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第五章:冷たい静寂、あるいは高潔な檻

隼人という光を奪われ、再び「流刑」に処された明美を待っていたのは、霧に包まれた石の都・ロンドンだった。

そこで彼女が選んだのは、もはや涙で助けを求めることではなく、完璧な「人形」として磨き上げられる道だった。

名門大学のガウン、代々受け継がれた銀器、そして感情を削ぎ落としたエレガントな社交。父・泰三が求めた「伝統への同化」を完璧に遂行しながら、彼女は自らの心を何者も踏み込ませない深い霧の中に隠していく。

絶望の果てに辿り着いた、極限の孤独。しかし、その乾いた心象風景の中に、一人のチェリストが奏でる「自由の叫び」が静かに、激しく波紋を広げていく。

登場人物

一条 怜: 天才チェリスト。実は日本の有力者・一条家の令息。明美と同じく「家」の重圧を背負いながら、その魂を音色に込める。



石の都、孤独の城

ロンドン・メイフェア地区のフラット

コンシェルジュが恭しく扉を開ける。入居して数ヶ月、明美は学生寮を離れ、歴史ある高級住宅街のフラットへと移り住んでいた。


部屋には日本から送られた木箱が並び、そこから取り出された上質な和食器が、大理石のキッチンに静かに居場所を定める。

週末、明美は日本での同級生を数人招き、ティータイムを開く。


「明美、この茶葉、素晴らしいわね。やはり日本から?」

「ええ。父が馴染みの店から送らせてくれたの」


フォートナム・アンド・メイソンのスコーンを銀のナイフで切り分けながら、明美は完璧な微笑みを絶やさない。だが、その心は冷めていた。

明美(心の声):(……上質なリネン、最高級の茶葉、そして選ばれた友人。お父様が求めた「社交」の形。私はここで、望み通りの「人形」として磨き上げられている……)


知性と伝統の洗礼

名門大学・フォーマル・ホール(Formal Hall)

重厚なオーク材の長机が並ぶ大食堂。天井まで届く絵画に見守られ、キャンドルの火が銀食器に反射して揺れている。

明美は黒いガウンを羽織り、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っていた。


隣に座る英国人の学生が、ウィットに富んだ現代政治の皮肉を投げかける。明美は戸惑うことなく、滑らかな英語で、かつ控えめなユーモアを交えて応酬した。

マナー教室で叩き込まれた所作は、もはや無意識の領域にある。


明美(心の声):(ここは食事の場ではない。いかに知性をエレガントに包装して差し出せるかという、社交の試験場だ。一瞬でも隙を見せれば、小野寺の家名が汚れる……)


コッツウォルズ・カントリーハウス

休日は、学友のネットワークを通じて地方のマナーハウスへ招かれる。

そこで明美が目にしたのは、ブランドロゴを誇示する日本の「成金」とは対照的な、数百年かけて手入れされた庭園と、代々受け継がれた傷だらけの銀器だった。


「明美、この古い銀器はね、曾祖父が戦地から持ち帰ったものなの」

友人の言葉に、明美は静かに頷く。

雨の降る広大な領地を、仕立ての良いバブアーのジャケットに、泥のついたハンターのレインブーツで歩く。傘は差さない。上質なコートのフードを被り、湿った土の匂いを吸い込む。


明美(心の声):(新しいものを買うのではない。古いものを慈しみ、自分を環境に馴染ませていく。これがお父様の言う「伝統への同化」なのね……。隼人さんといた頃の私は、なんて幼かったんだろう……)


ボドリアン図書館(Bodleian Library)

埃と古いインクの匂いが立ち込める静寂。明美は朝から晩まで、分厚い原書と格闘していた。

「お嬢様だから、家がお金持ちだから」という偏見を、彼女のプライドが許さない。


深夜、フラットに戻り、キッチンの隅で一人、エッセイの推敲をしながら涙が零れる。

明美(心の声):(……苦しい。誰かに「頑張ったね」と言ってほしい。でも、そんな弱音を聞いてくれる人は、もう私の世界にはいない)


翌朝、彼女は完璧なメイクを施し、何事もなかったかのような笑顔で教壇の前に立つ。


ウィグモア・ホール(Wigmore Hall)

そんな乾いた生活の中で、唯一、彼女の心が震えた瞬間があった。

クラシックコンサートのステージ。同年代と思われる日本人のチェリスト、一条いちじょう れい

彼が深く、力強い音色を奏でた瞬間、明美の胸の奥で、閉じ込めていたはずの感情が弾けた。


明美(心の声):(……なんて、自由な音。この人も、私と同じように重い看板を背負っているはずなのに。どうしてこんなに、心が叫んでいるような音がするの?)


ロンドン・ウィグモア・ホール(コンサート終演後)

拍手の渦の中にいながら、明美の指先は膝の上で震えていた。

最後の一音が消えた後も、チェロの深い残響が、彼女の肋骨の裏側にこびりついて離れない。


明美(心の声):(一条怜……。彼はきっと、私と同じ「選ばれた檻」の中にいるはず。なのに、どうして彼の音はあんなに激しく、自由を求めてのたうち回っているの? まるで私の代わりに、声にならない声を上げているみたいに……)


ホールの外に出ると、ロンドンの夜気は冷たかった。明美はバブアーの襟を立て、石畳を一人で歩く。

その日から、彼女の心には「自分を律する」ための新しい基準が生まれた。それは、父に従うためではなく、自分の中の「叫び」を一条怜の音色のように、誰にも汚されない高潔なものとして守るための、一種の信仰に近い強さだった。


ロンドン・ヒースロー空港(帰国当日)

卒業を迎え、帰国の途につく。

見送りに来た学友たちに、明美は完璧な英語と、一点の曇りもない社交用の微笑みを見せた。


明美(心の声):(もう、波音で幻聴を紛らわせていた私はいない。私は、この冷たい静寂を武器にして生きる。お父様の道具として生きるにしても、心だけは誰にも踏み込ませない)


本作を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

この章では、明美が英国という異国の地で、自らを「完璧な社交の道具」へと昇華させる過程を描きました。

彼女が傘も差さずに泥だらけのブーツで歩く姿は、環境に馴染もうとする努力であると同時に、内側の痛みを「伝統」という高潔な衣で覆い隠そうとする執念のようでもあります。

一条怜の音色に触れたとき、彼女が感じたのは共鳴。それは、檻の中にいながらも魂までは売らないという、静かなる宣戦布告だったのかもしれません。

帰国を決意した彼女の瞳に宿るのは、かつての絶望ではなく、自らを武器に変えた冷徹な意志。小野寺家の「最高傑作」として日本へ戻る明美を、果たしてどのような運命が待ち受けているのでしょうか。

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