102
何故、あの時エリックを行かせたのだろうか。
危険があるのは分かっていた。冷静に力量差を推し量れば、彼が神父の上手を取り続けられる可能性がどれだけあっただろうか。まして『剣』の術者に対して『弓』の、小隊の三軍と比べても見劣りする彼では……。
陛下も言っていた。
『エリックが…………彼が死んでいたとしても、同じことが言える……?』
たった一人を助ける為、たった一人を見捨てるのであれば、俺の行動にどんな価値があるのだろう。
けれど、あの場で無理を押し通すことが出来ただろうか。
世界を助け、たった一人を助け、そんな主人公じみた結末を引き寄せる、そう考えることの重圧は一度でも誰かと共に戦ってしまえば簡単には口に出来なくなる。
失った命と、失わせた命の責任が口を閉ざす。
すべてが自分一人で完結出来るのであればよかった。
誰かを生かし、勝利を掴もうとするのなら思考する。
打算と、効率と、確立を考えずにはいられない。
ジーク=ノートンはあまりにも呆気なく言って見せた。
背負うモノが少ないから?
違う。アイツもまた小隊の長を名乗ってこの戦場へ現れた。
背負うというのなら、ラ・ヴォールの焔を手放す時、そうして救った少女を見る度に、見捨てた世界が混沌としていく様を己の責任としてずっと捉えて生きてきた。だからこそ病的なまでに誰かを救おうとし、そこに絡むあらゆる苦難を問答無用に払い除けれれるぞと、完全無欠のヒーローを気取って見せて、そう振舞ってきた。
そんな彼でさえ、結局は全てを救うなんて出来なかった。
ヴィレイの言葉は、確かにその一点においては間違っていない。
全てを…………その言葉の、なんと重たいことか。
けれど彼は言った。
赤毛少年は、エリック=ジェイフリーは、あの神父を前に言ったんだ。
成し遂げてみせるからと、きっと生きてまた会うからと、宣言したんだ。
否定の言葉も、誤魔化しの説得も、全てが胸の奥へ引っ込んだ。
提示された作戦も決して意味が無いとは思えず、ある程度の効果は望めるだろうと考えた。
現実的に達成可能な方策を揃え、立ち向かう意思を、確かな恐怖と震える自分とを理解し、超えて示してきた。
それを止めてしまうことは、この先へ進む俺自身を止めることと何の違いがある。
果たせなかった時の辛苦と責任と死とを覚悟した彼を、俺は認めたんだ。
その結末がどうなろうと。
俺と、エリックの二人の問題だ。
神父。
※ ※ ※
攻防はどんどんと一方的になっていった。
調子を落としていた神父の動きは一撃を見舞うごとに鋭さを増し、一つ、二つと傷が増えていった。
致命傷には至っていない。魔術光の揺らぎによる読みは通じている。魔術が無くとも、この捌きは『剣』と『槍』の慣れた攻防の延長線上だ。だからまだ、耐えていられる。
身体が熱い。肌の寒さは感じるのに、内側から溢れる熱がすぐさま覆い隠してしまう。
ハルバードが手に吸い付いてくるような感覚があり、取りこぼしたとしか考えられないような捌き方でも驚くほど安定している。
神父が驚いた顔をする場面もあった。
しかし、劣勢であることに変わりは無い。
雪の不安定さ、右半身の不確かさ、神父の抱える問題が誤解であったのではと考えてしまうほどに、速度をあげ、こちらをかく乱してきた。
攻撃の意図を混ぜれば即座に切り裂かれる予感があった。
これだけの速度、反応を前に、捌くのが精一杯の状態で余計な動きを混ぜる危うさ。
それでもいつか、この均衡は崩れる。
防戦だけではいけない。
けれど、期を見出せない。
誤れば次の一手で首が落ちる。
迷えど身体は自然と動き、神父の攻撃を阻んでくれた。
集中し切れていないという自覚があるのに、不思議と反応してくれる。
攻撃に転じたい。
攻めているという安心に身を浸したい。
だが、耐えた。
ぐっと堪え、降りかかる死線を越え続ける。
そう。
好機は必ずやってくる。
※ ※ ※
魔力の揺らぎを用いた読み、
そして魔術を使わないことによる読みの揺さぶり、
寒さや半端な休息によって生まれる不調、
足場の悪い雪という好条件、
コレは戦いの流れを作っていく上での判断材料だ。
言うなれば調理法。では何を作るかと問うた時、この決闘に望む上での大方針が見えてくる。
俺たちが出した結論は、持久戦だ。
先手を譲り、相手の出方を慎重に伺う神父に対して未知の攻撃は即座の踏み込みを許さない。
ハルバードという重い武器と打ち合うことは確実に筋肉を疲労させる。
寒さという環境も体力勝負において老体には不利となるだろう。
面白いデータがある。
クレア達がこの戦いに参戦して以来、ずっと計測し続けてきた神父の平均交戦時間だ。
およそ十三分。
こちらの対策が揃えば即撤退するし、状況によっては三十分を超える場合もあった。
けれどその場合は常に随伴が奴を守り、休息の時間もあったという。味方が削られていればほぼ撤退を選んでいる。
元より奇襲目的の達成に拘泥せず、こちらの出方を伺いつつの荒しが殆どだった。
そして王都南方の平原へ陣取ってからは、地の利を取った王都守備隊の活躍もあり、マグナスと丘陵地帯で戦っていた時のような殿じみたことは見せていない。あったとしてもここぞと言う時のピンポイント起用。またマグナスとの一戦以降では常に随伴を付け、力技での強行突破一辺倒ではなくなっている。味方を使い、敵を騙し、不意を打つ。誰も止められないという畏怖と、次々と打ち倒されていく腕利きの者たちが、これらの情報を覆い隠している。きっと、後になってデータだけを見たからこそ気付けたことで、俺も最初から加わっていたら惑わされていただろう。
神父、ジャック=ブラッディ=ピエールは負傷を抱えている。
彼が戦い続けていた根拠にゾーンの可能性を考えはしたが、それも数日継続など不可能だ。
連日、極めて入りやすい状態であったことは確かだろうが、寝食の時間までそうだったかと言われると当然無い。
冷静に分析を進めていけば見えてくる。
彼は確実に疲労を蓄積させ、それを自覚するからこそ自身で交戦時間を調整できる場面での登場のみに絞っている。
プロスポーツにおいて、選手のピークは三十代と言われている。
中には四十を越えても最前線で戦い続ける者も居るが、それも半ばを過ぎればもう怪しい。
筋力は衰え、体力は減じ、肉体に引き摺られて集中も続かなくなってくる。
無論、長年続けてきたことで得た技術や、経験による勝負強さはあるだろう。
彼ら高齢の選手たちが苦戦する理由の一つに道具の発達という面もまたある。
テニスなんかじゃ、時代ごとにテクニックとパワーの優劣が入れ替わっている。より強力なショットを支えるラケットの登場が絶技と呼ばれるテクニシャンの選手を力任せに打ち倒し、けれどやがてその強力なショットに加えてテクニックを盛り込んだスタイルが産まれ、パワー一辺倒の戦い方が駆逐され、そのテクニックもまたいずれ……。
同時にこれは道具の発達と平行して選手の加齢による衰えが理由の一つにあがる。
豪腕任せのスタイルを生涯貫くことは出来ない。
故にテクニックを身に付け、翻弄し、ここぞという場面で力を使い切って相手を脅す。違うぞという誤解を刷り込む。
既に十三分など過ぎている。この時間の中身が容易かったものであるかは、この先の戦いが教えてくれるだろう。
加えて、かつて彼は巨剣を扱う『剣』の使い手だったという。
それが刀身が短く、取り回し易い小太刀へと持ち替えた。
具体的な理由こそ知れないものの、若かりし頃のように力任せで豪快な剣術を捨てざるを得なかった理由がある。
あの巨体だ。
決して衰えを期待は出来ない。
けれどやはり、若い肉体と老いた肉体とでは疲労の蓄積が違う。
今の動き、雪の上を不安のある半身を抱えたまま速度を維持し続けることにどれだけの集中力を必要とするだろう。老いて脆くなった筋骨への負担は若い者とは比較にならないほど大きい。末端神経はどんどん繊細さを失い、寒さで動きは更に鈍くなる。
俺の防御を掻い潜るべくあの手この手と繰り出すたびに溜まっていく疲労は決して皆無なんかじゃない。
分かり易い傷ではなく、内部に蓄積する見えない傷が、必ず神父の動きに乱れを生む。
ましてこれは決闘。
不調を感じ、即座に撤退の出来る襲撃とは違って誤魔化すことが出来ない。
勝つまで、彼は俺を攻撃し続けるしかない。
この防戦に意味が無いなんてことはない。
皆の戦い続けてきた日々が確実に神父を追い詰めていた。
一撃を防ぐほどに、次への動きへ牽制を入れるほどに、神父は苦しんでいく。
焦ればそこが隙となる。
魔術光の乱れを見逃すものか。
そして均衡はあまりにも唐突に破られる。
こちらに斬り付ける神父の攻撃を、固く、受ける。
重く、鉄がたわむような音を立ててハルバードが軋む。
対し神父は俺の防御によって、そこを攻撃した反発の大きさを逃がし切れず姿勢を崩した。
見えている。
奴の魔術光、その揺らぎの一つ一つを丁寧に観察出来る。
視界に入っていない筈の部分すら想像出来た。
お前は今、集中を乱し、肉体が思うように動かず、焦って攻撃を繰り出してきた。
姿勢を崩した神父が、咄嗟に踏んだ右足もまた踏ん張りきれず膝をつく。
重心を前へ。
石突きを上へ、戦斧を下にして受けた状態から支点を前へ出し、振り子の動きで刃を振り上げる。
神父が身を逸らす。避けられた。そう思うが、結果として出た動きは印象よりも遅く、逃げ遅れた彼の左目を、戦斧の刃が切り裂いた。
血が舞った。
行ける。
そうだ、行け。
振り上げた戦斧を返し、叩き付ける一撃で肩口を叩き潰せる。
負傷して尚も攻撃を繰り出そうとしているが、それはもう間に合わない。
だから、
――ニィ、と神父の口元が左右へ伸びるのを見た。
血飛沫があがる。
視界が赤い。
振り上げた戦斧に煽られ身が逸れていく。
支えきれない。
倒れるな!
後ろ足を踏んだ。
けれどいつの間に移動していたのか、そこは丘の斜面のあった場所で、
「好調。故の隙。ずっと自省していたのでしょうが、問答の後からその意識が薄れつつありましたよ?」
地面のない方向へ雪を踏み抜いた俺は、胸部から流れ出る血で雪を染めながら、斜面を転げ落ちていった。
※ ※ ※
空を見る。
曇りない空を見る。
背中が冷たかった。
身体が熱かった。
どちらだ?
俺が進むべき先は、どちらなんだ?
ずっとハイリアという男が抱えてきた孤独感。
優秀であった少年が、母子を救うためにそれまでの人生を捨てて、かつての名を父の拾ってきた少年へ託した。
そうやって得た居場所は誰かの代理で、自分が確かに相応しい人物であるとは言い張れず、けれど内心で否定する自分を表面的に誇示することだけは上手くなっていった。
受け継いだハイリアの名を、自分の思う貴族という理想像に従って進んでいると、周囲の姿勢があまりにも異なっていることに気付いた。
なぜ努力を続けないのか。口ではやりたいと言いながら、確かにその感情を内に秘めながら、怠惰に日々を浪費していく人々で溢れていた。
考えて、考えて、考えて、ひたすら考えて上位能力を獲得した。羨む人々に、彼らの望みに応えてどうすればいいのかと考え、相手にとってより分かり易く、やり易い手段を教えた。実行し切れた者は誰一人居なかった。
誰もが懸命に生きているのではない。
いや、誰もが自分なりの懸命さで生きているのだと思い至ることで、彼らなりの目指す場所というのを尊重し、背を向けて先に進むことを覚えていった。
もっとと求めることと、指摘することは、相手をただ苦しめるだけだった。
蔑むような思いはなかった。
ただこうと決めて進んだ先、一時であっても寄り添って示した場所にすら到達せず、目を逸らしてアイツは特別なんだと言われる度、胸を抉られたような寂しさを覚えた。
自分勝手ではあっただろう。傲慢でもあっただろう。蔑みこそしなかったが、他者と比較し己は優秀である自覚もしていた。
こうだと決めて、ひたすらに突き進む彼は、きっと周囲にとっては異質だった。それだけにクレアの存在に衝撃を受けた。確かな身分すらなく学園でのし上がっていこうとしていたヨハンへもそうだ。二人はハイリア自身の不足もあって、やがて足を止めてしまったけれど、求めすぎないよう慎重に間合いを量りながら、願い続けていた。
なぜそうまでしてと自問することもあった。
理由は分からない。
ただ、物心ついた時から、何かを成さねばならないという焦燥があった。
漠然とし過ぎている、姿の見えない何かに引き摺られて、そうやって進んだ先、振り返った背後に誰もいないことに慣れていった。
なにも成功ばかり経験した訳じゃない。きっと一貫して彼の人生を見詰めていけば、失敗の数は成功の何十倍何百倍にも及ぶ。
あれほど大切に思った妹の心を守りきれなかった。
理想を抱いた少女を真っ直ぐなままに貫かせることも出来なかった。
真っ向から対峙してきた少年と肩を並べることも、かつて同じ夢を描いた筈の幼馴染が立ち上がる理由にすら成れなかった。
今、高みから転げ落ちていく自分の姿は、今の俺自身そのものだ。
手足が重い。
頭が痛い。
誰も彼もが俺に止めろと言ってきた。
そうまでして進むなと、安息に身を沈めていろと。
身を案じてくれることへ嬉しさはあっても、引き留め握られた手を払うにはもっと大きな痛みが付き纏った。
空を仰いでいる。
深く雪へ沈みこんだ身体は、まるで無数の手に抑え付けられているかのようだった。
なのに冷たい風から遮られているせいか、不思議と温かくも感じる。
このままここで……………………違うだろう?
雪を掴んだ。
肘に力を入れ、手で支えて、肩で押し上げる。
腹に力を入れて、首を起こし、足を手前へ巻き込んでいく。
そうして膝をついた時、不意に周囲の音が聞こえてきた。
風の音。
静かな、戦ぐ風の音。
どくどくと流れ落ちる血を見詰め、膝に手をやり、不恰好に立ち上がる。
立っていることも、脚がふらついて覚束無い。
そうして振り返った。
皆が、居た。
※ ※ ※
クリスティーナ=フロウシア
決闘の前夜、意識ある者全員を集めた場で彼は言った。
※ ※ ※
ジン=コーリア
己の戦う理由を。
※ ※ ※
オフィーリア=ルトランス
その目的が決してこの戦いを必要としているのではない事は明らかで、それでも戦いたいのだと。
※ ※ ※
クラウド=ディスタンス
だから……目を逸らしたりなんてしない。
※ ※ ※
セレーネ=ホーエンハイム
あの人は絶対に勝つ。
※ ※ ※
ヨハン=クロスハイト
俺たちの託したものが、決して報われないものなんかじゃないと、証明してくれる。
※ ※ ※
ヘレッド=トゥラジア
越えられない壁などないことを。
※ ※ ※
ダット=ロウファ
…………だから進め。
※ ※ ※
クレア=ウィンホールド
あの言葉を信じてるから。
※ ※ ※
ハイリア
強い風が背を押した。
煽られるようにして踏んだ一歩と共に、吹き抜けていく粉雪の向こうに佇む男を見た。
当代最強を謳われる『剣』の術者。
そこへ至る坂道を、あたり前の一歩で進んでいく。
想いを託す武器は道程に突き立てられていた。
柄を握りこみ、身体の内が凍りつくほど息を吸った。
「――――――――――――――――――」
叫んだ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
それは断末魔のように。
それは産声のように。
「神父!!」
駆ける。
駆け上がる。
引き摺るように、追い越すように、時に這い、時に足を取られ、激痛に声が漏れても、がむしゃらに進むことをやめない。
皆に言ったんだ。
どれだけ不安に思ったか。
どれだけ止めようと思ったか。
こんな宙ぶらりんで、半端な道に逸れる自分を恥じもした。
けれど望んだ。
望まずにはいられなかった。
たとえどれほどの苦難が待っているとしても、目を逸らして通り過ぎるなんて出来なかったから。
『明日、決闘を迎える前に、言っておきたいことがあるんだ』
言葉にするのは怖い。
成し遂げられなかった時、皆に与えてしまう失意と落胆に向かい合うのが怖いから。
諦めた時、今まで付いてきてくれた皆がどこかへ去っていってしまう気がするから。明確に示された先が、皆の望みと違っていたら、きっとまた一人になる。
俺は弱いから。ヒーローのように全てを守るなんて出来ない俺には、震えるほど、怖いことなんだ。
『皆』
それでも、皆を率いる長でありたいと願ったんだ。
『俺に……お前たちを背負わせてくれ』
皆の夢も、希望も、失意も、絶望も、始まりも、終わりも、全て、全て俺が背負う。
背負わされたのでもなく、背負ってしまうのでもなく、俺自身が望んで彼らを背負うのだと。
お前たちが思い描いたものは、こんなところでは終わらない。
俺を見ろ。お前たちの進む先は必ずそこへ繋がっている。不可能なんかじゃない。遠く険しいのかもしれない。けれどそうして進む先に、俺はずっと立ち続けるから。お前たちが来ると信じて、振り返りながら、ここに居るぞと言い続けるから。
見ていろ。
ここはまだ途上。
もっともっと先がある。
俺が、お前たちの長が証明してみせる。
そうだ。
俺が証明しないでどうする!?
だから駆けろ。
長い長い坂道を、駆け上がれ。
皆の目指した先へ。
俺たちの目指した場所へ。
丘の上、一人の男がいる。
男は、片腕を失い、半身をずたぼろにされ、今また左目を失い、なのに悠然とそこに佇んでいる。
二刀を構え、俺が辿り着くのを待っている。
柄は未だ手に馴染む。
雪原を踏み、粉雪を舞わせながら、間合いの外からハルバードで薙ぎ払う。
そうして届いた初撃は、
「神父!」
「っ!?」
完全に受け止められたにも関わらず、神父に驚愕の表情を以っての後退を強いた。
何故? いや。
突く。
徹底して、足元を狙い、容易い後退を許さない。
届け。
ようやくここまで来た。
届け。
逃がすものか。
届け。
お前だけは、俺たちが倒す……!
届け。
突いた戻りの矛先が僅かに神父の右足を掠める。
届け。
崩れて尚も下がる足を追っていくと、神父の震える唇から言葉が零れ落ちた。
「何故…………」
届け。
振り上げる。
届け。
重い、あまりにも重い、押し潰さんばかりの圧を背負い、それを決して手放さないようぐっと握りこみ、振り下ろす。
届けぇぇえええ!
※ ※ ※
ジャック=ブラッディ=ピエール
駆け上がる少年の姿を見た瞬間、己が意識がこの戦場に立って以来最高潮の状態に達したことを察した。
尋常ならざるほどに拡大した感覚は舞い上がる粉雪の一つ一つさえも捉え、切っ先で切り落とすことが出来た。
これならどんな動作も見逃さない。全てを捉え、感じ、察することが出来る。この丘から向こう、決闘を見詰め、次なる動きへと準備を進めている両軍の動きまでも、最早手の平の事のように感じられた。
剣筋を見れば、その者の越えてきた人生が見える。
マグナスのそれは極めて暴力的で、なのにこちらのことはとても繊細に捉え、熟考してくる。その上での濁流じみた攻撃は、傷を抱えながらも奮い立ち続けた彼の人生そのもののように思える。
ハイリア、彼の攻撃は実の所凡庸そのもの。けれど尋常ならざる鍛錬によって研ぎ澄まされた技によって、芸の無い攻撃も時折目を張るほどの冴えを魅せる。きっと彼はとても真面目な人間で、真面目すぎて、そこへ至れない人々との差に苦しみ続け、それでも貫いてきた。
この戦いで多くの者たちと切り結び、その人生を垣間見た。
交わした言葉以上に、交わした剣戟が教えてくれる。
彼らの望み、彼らの苦しみ、彼らの届かぬ願い、運命。
全てを切り伏せてきた。
最初から、全て定められた導きに従っていればこんな苦しみなどなかった。
人に定められた生に意味は無いと、そう言える者が居ることは知っている。
けれど全ての者が望んでなどいない。
定めに従い、その中で幸福を見つけることはそれほど難しくない。
強者の理屈で世界を作ってはいけない。
それでは救いを求めてあがいていなければ救われないことになってしまう。
だからどうか、聖女よ。
届かぬと知って尚も駆け上がってくるこの少年にも、安らぎをお与えいただきたい。
「神父!」
攻撃がくる。
この雪原を登り切った彼の初撃はやはり凡庸で、冴えた一撃で、けれど最早払うのは容易い。――その背後に、影を見た。
「っ!?」
完全に受け止めた。
初動からくる攻撃の流れも最早容易く掴める。
なのに、何故。
下がる。
追ってくる。
姿勢を低く、喰らい付かんばかりの突進にまた、影を見る。
赤い髪の少年。
前髪の奥からギラついた目を向ける少年。
静かにこちらを見据え、観察してくる栗色髪の少女。
他にも、多く、多く、数え切れないほど。
違う。彼は一人だ。この丘には私と彼以外居ない。
なのに彼の背後に、踏み出した一歩を追って、今まで切り伏せてきた少年少女たちの姿を見た。
踏み込む足、こちらの姿勢を見て取った上で回避の先を捉えようと踵からつま先へと加重が移って行く。その動き。
こちらの周囲から何を読み取っているのか、貫くようではなく、俯瞰するような視線。その目は。
踏ん張る動きに合わせて呼吸を止め、また動きを後押しするように吐き出す。その呼吸も。
どれも、これも。
どれもこれも、彼以外の誰かを幻視する。
重ねてきた戦いの中で感じ取った彼ら彼女らの技巧、意図――それらを生み出すに至った生の道筋。
ハイリアという男の中にはそれがある。
ハルバードが振り上げられる。
姿勢を崩され、咄嗟の反応が遅れた私を捉える一撃。
動揺に腕が上手く動かない。
背負う彼の、背後に数え切れぬほどの影が浮かび上がる。
その重みを果たして受け止め切れるのか……?
だからこそ思う。
「何故…………」
ならば何故、見捨てたのか!
振り下ろしてくる。
しかし遅い。
二刀の極み、その奥義。
無より至る一斬が先に彼へ届く。
ここまでして届かなかった少年へ向けて、憤らずにはいられなかった。
彼らを背負い、未来を見せるというのなら、何故――
「何故彼を助けに来なかった! 何故私に彼を殺させた!? 答えろっ、ハイリア!!」
来ると思っていた。
決して見捨てぬと、思い込んでいた。
けれど彼は現れず、少年は地に伏したまま死に絶えて、
「生きているぞ」
「な……に、を……」
「エリックは生きている」
その言葉にどれだけの確信があったのかは分からない。
しかし、彼の背後に、南方からこの戦場へ寄せてきた新たな一団があったのを見て取った。
遠目にも分かる。肥大化した意識がその存在を捉えた。浅黒い肌の、フーリア人たちの中に一人、杖にしがみ付きながらも自ら立つ少年が居るのを。
赤毛の、少年が、こちらを見た。
「っっっっっ!!!」
一瞬の遅れ。
それが間に合うはずの一撃を遅らせた。
防御を!
止められる。
彼の攻撃ならば、まだ――
「俺も一つ、どうしても言っておきたいことがあったんだったよ」
脚が、腰が、腕が、肩が、のしかかる重みに沈んでいく。
受け止めている。受け止めている筈が、支えきれない。
「本当に……こればっかりは我慢がならない」
彼を、見た。
常に冷静さを保ち、鋭くこちらを見据えていた筈の少年が始めて私へ見せる、激しい怒りと、憤りの表情を。
「っ――!」
「どうして……! お前たちみたいなクズ野郎共に、あいつらの夢が阻まれなくちゃならないんだよ!!」
腕が震えた。
「思い上がるな。いつまで高みにいるつもりだ? なあ――」
重い。
重い。
重い……!!
「お前と交戦し、死に至るほどの負傷を受けながら生き残った者がどれだけ居ると思う?」
亀裂が、
「お前は強かった。だが結局、皆の生きるという意志の前に、お前の魔術は敗北していたんだ」
小太刀が、砕ける。
「沈め。俺たちの勝利だ」
戦斧が、刃が、大地へ叩き付けられた。
血飛沫が雪原へ舞う。
右腕が、落ちた。
ぐらりと、前へ倒れこむ。
『剣』の紋章が消えていく。
魔術光が揺らめき、火の粉と散っていく。
完全な空白。
思考の全て、感覚の全てがぽっかりと空洞を描き、無我へと堕ちる。
※ ※ ※
ハイリア
………………………………………………、………………………………、…………………………、そう――――――
※ ※ ※
ジャック=ブラッディ=ピエール
何かを狙っていたということはない。
彼の放った攻撃の、あまりもの重さに耐え切れず、刃が折れ、地へと叩き伏せられた。
本当にそれだけで、なのに倒れこむ己が勝手に動いた。
――キン。
薄く浮かび上がるのは柄すらない抜き身の刀身。
倒れながら、ため息をつく動きのまま口に咥え、ただ沈む。
二刀の極み、それは、対する相手へ実在しない刃を察知させることから始まる。
目線、姿勢、首や腰や肩や膝や足先や、様々な情報を以って人は相手の動きを読む。
具体的な思考などそこにはない。漠然とした印象と、経験による真偽の見極めを越えて与える一斬。
相手が集中し、好調であればあるほどこれの効果はあがる。優れた者なら初動の為の繋ぎから動きを読んで回避してくる。けれどそれでいい。
それは囮。
奥の手は別にある。
虚偽であるにも関わらず、実在するかのように思わせるほどの動きと同時に、無と化した一刀が迫る。
完全な、見切りの通用しない、気配を殺しきった攻撃。
存在しない一撃が相手を断つ。
私自身、片腕を失い、本当に二刀が存在し得なくなってようやく会得出来たもの。
これは彼も見切れない。
攻撃の気配などどこにもない。
今の攻撃で勝利を確信した彼に対処することなど不可能。
最後の一歩を踏む。
前へ。
確信する。
殺った――――
「な……………………なぜ……」
刃は、彼の首筋を狙った攻撃は、それを待ち構えていたかのように指先で挟み込まれ、止められた。
なぜ、この攻撃を止められる……?
膝が折れた。
力が抜ける。
天を仰いだ。
そして、終わった。
※ ※ ※
ハイリア
勝利を確信していた。
文字通り全てを懸けて振り下ろした攻撃に、それを防ぎ切ろうとする神父へ向けた怒りと共に、これが最後の攻防だと決意した。
だからこそ競り勝ったその瞬間、俺自身直感的に勝利を思い、沸きあがる己を感じた。
戦斧は神父の小太刀を砕き、肩口から滑り落ちるようにして右腕を落とした。
手に残る感触も、血飛沫の温かさも、どこか遠い、浮ついた感情。
けれど確かに残っていた。
闘争の意識が。
未だ続く戦いへの嗅覚が、即座の途切れを許さず持続し、警戒していた。
残心。
それが繋いだ。
魔術光の揺らぎは無かった。
攻撃の気配などどこからも感じ取れなかった。
けれど、来ると思った。
ジーク=ノートンとの戦いを覚えている。
最後の最後で奴らは必ず一歩を踏んでくる。
初動を見切る必要すらない、絶対の事実に基づいて、この場で起こしうる最後の一斬を予測し、身構えた。
気取られぬよう、静かに、風に揺れる木の葉のように、そっと。
掴み取った刃をぐっと抑え、問い掛けに力の抜けた顎から抜き取る。
膝をついた神父から、一歩、離れる。
呆然とこちらを見る姿から更に一歩。
呼吸を整え、徐々に抜けていく闘争の感覚と入れ替わりに、何かが、膨れ上がってきた。
※ ※ ※
『 』
そう、コレは余談ではあるが。
神父は間違い無く不調を抱えていて、ましてやマグナスとの戦いは間違い無く彼への痛打を与えていて、続く日々は休むことなく連日連夜の襲撃。相手となる少年少女らはどれだけ切り伏せようとも立ち上がり、己を見据え、勝機を探してきた。児戯と笑うことは簡単だった。それでも、その目と向かい合い続けた神父が、果たして一切の危機感を覚えなかっただろうか。彼らを背負い、今また立ち塞がった少年に対して、その背後に皆を見たことは、あの日々と無関係だろうか。過剰なまでの警戒心を引き出したその理由は一体なんだったのか。
対し万全の体調を整え、徹底して研究されたデータを元に作戦を組み立て、実行してきたのとは対照的に、まして積雪という利を重ねたという条件下。
腕前は未だ道程の遥か先にあり、もし万全の神父との一騎打ちを強いられたのであれば勝利できたかどうか極めて怪しい。
トドメに繋がる振り下ろしはとある少年の存在無くては届きようも無かった事実と、極限まで研ぎ澄まされたが故に起きた幻視が流れを生んだ事も否定は出来ない。
それでも、最後のこの一刀。
ジャック=ブラッディ=ピエールが絶対の確信を以って放った絶無の攻撃。
彼という戦士を支えていた最大の根拠である経験と感性によって判断された勝利を、文字通り掴み取ったという事実。
だからこの勝負、例えどのような可能性を孕んでいたとしても、
「っ、は……っ」
最後のこの一合において、ハイリアという少年の、完全勝利で終わったのだ。
「――――っっっっ!!!」
人を背負った少年は、それが故に掴み取った勝利を前に、しかし、腕を振り上げ、
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――!!!!!」
抑えきれない感情と共に、一人の男として、歓喜の叫びをあげたのだった。




