第23話 滝川悟/滝川久住――malice 前編
「なぁ、タキ。久住さんってお前の兄貴なんだって?」
嫌というほどに聞かれ続けている問い掛けだ。
悟は露骨に眉を顰め、尋ねて来た同級生の頬に思い切り拳を打ち込んだ。
「うるせーんだよ」
どいつもこいつも必ずと言っていいほど、久住の話題を持ち出してくる。
当時、滝川悟15歳――中学卒業を間近に控えていた。
3年間、久住の名前が耳に入らなかったことはない。
ずっと悟は問われていた。
「弟ってのはお前か?」と。
苛立ちは日に日に増していく。
会うこともせず連絡を取ることもせず、久住は金だけを家にずっと送り続けていた。
出どころの分からない金はそれはそれは不気味だった。
そして、出て行った理由を父親も母親も分かっていない。
帰ってこないなら警察に届けを出すと一時期母親は言っていた。
けれども、電話でそれを聞いた久住は止めてくれと冷淡な声で告げたらしい。
どうしてなのだろうか、なぜ帰って来てくれないのだろうかと両親が揃って青ざめて心配そうに言う中で、祖母だけはひどく寂しそうに『くーちゃん大丈夫かねぇ』としきりに心配の言葉を口にした。
悟はお婆ちゃん子だった。
ときには悟を叱り、ときには甘えさせ、真剣に話を聞いてくれた。
悟のおしゃべりなところに母親は辟易としていたが、祖母だけは遮らず最後までいつも聞いてくれた。
学校から帰ると一番先に祖母に帰宅を知らせにいく。
そうして、夕飯の時間までふたりでちょっとしたお菓子を摘みながら話すのだ。
穏やかな時間だった。かけがえのないものだった。
まくし立てるように話す悟を祖母は微笑ましそうに見つめて、悟も祖母が困らないようにいつだって付き添った。
買い物にも、散歩にも、時代劇を見るのだって。
祖母がいつもくれていたせんべいが悟は大好きだった。
しかし、祖母はそのせんべいより悟が買ってくる近くのパン屋のクッキーが好きだった。
足腰が強くない祖母のためにと悟は頻繁にそのパン屋に通った。
そして『交換な!』と言いながらクッキーを差し出す悟に祖母は嬉々としてせんべいを取り出し、二人で食べながら微笑みあった。
実のところ、悟が祖母の部屋に通い始めたのは久住の話を聞きたかったからだった。
久住はなにも語らない。話しかけて来ることなんて滅多になかったのである。
そんな久住のことを知りたくて、祖母に聞きに行ったのが始まりだ。
当時の幼い悟には歳を重ねている人間は何でも知っているように見えた。
「くーちゃんはね、おばあちゃんの息子に似てるのよ」
そして、祖母はやっぱり知っていた。
母親でさえ知らない久住のずっとずっと深い話を。
祖母は母を産む前にひとりの男の子を産んだ。
母親がまだ幼い頃に事故で亡くなったという祖母の息子は、久住のように上手く笑えず口癖は『ごめんなさい』という悲しいものだったという。
早くに亡くなった母方の祖父――つまり、悟の母の父は息子と久住と似たような不器用な男だったらしい。
悟の母はかつていた兄も父も記憶に薄いままで、久住のことをうまく受け入れられなかったのだと、祖母は悟に語ったが、幼い悟がそれをすべて理解するのは難しかった。
ただ、悟は目を丸くして
「久住はいつも悲しそうだよ」
と、自分の目に見えたことをそのまま口に出した。
これに驚いたのは祖母だった。
同じものが悟にも見えていたことを祖母は心底驚いていた。
悟には久住のことが、本当によくわかっていた。
久住の心に暗雲が立ち込め始めたのは悟がまだ言葉を充分に話せない頃だったせいで、久住を引き止めることはおろか久住の支えにもなれなかった。
しかし、悟はしっかりと久住を――兄を理解していた。
祖母だけがそれを知り、祖母だけがすれ違った兄弟に泣いた。
だからなのか――、祖母は死に際に悟の手を握り言った。
「くーちゃんのこと、よろしくね」と。
それは悟の中で、引き金にも等しかった。
医者は言った。
天寿だというには些か年齢が若すぎる。
心臓が弱っていたのかも知れない。
医療に詳しくない悟はその言葉を聞いて思い込んだ。
――久住のせいだ、と。
しきりに久住の心配をしていた祖母は心労で亡くなった。
一度そう思い込んだらそれは悟の内側に黒くなってこびりついた。
久住のせいで、ばあちゃんが。
祖母が願ったこととは真逆に事態は変化しようとしていた。
自分だけは久住を理解していると幼い頃の悟は思っていた。
祖母がそう言ったからだ。
けれども、祖母が亡くなったショックと久住のせいで被る迷惑が徐々に悟を蝕んでいく。
あんな奴、もう兄貴じゃない。
あんな奴、もういなくなればいい。
その思いだけが増長して、次第に悟の明るい顔を曇らせて行くようになった。
それは、何度喧嘩をしても何度夜遊びをしてもずっとずっと変わらない。
いつしか、悟は久住という名前を聞いただけで暴れ出す凶暴な少年になっていた。
久住は何度となく悟を試し、悟は何度となく久住を嫌った。
俺みたいにはなってくれるな――
その久住のメッセージに、悟は一度も気がつけないまま、気が付けば高校生活最後の年になっていた。




