第0楽章 数という怪物
数は、おそろしい速さで膨れあがる。その怪物を、まっすぐに見据えた男がいた。
一枚の紙を、半分に折る。
厚みは二倍。
もう一度折れば四倍。
さらに折れば八倍、そして十六倍――。
では、もしその紙を四十二回も折り重ねることができたなら、厚みはどれほどになるだろうか。手のひらほどか。背丈ほどか。あるいは、町の塔ほどか。
――月に、届く。それが答えである。
たった四十二回、倍々を繰り返すだけで、薄い一枚の紙は、地上から月までの三十八万キロメートルを越えてしまう。
にわかには信じがたいかもしれない。けれどこれが「倍にする」という営みの、おそろしい正体なのだ。
同じ怪物は、あなた自身の体の中にも棲んでいる。母の胎の中で、たった一個の細胞が二つに分かれ、二つが四つに、四つが八つに――この倍々を、わずか四十数回くりかえすだけで、何十兆という数の細胞からなる、一人の人間の体ができあがる。いま、これを読んでいるあなたの体そのものが、たった一個の細胞から倍々に膨れ上がった、その怪物の結んだ実なのだ。
だが倍々は、その怪物の、いちばん目につく顔にすぎない。怪物は、すべての掛け算の中に棲んでいる。きれいに倍へ倍へと伸びていく数ばかりではない。ながい端数のつきまとう、桁の揃わぬ大きな数どうし――そういうものを掛け合わせようとした途端、人の手に負えぬ、計算の地獄が口を開けるのだ。
そして大航海時代、その地獄がもっとも牙をむいたのは、外洋の上だった。
海をゆく船に、たどるべき道はどこにも引かれていない。航海士は、夜ごと星や太陽の高さを測り、その角度から、いま自分が地球上のどこにいるのかを、三角法によって割り出すしかなかった。大きな数どうしの掛け算と割り算による、気の遠くなるような計算である。羅針盤の針と、紙の上のその計算だけが、何百人もの命をのせた船の、命綱だった。
だが、揺れる船の上である。疲れきった航海士が、たった一つ、数字を写し違える。桁を一つ、取り違える。それだけで、船は、目指す方向とはことなる海域へ向かって、知らず進みはじめる。そして気づいたときには、霧の中から、黒い岩礁が音もなく立ち上がっているのだ。
大航海の世紀、こうして針路の計算をあやまり、暗礁に砕け、海の底へ消えていった船は、確かにあった。乗っていた者の名も、港でその帰りを待ちつづけた者の祈りも、もろともに呑み込んで。たった一つの掛け算の誤りが、ときに何百もの命を奪った。
星を測る天文学者も、海をゆく航海士も、この計算の地獄の縁で、夜ごと蝋燭を燃やし、ひとつの桁におびえ、寿命をすり減らしていた。
いまから四百年あまり前、スコットランドの灰色の海のほとりに、この怪物を真正面から見据えた一人の男がいた。名をジョン・ネイピア。メルキストン城の領主にして、ある者は彼を数学者と呼び、ある者は魔術師と恐れた。
彼は、この怪物を飼いならす、一枚の「鏡」を作り上げた。どんな数の掛け算でも――倍々であろうと、端数だらけの不揃いな数であろうと――足し算へと映し変えてしまう、不思議な鏡。のちに「対数」と呼ばれるものである。
だが、その鏡の裏側には、伝説の語らぬ、深い悲しみと、揺るがぬ信仰、そしてついに叶わなかった一つの祈りとが、貼りついていた。
これは、時を恐れ、それでもなお、人に時を贈った男の物語である。
続く




