名前
なんと、彼女は翌日もやって来てくれた。
同じ場所で、僕の飛行訓練は続いた。
「さぁ、やってみて」と彼女が言った。
「了解、オビ・ワン」
僕がわずかばかりのユーモア精神を発揮すると、彼女は眉の間にシワを寄せた。
「なにそれ」
「あれ?知らない?スターウォーズ」
「知らない」
僕は頭を掻いた。
「要は……師匠ってこと」
「最初からそう言いなさいよ。行ってこい!弟子」
僕は苦笑いしながら橋先から飛び降りた。
重力があるわけではないから、意識を下へ下へと、言ってみれば僕の進行方向に意識を置いて、それを幽体に向かわせるような感じ。
先導システム付のミサイルみたいなものだ。
体のコントロールではなく、あくまで意識のコントロールである。
水面ぎりぎりの所で、今度は上下の動きから横の動きに切り替える。これが難しい。
惰性がついて体が水面に付いてしまう。
水は不思議だ。
固形物と違って、多少なりとも僕たちの影響を受ける。
すれすれに飛ぶと、まるで風を受けたみたいに波が生まれる。
もちろん彼女みたいに幽体のコントロールはまだ出来ないけれど、それでも飛行すぴーどはどんどん速くなった。
これも意識の持って行き方である。
「ずいぶんよくなったじゃない」
彼女が珍しく褒めてくれた。
こちらも頬が緩む。
一休み、といった感じで僕らは橋の欄干に腰かけていた。
まぁ、厳密に言えば腰かける風に浮いているのだけれど、ただ立って浮いているよりは落ち着く。
「嬉しいね」と僕は言った。「よくなったなんて言われた事がない」
「んん?」
彼女が怪訝そうに僕の顔を覗きこんだ。「どういうこと?」
「いや」
僕は恥ずかしくなって笑った。「そんな大層な話じゃないよ。僕は何をやっても上手く出来ないってこと。昔からね。何をやっても上手くいかないし、上達もしない。得意なものが何一つないんだ」
「…………」
「あ、ごめん。別に自分を卑下しているわけじゃないんだ。ただ、本当にそうなだけ」
彼女は珍しく真剣な目で僕をじっと見ていた。
「本当にそう?」
「そうさ」
「ふうん」
彼女は視線を外すと、つまらなそうに言った。「私には言い訳にしか聞こえないわ」
「言い訳?」
「うん。上手くいかないのは仕方ない。僕は何も出来ないんだからって」
「…………」
「本当にやったことあるの?」
「それは……」
「やる前からいつも思ってるんじゃないの?自分にはどうせ無理だって」
「あの……」
「初めから諦めている人が何かを成せるとは思えないけど?」
これまでになく熱を帯びた彼女の口調に、僕は戸惑った。
「えーと……」
僕は返答に困って、「その辺りの事は持ち帰って考えていいかな。正直、よく分からない」
「議員か」
彼女が笑ったのでほっとした。「あなたは素直なんだかひねくれてるんだか分からないわね」
それは僕も同じだよ、と思った。
彼女が何を考えているのか、僕には全く分からなかった。
その当時ももちろん分からなかったし、もしかしたらそれはずっと謎のままなのかもしれない。
「ところでさ」と僕は思いきって切り出した。「名前を訊いてもいい?」
それを言うだけなのにドキドキした。
「名前が必要?」と彼女がこくびをかしげた。
「必要!」
僕がわずかばかりのきっぱりと答えると、
「ふうん」と品定めするみたいに僕をしばらく見てから、
「ユキ」とみじかく彼女が言った。
ユキ、か……。
なんだかとても大切な秘密を打ち明けられたような気分で、僕は頬を緩ませる。それから慌てて、
「あ、僕はヤマト」と名乗った。
「そう」とだけ彼女は言った。
正直なところ、彼女、ユキは僕の名前に対して興味も無さそうだった。
まぁ、ぜいたくは言えない。
彼女の名前を訊いても手に入れただけでも大収穫とすべきだろう。
翌日、ユキは現れなかった。
次に来てくれた時には驚かせるぞ、というモチベーションのもと、飛行速度を上げる練習をひたすら行う。
なんだか、妙な気分だった。
思えば、これまでにここまで何かを本気で取り組んだ事はなかったような気がした。
ユキの言葉は、柔らかな棘みたいに刺さっていた。
やる前から自分には無理だと思ってるんじゃないの?
初めから諦めている人が何かを成せるとは思えないけど?
「いつからなんだろう」と僕は呟いた。
切り離すことの出来ない影法師みたいに、「無力感」が僕のあとを着いてくるようになったのは。
いつだって上手くいくようには思えなかったし、実際にその通りだった。
ほらね、といつも思った。僕に何かを成し遂げられるなんてことは永遠にない、そう感じていた。
そんな僕は、今は夢中になって飛行訓練をしている。
もちろん動機は不純だし、僕が早く飛べたところでこの世界は何も変わらない。それこそ埃一つ舞い上がらない。
それでも、なんだか悪い気分ではなかった。
朝になるまで、僕はひたすら飛び続けた。
こうして、初めて離脱してから一週間が過ぎた。