散文詩 108 「お布施」
日々、心に残ったことを文字にしてみた
「お布施」
自分の七五三の時に、お寺にお参りに行った記憶がある。
七歳の私は着物を着せてもらった。
私は髪を結ったように見えるお団子ヘアの髪飾りにしたかったが、
従姉のミコ姉ちゃんが、ショートカットなんだからリボンの髪飾りがいい
と言ってリボンをつけられた。
不貞腐れた顔の写真しか残っていないのはそのためである。
どこのお寺に行ったかすっかり忘れてしまったが、
柴又帝釈天ではなかったと思う。
いつも行っている近所のお寺ではなく
一世一代の七五三なので少し遠出をしたような気がする。
いつもと違うお寺で、祈祷だか厄払いだかをしてもらった。
祈祷してもらうのにお布施を払うのだが、
たしか3000円、5000円、一万円のように金額が決まっていて、
その額によってもらえる木の札の大きさが違うのだ。
父は富豪ではなく一介のサラリーマンだったが、
一人娘の一世一代の七五三なので、
一番安いのではなく下から2番目のお布施にした。
十人くらいの着飾った子供とその親たちが、
一斉に有難い厄除けのような儀式をお坊さんにしてもらう。
儀式が終るとそれぞれに木の札が渡された。
木の札には読めない漢字のような文字が、一行、有難く記されている。
我が家の札は3、40センチくらいの長さだったが、
富豪そうな家族の木の札は、草津温泉の湯もみで使う木の板みたいだった。
七歳の私は、湯もみ板をもらったあの子は、
私より神様に守られて幸せになるのだろうかと思った。
神社とお寺の違いも知らない子供の私は、
その時からお寺を冷めた目で見て、あまり信じなくなった。
大人の世界というのか、現実の世界というのか、
そんなものをお寺で見せられたような気がした。
そして、ほんとの神様は集金しないし、
いつも守ってくれることをのちのち知るようになる。
下から2番目の金額でも、私は幸せに生きている。
歎異抄
『いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。』
現代語訳
『いくら宝物を仏前に投与し、師匠に施したとしても、信心が欠けていれば甲斐のないことです。紙一枚、銭半銭を布施しなくても、他力にこころを向けて信心を深くすれば、それこそが阿弥陀仏の本願に沿ったことです。このようなことは、すべて仏法にかこつけて、世間の欲心に乗っかり念仏の仲間を脅迫するようなものではないでしょうか。』




