競争
昼間の僕は、基本的にぼーっとしていた。
体の方は問題ない。どれだけ幽体夜遊びしていても、肉体はしっかり休息がとれているので、むしろ快調なくらいだ。
問題なのは……自分でもよく分かっている。
お医者様でも草津の湯でも、っていう例のやつ。
恋の病とはよく言ったものだ。
まさに、熱病のようである。
幽体の状態ではそれなりにユキと話せるのだけれど、肉体に戻って思い直すと心拍が上がる。
心臓があるからドキドキが増加するのだろうか?
思えば、彼女には三回しか会っていない。
なのに、このダメージときたらどうだ。
気が付けばユキの姿を思い浮かべ、彼女の言葉を思い返し、僕の思考と記憶は今や、完全に彼女の占領下にある。
いとおしいという気持ちがある。
同時に、僕には手が届くはずもないという切なさもある。
そして、ただユキの事を知りたいという好奇心。
恋はするものではなく落ちるもの。
何かのセリフでそんなのがあった。
やれやれと思う。
ずいぶんと巨大な穴に落ちてしまったものだ。
相手が悪かった。
今日は来てくれるだろうか?
これだけ通信が発達した時代にいながら、僕には彼女と連絡を取る手段が何一つない。
彼女のきまぐれに、ただ淡い期待を寄せるしかないのだ。
今日もいつものように体を抜け出すと、マンションの屋上に上がった。
屋上には鍵がかかっているので、誰も来ない。
僕の夜空を見上げていた。
さて、一体どのくらいまで高く飛んでいけるのだろう?
気圧の影響は受けるのだろうか?
大気圏を抜けられるのか?
宇宙空間に出たらどうなるんだろう?
空気がなくても大丈夫だろうとは思うけど。
真上を見ながら、とりとめもなく宇宙に思いを馳せ、ふと視線を戻すとすぐ目の前にユキの顔があった。
「うわぁ!」
気功でも喰らったみたいに僕が飛び退くと、ユキはまたケラケラと笑っていた。
どうにも彼女には人を驚かせて楽しむという悪癖があるようだ。
黙っていれば、すごく清楚に見える顔をしているのに。
「まだ注意力が散漫なようね」
「すいません、師匠」
なぜ僕が謝るのか分からなかったが、彼女が来てくれて嬉しかった。
もし贅沢を言うなら、あの美しく夜空を飛んでくる姿をじっくり眺めたかったけれど。
「今日のフライトプランは?」とユキが尋ねた。
待ってましたとばかりに、
「海です。機長」と僕は答えた。
ほー、と彼女が腕を組んだ。
「そこまで上達したのかしら?海までは結構距離があるわよ?」
僕はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「競争する?」
やれやれ、と彼女は首を小さく振った。
「身の程を知らないわね」
昨日の自主トレで、僕は結構自信を付けていた。
自分でも驚くくらいのスピードが出せるようになっていた。
自信なんていうものを、わずかでも持ち合わせていた事にも驚くが。
「ここから2時の方向にまっすぐ。海岸線を越えた方が勝ち」と僕は言った。
車なら4時間かかる。
「いいわ。じゃあ10秒ハンデあげる。お先にどうぞ」
「後で言い訳は無しだからね」
僕は心を落ち着け、向かうべき方向に視線を向ける。
それから意識を遠くに。
そして一気に飛び出した。
ジェット戦闘機みたいに家族していく。
夜空を切り裂くように。
速度を測るわけにはいかないけど、これは音速を超えているのではないかと思う。
景色が一瞬で後方へ流れていく。
さすがにユキだってこれには追い付けないと思う。
意識を先へ先へ。その意識を追いかける。
ユキは追い付いて来ているだろうか?
振り向いて確認したいけれど、そこまでは器用に意識をコントロールは出来ない。
とにかく全力で飛ぶ。
5分ほどで海が見えてきた。
我ながら驚異的なスピードだ。
「勝ったぞ!」
数秒で海岸線に到着。
と思いきや、あわやゴール寸前の所で突然数メートル先にユキが現れた。
「なんで!?」
僕はコントロールを失い、減速が間に合わず、ユキに突っ込む。
と思ったらするりとすり抜けて海に墜落した。
ぐったりしてユキのもとに戻ると、彼女は人の神経を逆撫でするような喜びのダンスを踊っていた。
「私の勝ちね。何か賭けておくんだった」
僕はため息をついて、
「なんだったの、今のは?」
「テレポート」
事も無げに言う。
「ずりぃ…。でもずるいけどすごいな。そんな事できるんだ」
「高等テクニックよ」
ユキは得意気だ。
それから僕らは、波打ち際に腰をおろした。
紺碧の空。
その空にイヤリングのように引っ掛かっている三日月が、その光を蒼黒い海に投げている。
「絵画みたいだ」と僕が言ったら、ユキはただ静かに微笑んだ。
そんな顔もするんだ、と思う。
彼女は色んな笑い方をする。
今のはさしずめ女神の微笑というところか。
波が返す返すやってきては、僕らの体をすり抜けていく。
水そのものは感じないけれど、何かにやさしく撫でられているような感触がある。
「面白かったね」とユキが言った。
「まあね」
「すごく速かった。ものすごい進歩ね」
「ありがとう」
ユキに褒められると嬉しい。なんだかくすぐったいような気もするけど。
「これは冗談抜きにして本当にすごいわよ。まだ1週間かそこらでしょ?普通は離脱だけだって初めはそんなに安定して出来ないのよ」
「ああ、それは……」
僕はこれまでの経緯をユキに説明した。
「ビールで離脱してるの!?」
さすがのユキもこれには驚いていた。「ビール飲んだら離脱できるなんて聞いたことないわ」
「昔、いくらを食べると透明人間になる漫画があったけど」
「それは知らない」
「そう」
「でも才能あるわよ。離脱後の成長はあなたの実力でしょ?」
「うん。なんか面白くて夢中になったよ」
「それでいいのよ。ほんと言うとね……」
ユキが言った恥ずかしそうな顔をした。「今日、最初は瞬間移動使うつもりじゃなかったのよ。だけど予想以上に速くなっていて……あ、これはまずいかもって」
僕はじっと彼女の顔を見た。
「それ、本当?」
ユキはカクカクと頷いた。
多分嘘だ。




