散文詩 37 「お出掛け未遂事件」
日々、心に残ったことを文字にしてみた
「お出掛け未遂事件」
父、85歳。九州男児。東京に住んで67年。九州弁ももう喋れない。補聴器をしてもよく聞こえない。加齢黄斑変性で目もよく見えない。腰が曲がってしまったので、支えなしに歩くのも難しい。しかし自転車に乗って週に一、二回プールに行く。怪我せずに帰って来られるのは奇跡としか考えられない。
昔から風邪をひいて熱があっても会社に行き、あちこち痛いなどと言ったことのない人である。正真正銘、紛れもない老人になった今も父は「俺はどこも悪くない。健康診断でも何も言われないよ。」と高血圧の薬を毎日飲んで、完璧に健康であると自信満々で暮らしている。
ある夜、母から連絡があり、父が葛飾の知人の家になんの連絡もしないで、明日線香を上げに行くと言い出したと言う。今はもう葛飾に住んでいないので、電車に乗って一時間東京を横断して行かなければならない。歩くこともままならないのに、どうやって駅に行き、駅から電車に乗り、電車を乗り換え、目的地に到達することができようか。
しかし自分は完璧に健康であると自信満々の父に、行けるわけがないと言ったら怒り出すにきまっている。前頭葉が委縮してしまったのか、最近急に怒るようになった父を母は恐れている。言葉を選んで接しなければならない。私は電話で母と相談して結局好きにさせることにした。自分で行ってみて、できないということを実感するのがいいという結論に達した。
そう結論を出したものの、階段から落ちて血まみれになった父の姿を想像し、はたまた他人様を怪我させてしまう可能性を想像し、夜中3時過ぎまで眠れなかった。やはり尾行してついていこうと心に決めて眠ろうとしたが、ふといい作戦を思いついた。知人の家に連絡をして都合が悪いから今日は会えないなどと父に言ってもらう作戦だ。
翌朝、母から「お父さん、もう出かける支度を始めたよ。」と連絡があり、私は急いで面識もない父の友人の家に電話を掛けた。事情を説明し、厚かましくも嘘をついてくれとお願いした。父の知人の奥様は快く引き受けてくれて、実家に電話を入れてくれた。
母から連絡があり、父は電話を切ってしばらく考えていたようだが、ジャンバーを脱いで出掛けることはあきらめたようだった。これで一安心。また嘘をついたが、父の安全のためには仕方ない。私は尾行することもなく、血まみれの父を見ることもなく、なんとか一山越えた。
私が裏で手を回していることがばれずに済んだが、出掛ける寸前に、会いに行くと連絡もしていない相手から電話が掛かってきても一向に不思議に思わない父が、私にはとても不思議だった。




