第一話
「お疲れさまです。マスター」
「お疲れ、駆君。気をつけて帰るのよ」
時刻は夜の一〇時二〇分。アルバイトを終えた桜木駆は、いつも通り着替えを終えると店長に挨拶をして外に出た。
外は暗く、街灯の灯りが道を薄ぼんやりと照らしている。今は六月。暦上は夏といっても、夜は未だに肌寒い。
駆は身体を震わせると、学校指定の黒色のスクールバックを肩にかけて歩き始めた。
駆の働く喫茶店は駅前に位置している為、この時間でも周囲には帰宅途中のサラリーマンや、カップルがちらほらと見える。
「少し寒いな。……あの道を使うか」
信号待ちをしているサラリーマンの隣で、手を摩りながら呟く。
いつもならこの広い道路を道沿いに歩いて帰宅するのだが、今夜は気温が低い。
一刻も早く冷たい外気から逃れたかった。
信号が青になったことを確認して横断歩道を渡ると、駆はいつもなら右折するところを直進した。
この先にあるのは時代と共に少しずつ廃れていった地域の商店街だ。実は商店街を通ると自宅までの距離は増えてしまう。しかしそれでも駆が商店街を通るのは、商店街には信号が無く、赤信号によって歩みが止まることが無いからだ。
家までの距離は近いが信号が多い道と、家までの距離は多少あるものの信号が無い商店街……結果的に早く自宅に着くのは商店街を通るルートである。
ではなぜ駆は日常的に商店街のルートを使わないのかというと……
「やっぱり、不気味だよな」
商店街に足を踏み入れた駆はため息をつく。
駆の目の前に広がるのはゴーストタウンさながらの、不気味に静まり返った商店街だった。光を放つのは大体、二〇メートル間隔で設置された橙色の街灯だけ。さらにその街灯の二、三割は点滅しているか、死んでいるかという状況である。
この道が約一キロも続くと考えると、少しうんざりとする。
(もしここで幽霊の噂とかがあったなら、信じちゃうかもな)
駆は商店街の所々に飾られている提灯を見て苦笑した。長年放置されていたのだろう。提灯は真ん中から下に破れ、中の電球が見えてしまっている。辛うじて、商店街の名前である「夜坂商店街」と書いてあるのが読めた。
この商店街も一〇年ほど前はまだ活気にあふれていたのだ。しかし時代の流れで利便性に優れるショッピングモールやコンビニが街のいたる所で建てられ、駐車場などがない商店街の店は一つ、また一つとシャッターを下ろしていった。
それは時代の流れ……商店街が衰退するのは必然の結果だったのかもしれない。しかしそうであっても、店を閉めざるをえなかった人々には同情を禁じ得なかった。
「でも、流石にこの雰囲気はどうにかしてほしいよな」
特に数年前のポスターはいい加減剥がしておいてほしい。人が写っている色褪せたポスターを暗闇で見ると背筋が凍る。
別に幽霊を信じているわけではないし、怖いわけでもない。
早足で歩きながら言っても信じてもらえないかもしれないが……ただ幼少の時に見てしまったホラー映画がトラウマになっているのだ。
「ん?」
商店街の中程まで来たとき、視界の端で小さな黒い影が一瞬走った気がして足を止める。
影が走っていった先をよく見ると、二つの小さな目が自分を警戒するように見ていた。影の大きさからして、猫か犬だろう。
動物であることに心の中で安堵して、駆は腰をかがめて動物と目線を近づける。
すると隠れていた動物は、駆が危害を与える存在ではないと認識したのか、ゆっくりと暗闇から姿を現した。
「……犬?」
それは黄土色の毛並みを持つ子犬だった。子犬は駆に近づくと膝に顔を擦りつけてくる。
駆が頭を撫でると子犬は気持ちよさそうに目を細め、いきなり制服の裾にかぶりついた。そのまま子犬は駆を、商店街の店と店の間の細い路地に向かって引っ張っていく。
「なんだ? そっちに何かあるのか」
「ワン!」
どうせ伝わらないだろうな、と思いながらも駆は子犬に話しかける。すると子犬は肯定するように吠えて細い路地に消えた。
駆は子犬の後を追いかけ、路地に入り……
「何を見せてくれ……え?」
自らの目を疑った。
路地では子犬が、膨らんだ麻袋のようなものに甘えるように頭を擦る。問題はその麻袋のようなモノが、子犬に反応したのか小さく震えたことだ。
恐る恐る近づくと、その麻袋のようなモノからスラリとした足が生えている。それを見て駆は、麻袋のようなものが人であることに気づいた。
「……死んでないよな?」
思わず駆け寄り、倒れている人の様子を確認する。それは駆と同じ年くらいの少女だった。
外国人なのだろう。雪のように白い肌、まるで黄金を糸に伸ばしたかのような、美しい光沢を持つ金髪。顔は煤汚れていたが、美形であることは間違いない。
着ているのはダークグレーのドレス。肩口のゆったりとしたフリルのデザインが華やかさと共に、可愛さも醸し出している。捲れたドレスの裾から覗く、白く無駄な肉のない太ももが艶めかしい。
駆は少女が息をしているのを確認して、ホッと息をつくと同時に肩を揺する。
「君、大丈夫? おーい……」
「ん、んぅ……」
しかし少女は呻くだけで全く起きる様子がない。
「こういう時って……警察でいいのかな?」
駆は少女を揺するのを一旦止めると、携帯電話を取り出した。
見たところ顔色が悪いわけでもない。しかし今日は季節外れの寒さだ。このままにしておいたら風邪をひいてしまうだろう。
なら警察に保護してもらった方が彼女にとってもいいはずだ。
「うー……わんわんッ!」
しかしそう考えて電話をかけようとしたところで、それまで駆の様子をじっと見ていた子犬が反抗するように唸り、吠えはじめる。
子犬の目に警戒心と敵意が浮かんでいるように思えて、駆は携帯を操作する手を止めた。
「……警察は駄目なのか?」
「わん!」
駆が唸る子犬に問いかけると、子犬は肯定するかのように吠える。
「困ったな」
駆は携帯をズボンにしまうと、少女と子犬を交互に見比べる。
警察がダメなら、駆が知っている寒さを凌げるような場所は一つしかない。知り合いでもない少女にそこまで構う必要があるのだろうか……と思う反面、このまま見なかったことにして外に放置することはできない。
「仕方ない……か」
しばらく考えた末、駆は倒れている少女を背負いあげる。その身体は軽く、びっくりするほどに細かった。
「この娘は家に連れていくけど……お前はどうする? 一緒についてくるか?」
少女を背負ったまま、足もとでじゃれついてくる子犬に話しかける。
子犬はもう一度吠えると、尻尾を振って駆の後をついてきた。
……しかしこの娘はなんで路地裏なんかで寝ていたのか。
考えられる理由は迷子ぐらいだが、いくら外国人だといっても、見た目からしてこの少女は自分と同じか、少し下の年齢だ。迷子になる年齢にしては大きすぎる。
「まあ、いいか」
今はできる限り早く、この少女を家まで連れて帰り、温かい所で寝かせるべきだ。
駆は眠る少女の寝息を背中で感じながら、自宅へと急いだ。
まだ日も出ていない早朝。高い塀に囲まれ、立派な門を持つ年代を感じさせる木造屋敷の廊下を、一つの人影が彷徨っていた。
その人影は周囲に警戒心を滲ませながらも、興味深げにきょろきょろと顔を動かして、ゆっくりと襖を開けて部屋の中を覗く。
そこには布団にくるまるように眠る一人の青年がいた。
「……! …………ッ!」
「ん……、まだ目覚ましは……鳴ってないだろ」
誰かが寝ている自分の肩を揺さぶっている。
「お……! いった……どこ……ッ!」
駆は目を開くことなく、その手を払いのけると布団をかぶって寝がえりをうつ。
全く、こんな朝早くに一体誰が起こしに来たんだよ、と駆は眠気で霧掛かった頭で考える。
両親は生まれた時からおらず、兄妹もいない。唯一の肉親だった祖父も二年前に他界している為、駆は一人暮らしだ。
つまり、駆を起こしにくる人物はいない。
「……え?」
その現実を思い出し、駆の思考は夢から現実に引き戻された。そしてそれと同時に、
「儂の話を聞けぇええええッ!」
駆の肩を揺すっていた人物から叫び声が上がり、駆の右腕に鋭い痛みが走る。
「痛ってぇえええええええッ!」
かぶっていた布団を弾き飛ばして、駆は跳ね起きた。
痛みが走る右腕には、昨夜路地裏で倒れていたのを見つけ、別室で寝かせていた少女が牙を立てていた。
反射的に右腕を大きく振ると、少女はしなやかな動きで空中で身体を捻り、少し離れた畳に音もなく着地する。
「ぐるるる……」
そして右手を畳につけて上体を低くすると、少女は牙を剥いて目を怒らした。
「テメェ……何をしやがる! いきなり噛みつくとか、何考えてんだッ!」
「それはこっちのセリフじゃ! 目が覚めたら何処だが分からないところにいて……一体何が起きた? お主、儂に何をした!」
「俺はお前が倒れているのを見て――……」
駆の言葉に少女が反論する。駆は更に言い返そうとして、ふと気がついた。
この少女の言っていることは正しい。
駆は助けるつもりで寝ている少女を自宅に連れてきたが、少女からしたら路地裏で寝ていたはずが、寝覚めたら何処だかわからない場所にいたことになる。混乱しても仕方がないだろう。
見ると少女は先ほどと変わらず警戒心のこもった真っ赤な目で駆に牙を剥いている。
……まるで子犬が威嚇しているようだ。
とにかく、自分が良かれと思ってしたことだったが、この少女にとっては有難迷惑だったかもしれない。そうである以上、ここは謝っておくのが筋だろう。
「ああ、外で寝ていた君を許可も取らずに家に運んだことは謝ろ……」
「うるさい! うるさい! うーるーさーいのじゃ!」
……聞く耳持たずかよ。
少女は駆の言葉を遮る。
「きっと寝ている儂をじっくりと舐めまわして……」
「待て、俺を変質者にするな!」
若干ヒステリック気味に叫ぶ少女に、駆は慌てる。
何一つ後ろめたいことはしていないのに、顔を真っ赤にして自らの身体を抱きしめる少女を見ると罪悪感がこみ上げてくる。
いや、本当に何もしていないけどね。
「嘘じゃ! 人間が見ず知らずの儂を助けるわけがない! どうせ――」
しかし不意に駆を糾弾する声が小さくなる。いつの間にか少女は腹部を押さえていた。
「……どうした?」
「い、いや何でもない。何でもない……ぞ」
明らかに様子のおかしくなった少女に、駆が問いかける。
少女は気まずそうに顔を逸らしながら、ジリジリと後ろに下がる。と……
ぐぅうううう……
「っ!」
「あー……腹が減っていたのか」
部屋に獣の唸り声とも間違えかねない低音が響き渡る。それは誰もが空腹を感じた時に起こる現象。無論、駆ではない。誰が鳴らしたのかは、茹蛸のように顔を真っ赤にした少女が、駆を上目遣いで睨みつけている状況から分かるだろう。
少女は駆の指摘に息を詰まらせると、ペタンと畳の上に腰を下ろした。
その姿を見て駆は困ったように頭を掻く。いや、実際困っているのだが。
彼女の誤解を解くには、彼女に話を聞いてもらわないといけない。そして彼女に話を聞いてもらうには、一旦彼女を落ち着かせるべきだ。
丁度少女は空腹みたいだし、朝食でも御馳走したら多少落ち着くかもしれない。
「……じゃあ、少し早いけど朝食でも作るか。君も食べるだろ?」
「……へ?」
「いらないのか?」
駆の言葉に少女は目を丸くする。それは少女にとって予想していなかった言葉だったのか、しばらくその場に固まる。やがてその意味を理解したのか、少女は不安げに口を開いた。
「……食べる」
「じゃあ二人分だな」
駆は頷くと畳に腰を下ろしている少女に手を差し出した。差し出された駆の手に、ビクッと震えた少女は差し出された手と駆の顔を見比べる。
勿論、駆の顔はこれ以上警戒心を与えないよう、満面の笑みだ。
やがて少女はゆっくりと差し出された手に手を伸ばす。駆はその手を掴むと、少女の小柄な身体を引き上げた。
「朝食には時間がかかるからな、その間に風呂にでも入っておけ」
「……平八は、平八はどこにおるのじゃ?」
「……平八?」
少女の口から出た聞き慣れない平八という名前に、駆は眉をひそめる。平八という名前からして日本人だろう。この少女の保護者だろうか?
「黄色がかった茶色の……犬がいなかったか?」
「ああ」
それを聞いて、昨夜この少女を見守るように行動していた子犬の姿が思い浮かぶ。
「あの子犬なら君と一緒にこの家で寝ているはずだけど……」
「そうか。ならばいいのじゃ」
その言葉に少女はホッとしたような表情を見せる。
駆は少女の手を放すと、キッチンに行くため廊下に続く襖を開けた。
「うわっ!」
「わふ?」
「あ! 平八っ!」
「わん!」
すると足もとに黄土色の毛玉があることに気がつき、駆は反射的にその場から飛び退く。
それは今、少女と話していた子犬だった。子犬は行儀よく廊下に座り込み、飛び退いた駆を見て不思議そうに首を傾ける。
駆の動きとは対極に子犬の姿をその目に収めた少女は、子犬に抱きついた。
「良かった、平八! 無事だったんだな」
「わ……わふぅ」
「むおっ! や、止めるのじゃ」
少女に抱きつかれた子犬は、少し苦しそうにもがきながらも、少女の顔をペロペロと舐める。少女はくすぐったそうに目を細めて笑った。
その様子から少女がこの子犬を大切にしていることが駆には分かった。
平八という名前は謎だが。
「廊下を右に行って、次の角の三つ目のドアが脱衣所だ。その奥が浴室だからな。タオルは脱衣所の棚に入ってるから、勝手に使ってくれ」
「の、のう……平八も入れてよいか?」
「ああ、君に任せるよ」
駆は布団を畳むと、キッチンに向かうため部屋を出る。
「あの男は……信用できるのか、平八?」
「わん!」
部屋を出た駆の耳に、少女と子犬の会話が聞こえた。
これであの娘も、俺に対する警戒心を緩めてくれたらいいのだが。
「……犬って何を食べるんだ?」
食べさせたらいけないものがあったら困るな。携帯で調べるか。
「おお! これは……」
頭にタオルを巻いた少女がテーブルに並べられている食事を見て目を輝かせる。着替えが無かったため、彼女が着ているのは駆の黒いTシャツだ。恐らく下着は何もはいていないが、Tシャツが大きいため、シャツの裾が彼女の大事な所をうまく隠している。
広く開いた襟元から見える風呂上がりで上気した肌が色っぽく、駆はサッと目線を逸らした。
「そんな喜ぶような食事か? ただのハムエッグトーストとサラダだぞ」
「儂にとっては一カ月ぶりのまともな食事じゃ」
「まじか……」
笑顔でそう答える少女に、駆がたじろぐ。
駆が作った食事は特別な物でもない。いわば焼いた卵とハムをトーストに乗っけ、サラダをつけただけ。時間にしても二〇分あれば作れるものだ。
これがまともな食事といった少女は、一体これまでどんなモノを食べて生活していたのだろう。
「あと平八……だったか? おまえの分もあるぞ」
「わん!」
冷蔵庫から子犬のエサを出して子犬の前に置く。子犬には携帯で調べた、鳥のササミと冷蔵後にあった野菜を煮込んだエサを出してある。
てっきり子犬はすぐにエサを食べ始めると思っていたのだが、尻尾を振りながら駆を見て座り続けている。
「食べていいぞ」
「わふっ」
駆の合図に待っていた、とばかりに子犬は出されたエサを食べ始めた。犬のことはよく分からないが、許可を得るまで「待て」、ができるのは行儀がいいのではないだろうか。
「それに比べて……」
「ぱくぱく……ぬぐ、んぐぐ!」
「全く……ご飯は逃げないからゆっくり食べろ。ほら、お茶」
「んっ、ごくごく……ぷはぁ」
よほど腹が減っていたのか、ハムスターのようにトーストを頬張っていた少女が喉を詰まらせ、苦しそうに呻く。駆はテーブルに置いてあったコップを取ると、麦茶を淹れて少女に渡した。
麦茶を受け取った少女は、ゴクゴクと喉を鳴らして飲む。……いい飲みっぷりだ。
「いただきます」
駆は少女と向かい側の席に付き手を合わせると、ハムエッグトーストにかぶりつく。口の中にこんがりと焼けたハムの香りと、とろりとした卵の黄身が広がる。
駆は口の中に入れたモノを飲み込むと、二枚目のハムエッグトーストに手をつけている少女を見た。
「まずは……驚かせて悪かった。昨日の夜、アルバイトから帰る途中に道路で寝ている君を見つけてね……風邪をひくと思って連れてきたんだ」
「…………頭を上げてくれ」
駆は少女に頭を下げる。その言葉に咀嚼を止め、しばらく駆を見ていた少女だったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「儂こそ、さっきはお主に失礼なことをして申し訳なかった。助けてくれた恩人に対して噛みつくなど……何を言われても仕方ないのは儂の方じゃ。むしろ食事や風呂まで用意してもらって、なんとお礼を言えばいいのか」
「そう言ってもらえるとありがたいよ」
駆の肩からスッと力が抜ける。それと同時に、少し驚きの感情が浮かぶ。食事をとって気分が落ち着いたのか、彼女の雰囲気は先ほど駆の腕に噛みついていた時とは違い、柔和になっている。
ふと目が少女と合い、どちらともなく苦笑いを浮かべた。
「俺は桜木駆だ。君は……?」
「ほう、では駆と呼べばよいか。儂は……エレナ。そしてコヤツが儂の相棒の平八郎じゃ。いつもは長いから平八と呼んでおる」
「わふん」
飼い主のエレナに紹介されて、床で駆とエレナの様子を窺っていた平八が鳴く。
エレナは平八の頭をグリグリと撫でた。仲の良い一人と一匹を見て、駆が口を開く。
「色々聞きたい事はあるけど……エレナは外国人だよな?」
「うむ。駆からしたら、海の向こうから来た儂は外国人じゃろうな」
そう言ってエレナは、頭に巻いたタオルからはみ出ている金髪を摘まみ駆に見せる。室内の灯りに照らされてきらりと光るその金髪は、確かに日本人では珍しいだろう。
「で、なんでエレナは路地裏……あんな所で寝ていたんだ? ホテルにでも泊まれば良かったんじゃないのか」
「ん……確かにホテルに泊まってもいいんじゃが、お金がかかるじゃろ? それに……」
そこまで言うとエレナは足もとにすり寄る平八を見て目を細めた。
「平八が中に入れないからな」
「……そうか」
確かにペット同伴で入れるホテルはそうそう見つからない。駆は残っていたハムエッグトーストを飲み込むと、サラダにドレッシングをかける。
「エレナはどうして日本に来たんだ? 観光か?」
駆は自らの言葉に少し違和感を覚えながら、エレナに尋ねる。
駆の地元であるここ夜坂市には大した観光地などない。あるとしたら市街地から少し離れた場所にある夜坂ランドという遊園地と海沿いにある夜坂タワーだが、あのレベルの観光地など、この日本には数えきれないほどにある。
少なくとも、外国からわざわざ観光に来るようなものはここには無いのだ。
エレナは駆の問いかけに考えるような素振りを見せると、申し訳なさげに語り始めた。
「助けてもらって悪いんじゃが、日本に来た理由は詳しく話せぬ。まぁ……端的にいえば、人探しじゃ」
「人探し? 探している人が日本にいるのか?」
聞き返した駆に、エレナは首を横に振った。
「いいや、何処にいるのかは分からぬ。もしかすればアメリカにいるかもしれぬし、ロシアにおるのかも、アフリカにおるかもしれない」
「は? それじゃ、探しようがないだろ」
エレナの言葉の意味に気づき、駆は目を丸くする。
つまりエレナはこの広い世界の中から、何処にいるかも知らない人物を探して日本に来たといっているのだ。それは砂漠に落としたダイヤモンドを探すよりも難しいのではないのだろうか。
「早いもので探し始めて2年、日本に来て半年そこらじゃ。……流石に儂も見つからないのではないかと思い始めておるよ」
「そうか……何か力になれることがあれば良かったんだが……」
手助けできるならこの少女を助けてあげたいのだが、流石に何処にいるか分からない人物を探すことはできない。
がっくりと肩を落とす駆に、エレナは苦笑いを浮かべる。
「と言っても、儂はこの日本にいるのではないかとは思っておるのじゃ」
「何か理由があるのか?」
「うむ、彼奴は日本の武士道に感銘を受けていてな。よく儂も彼奴の取り寄せた時代劇を見たモノじゃ。日本語を覚えたのも彼奴のおかげじゃからのう」
「なるほどな」
エレナの古臭い話し方には疑問を持っていたが、時代劇を見て日本語を覚えたのなら納得だ。
「まあ、彼奴が『いつかは日本の侍と技を競い合いたい』と言っていたのを思い出して、儂は日本に来たのじゃよ」
「今の時代、侍と戦うのは難しいと思うけどな」
駆は手を合わせると席を立ちあがる。食べ終わった食器を持つと、流し台に置いた。
「食べ終わったら流し台に置いといてくれ。あと洗った服は乾燥機に入れておくからな」
「うむ。……すまぬ」
「気にするな」
申し訳ないとばかりに顔を曇らせるエレナに気にしないでいい、と手を振る。脱衣所に入った駆は洗濯機の中から、洗濯を終えたエレナの服やウサギがプリントされた下着などを乾燥機に放り込んだ。
……意外に可愛らしい下着をはいているんだな。
乾燥がすむまでかかる時間はおおよそ三〇分。その間に駆は学校に行く準備を整えに自室に入る。
「えっと……今日は金曜日だから現代国語と世界史……」
「駆……何をしておるのじゃ?」
「うおっ?」
制服に着替え、スクールバックから昨日使用した教材を取り出して、時間割を行っている時、いきなり背後から聞こえた声に、駆は驚きの声を上げた。
「す、すまぬ……そんなに驚くとは思わなんだ」
後ろに立っていたのはエレナだった。
髪を乾かしたのだろう。頭に巻いてあったタオルは無く、美しい金髪は左右で深紅のリボンで小さな房でまとめられてある。余った髪は真っすぐにおろされ、彼女が動くたびに柔らかく波打っている。俗でいうツーサイドアップという髪型だろうか。
「あ、ああ……時間割をしていたんだよ。学校に行かないといけないからな」
「そうか……学校か」
学校と聞いて、エレナは駆の着ている制服と足もとに置いてあるスクールバックを珍しげに眺める。
「俺は学校にあと一時間ほどで学校に行かなければいけないけど……エレナはどうする?」
「儂も服が乾いたら外に出るとしよう。いつまでも好意に甘えるわけにはいかぬしな」
駆はエレナの言葉に頷くと、食器を洗うために台所へ向かう。
食器を全て洗い終えた頃、脱衣所から乾燥終了の音が鳴ったため、駆はリビングで子供向けのアニメを見ていたエレナに声をかけた。
「今から乾いた服にアイロンをかけるから、かけ終ったら着替えてくれ」
「うむ。分かっ……え?」
「ん? どうした?」
疑問の声を上げたエレナを駆は不思議そうに見る。
「駆……もしかして、私の服を洗ったのか?」
「ん? ああ、洗って乾燥機に入れたけど……まずかったか?」
「洗って……乾燥機の中に入れたってことは……下着も見たのか?」
駆の言葉にエレナの顔が青くなる。
一瞬エレナが言っていることを理解できなかった駆だが、乾燥機に入れたウサギのパンツと大事な場所を覆うささやかな黒い布のことを思い出し、すぐにその意味に気づいた。
「す……すまない。一度許可を取ってから、服は洗うべきだったな。悪い」
「い、いや。特に気にしていなければ、それでよいのだ。儂も……気にしない」
そう言うエレナだが、さっきまでは真っ青だった顔は今では沈みゆく夕日のように赤く染まっている。
……どう見ても下着を見られたことを気にしていた。
それまで特に意識などしていなかったのに、エレナの表情を見て、駆は自分の顔が熱くなるのを感じた。きっと自分の顔も、エレナと同じように赤くなっているだろう。
「ええっと……アイロン……掛けていいよな?」
「う……うむ。頼む」
気まずい空気の中、駆はエレナに聞く。エレナから許可を貰った駆は、逃げるようにリビングを出た。
「忘れ物はないか?」
駆はスクールバックを肩にかけて振り返る。そこには玄関で靴を履くエレナがいた。
「ふふ、忘れるようなものなど持っておらぬ」
駆にエレナはそう笑う。エレナの服は出会った時に来ていたダークグレーのドレスだ。
昨夜出会った時は埃などで薄汚れていたドレスだったが、洗濯によって汚れは落とされ、アイロン掛けによって皺ひとつない。生まれ変わったドレスに身を包むエレナは、まるでどこかの国のお姫様ではないのかと思うほどの美しさを纏っていた。
二人並んで玄関を出た。玄関を出ると、目の前には広い庭が広がり、立派な門が立っている。そして自宅をして使っている屋敷の隣には、自宅と同じくらいの大きさの古めかしい木造屋敷が立っている。
「ほぉ……駆の家は広いとは感じておったが、ここまでだったとはな」
「まぁ、敷地に道場や蔵もあるからな。よその家と比べたら大きいだろうな」
駆の家は地域では比較的有名な家庭だ。なんでも祖先は、聞く人が聞けば目を見開く程に有名な剣豪だったらしい。
そのせいか、祖父が生きていた二年前までは、駆の家は道場を開いていた。スポーツとしての剣道をはじめ、今の時代では必要ない実践的な剣術を教えていたが、師範だった祖父が死んで道場は閉まった。
今では道場は、時折駆が素振りに使うくらいでしか使われることはない。
「ふむ、道場がある家は名のある武士の家と聞いた事がある。駆は侍だったのか?」
「いや、ただの学生だが」
「…………じゃよなぁ」
「わふぅ……」
道場と聞いてキラキラした目を向けてくるエレナに事実を淡々と伝えると、エレナはがっくりと肩を落としてため息をつく。そんな失意の飼い主を慰めるように、平八がエレナに寄り添う。
……なんだろう。何も悪いことはしていないはずなのに、罪悪感が心にのしかかる。
「じゃ、俺は今から学校に行くけど……エレナはどうするんだ?」
そんなことを考えながら、駆は門を開けてエレナに問いかける。エレナは平八の首元をくすぐると、真っすぐと駆の目を見た。
「儂と平八も旅に出る。色々と世話になったな、駆」
「……探している人が見つかればいいな」
エレナと平八が門から出たのを確認して、駆は門を閉める。鍵を掛けると、駆はエレナに向き直った。エレナのルビーを思わせる深紅の瞳が駆を見つめる。
「うむ、また縁があれば会おう。さて行くぞ、平八!」
「わんっ!」
そう口にしてエレナは背を向ける。平八も別れを惜しむように駆に顔を向けて一声鳴くと、エレナの後を追っていった。
「…………難しいだろうな」
その後ろ姿を見送りながら駆は呟く。最後に、駆に見せたエレナの微笑。
それは希望に溢れ、未来を信じる者の顔ではなく、心のどこかで諦めながらも義務感で身体を動かし続ける……疲れ切った者の顔に思えてならなかった。




