第一八話
「ん、んう……」
頬をペロペロと舐められる感覚に、エレナはまだ重い目蓋を開いた。
「くぅん」
「え、平八?」
その瞬間、エレナは自らが黄土色の子犬を抱いていることに気がつく。それと同時に、部屋の壁にかけている時計が目に入る。時計の針は九時を少し回っていた。
平八はエレナの腕から抜け出し、ちょこん、とエレナの枕元に座る。
エレナは目を擦りながら布団から起き上がると、先ほどまで自分が寝ていた布団を不思議そうに見つめた。
「儂は……何故、布団に?」
自分は駆に敵討ちを止められ、気持ちを整理するために外を歩いていたはず。そして帰宅した後、激しい疲労感と睡魔に襲われ、少しの休憩のつもりで崩れ落ちるように玄関に座り込んだのだ。
あの後、起きて布団に入り込んだ記憶など自分にはない。では、なぜ自分は布団で寝ていたのか。
考えたエレナだったが、その答えはすぐに出た。
「そうか……駆が運んでくれたのじゃな」
エレナはそう呟くと、布団を畳み、平八を抱いて部屋を出る。
「おはよう、駆……って、おらぬか」
そう口にしてリビングに入ったエレナだったが、リビングには駆はいない。しかしテーブルの上に一枚の紙きれが置かれているのを見て、エレナはその紙を手に取った。
そこには、日本語で何かが書かれている。
「む……むう、日本語か。儂は話すことは何とかできるが……日本の言葉は難しくて読む事ができぬのじゃ。じゃが、駆の置いていったメモじゃろうし――何とかして読まねば」
むぅ、と唸り声を上げながら、エレナは顔をしかめてメモと睨みあう。
「これは……〈あさ〉で、ここが〈くら〉? そしてその文字が〈トースト〉で――」
「わん!」
「む? どうしたのじゃ、平八」
エレナは首を傾げて、読める言葉を口に出す。するとそれを聞いていた平八が冷蔵庫へと走り、その前で座りこんだ。
「冷蔵庫に何かあるのか?」
エレナは冷蔵庫を開けて、目を丸くした。そこに入っていたのは一人分のツナサラダと平八のドックフードだった。
「なるほど……朝食が冷蔵庫に置いてあるってメモだったのじゃな。よく気付いたな、平八」
「くぅーん」
エレナはそう言って平八を撫でるが、すぐに真剣な顔つきになると、自分の肩に鼻を近づけ、ヒクヒク、と動かした。
「じゃが、ご飯もよいが……まず、身体を洗いたいのじゃ。昨日、玄関で寝てから儂は風呂に入っておらぬしな。平八も入るか?」
「わんわん!」
「うむ。では一緒に入るか」
平八は鳴き、四足で立ち上がる。エレナは尻尾を振る平八を、微笑みを浮かべて抱き上げると、脱衣所に向けて歩いて行った。
「はい。どうぞじゃ、平八」
「わん!」
風呂に入り終えたエレナは髪を乾かすと、冷蔵庫からツナサラダとドックフードを取り出した。
そしてドックフードを平八の前に置く。平八が食べ始めるのを見て、エレナはトースターから焼いたトーストを出し、ツナサラダに掛けてあったラップをはがした。
「それにしても……駆はどこに行ったのじゃろ」
ジャムを塗ったトーストを齧りながらエレナは呟く。風呂から上がった後、何度も駆を呼んだのだが、返事はなかった。どうも家に駆はいないようだ。
「今日は日曜日のはずじゃし……学校もないよな」
そんな事を考えながら、エレナは一人、食事をとる。
「御馳走様でした」
すぐに食べ終えてエレナは手を合わせると、食器を台所に運ぶ。
「む……洗い物が残っておるな」
そして、流し台にまだ洗われていない食器が置いてあるのをエレナは見つけた。しばらくその食器を見つめ、何かを考えていたエレナだったが、やがて顔を綻ばせると頷く。
「うむ、洗い物ぐらい儂がするべきじゃな」
エレナはそう呟いて袖をまくったその時だった、
「ん? お客さんか?」
玄関の来客を知らせるチャイムが鳴り響く。エレナはまくっていた袖を戻すと、玄関に小走りで駆け寄る。
そして、ドアを開けたエレナは目の前に立っていた人影に、「ひっ!」、と小さく悲鳴を上げた。そこに立っていたのは緑の作業服を着た二人の大柄な男。
日に焼けた肌が印象に残る屈強な男たちだった。
「な……なんじゃ?」
「ここは、桜木駆さまのお家ですか?」
左側に立つ短髪の男の言葉に、エレナは戸惑いながらも頷きを返す。そんなエレナに男たちは顔を見合わせると、笑みを浮かべた。