眠り姫
それから僕は、毎日彼女の元を訪れた。
病室に花を飾り、窓を開けて空気を入れ換え、ベットのすぐ脇に椅子を置いて座る。
そして、僕の眠り姫を思う存分眺める。
今ならどんなに見惚れていても怒られない。
これはチャンスと見るべきだろう。
目が覚めたらきっと許されない事だから。
彼女の小さな胸の動きを、僕は愛しく見つめる。
息をしている。ほんの微かではあるけど。
そして、後ろが透けてしまいそうに白くて細い腕から伸びる点滴のチューブが、彼女をこの世に繋ぎ止めてくれている。
口には出したことはないけれど、ずっと疑問に思っていた事がある。
なぜユキは僕の住む街に現れてのだろう、と。
どこにでも好きな場所に行けるユキが、なぜ僕のマンションに向かって飛んできたのだろうと。
「たまたまよ」と彼女は言うだろう。
でも本当は、ずっと僕の事を見てくれていたんじゃないかって思うのは、そう的はずれではないんじゃないだろうか。
ユキは絶対に認めないだろうけど。
今の彼女からは想像もつかないくらい、色んな表情がその下に隠れているのを僕は知っている。
天使の笑顔だったり、悪魔の冷笑だったり、女神の微笑みだったり、ニヒルな小悪魔の笑いだったり……ああ、笑い顔ばかりだ。
少女の顔、教師の顔、本気の顔、怒った顔、わんぱく坊主みたいな顔、最後に見たのは少し寂しそうな顔だった。
眠りたいなら好きなだけ眠ればいい。
僕はただ待つだけだ。その時がくるのを。
父親がキュウリを収穫していた。
そばに寄り、
「ずいぶんでかいね」と僕は言った。
「二日はぬか床に入れないとな」と父親が言った。
彼はしょっぱいくらいに浸かったぬか漬けが好物なのだ。
それがあれば、いくらでも飲めると言っていた。
「あのさ」と僕。
「ん?」
「この村にも僕の出来そうな仕事ないかな」
父親は手を休める事もなく、
「……今の仕事はどうするんだ」
「辞める」
「マンションは」
「引き払う」
「…………」
「で、しばらくまたここに住まわせてくれないかな」
父親が鼻で笑った。
「馬鹿なのか。お前の家だろうよ」
僕も笑う。
「そうだね」
「仕事に関しては……まぁ贅沢は出来ないが暮らせる分くらいの仕事はなんかあるだろ。声かけといてやる。ま、しばらくは俺の仕事を手伝え」
父親が大きく息をついた。「どうせ毎日病院に通うんだろ」
いつもの病室。
窓を開けると、南国とまではいかないにしろ爽やかな風が入ってくる。
ビールが飲みたいな、と思う。
それから、いつものように独り言を始める。
「最高の夏だった」
世界中を見て回り、深海に潜り、地球まで見た。アカシックレコードも行ったし、幽体合体もした。
奇跡をこねくり回して固めたような日々だった。
「でもね、次はもっとすごい奇跡が起こるはずなんだ」と僕は言った。
それは、この目でもう一度彼女の笑い顔を見ること。
この耳で、もう一度彼女の毒舌を聞くこと。
この口で想いを伝えられること。
手を繋ぐこと。
抱きしめること。
一緒に生きていくこと。
その顔を見ていると、今にも目を開けそうに見える。
そしたら、彼女はまず何て口にするんだろう。
楽しみだ。
少し風が冷たくなってきた。日が傾いてくる時間だ。
僕は窓を閉め、椅子を直し、
「また明日」と彼女に声をかけた。
まるで、たった今完成したばかりのような艶やかな黒髪や頬に触れたいと思う。
でもそれはしない。
後で怒られるのが分かっているから。
たがら手を握るだけにしておく。
これなら脈を取っていたのだと切り抜けられるだろうから。
それまで気前よく外に漏れだしていた花の香りが部屋の中に舞い始める。
僕には、彼女がちゃんとここにいる事が分かっている。
僕にしか感じ取ることのできない、親密なぬくもりが確かにここにあるからだ。
彼女の手を離し、じゃあねと軽く手を降った。
後ろ手で病室のドアを閉めかけたとき、窓のカーテンがふんわり揺れた気がした。
完




