその激情に流されまいと耐えて、耐えて、一直線に口を結んでいた。
幸せになっていいのに。
幸せだよって、認めてあげればいいのに。
そんな我慢する隙もないくらい、幸せにしてあげたい。
ずっと、そう思ってた。
けれど、もう時間切れだ。
「きみは…」
小さな、小さな、かすれてしわがれた声。
けれどちゃんと聞こえた。
「わたしの、つがいだよ」
声が震えている。
なんなら、指先も。
あの時と同じように。
すぐにわかった、優しい嘘だ。
でも、泣きだしたいほど、嬉しかった。
「えぇ…そうね」
乾いたしわくちゃの目尻が、つい潤む。
「愛してるわ、私の愛しいひと。運命のあなた」




