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第四章:初恋

凍てついた季節が、一人の青年によって溶かされようとしていた。

大学進学後、深い闇の中にいた明美の前に現れたのは、世界中の光を集めたような笑顔を持つ掛川隼人だった。

彼の腕の中で初めて知る、自分を「一人の女性」として求められる悦び。父・泰三が強いてきた「効率」と「成果」の鎖が、隼人の情熱的な体温によってドロドロに溶かされていく。

登場人物


掛川かけがわ 隼人はやと

明美が通う大学の先輩。砂浜での偶然の出会いをきっかけに、孤独だった明美の世界に光をもたらす青年。

経済学部に籍を置き、将来は海外へ留学して自分の力を試したいという純粋な野心に燃えている。

「小野寺」という肩書きを知らずに明美自身を真っ直ぐに見つめるその屈託のない笑顔と、サラリーマン家庭で育った実直な価値観は、閉ざされていた明美の心を少しずつ溶かしていく。明美にとって初めての、そして唯一の「自分の意志で選んだ光」となる人物。



初夏の砂浜(夕刻)

どこまでも続く波打ち際。明美(19)が独り、膝を抱えて座っている。

キャンパスの喧騒から逃げ出した彼女の耳に、実体のない囁きが這い寄る。


幻聴の声:『……カンカンカンカン警笛の音。……教授の娘、お前の存在価値は?……』


明美は耳を強く塞ぎ、奥歯を噛み締める。

その時、バレーボールが彼女の足元に転がってきた。

一人の長身の青年・掛川隼人(21)が、砂を蹴って駆け寄ってくる。


「あ、すみません! ボール、そっち行っちゃいましたね」


明美がゆっくりと顔を上げると、隼人は息を呑んだ。彼女の瞳があまりに深く、物憂げな闇を湛えていたからだ。しかし、彼はそれを打ち消すように、まぶしい笑顔を弾けさせた。


「あ、よかったら取ってもらってもいいですか?」


明美は無言でボールを拾い上げ、隼人に差し出す。指先が微かに震えている。


「ボール拾ってくれて、ありがとう!! 助かりました!」


隼人は白く輝く歯を見せて笑い、仲間たちの元へ駆け戻っていく。

明美(心の声):(……暖かい。あの人の周りだけ、空気が沸き立っているみたい。私とは、住んでいる世界が違う……)



大学のキャンパス・廊下(数日後)

一人で俯き、壁際を歩く明美の背中に、突き抜けるような声が掛かる。


「あ、やっぱり! あの時の砂浜の子だよね。同じ大学だったんだ!」


明美が驚いて足を止めると、隼人が大きな歩幅で近づいてくる。明美は戸惑いながらも、小さく会釈し、唇の端をわずかに持ち上げた。


「あの時はちゃんとお礼言えなくて。俺、経済4年の掛川。よろしく!」


大学の中庭・ベンチ

隼人が去った後、明美は吸い込まれるように近くのベンチに座り込んだ。

心臓が、耳の奥のノイズをかき消すほど速く打っている。


明美(心の声):(掛川、隼人さん……。あんな風に真っ直ぐ名前を言われたの、いつ以来だろう。私の「憂鬱」に気づいていながら、それを無視して光の中に引き摺り出すような、強引で優しい声……)


彼女は自分の指先を見つめる。いつもは冷え切っている指先が、彼と数歩の距離で対峙しただけで、微かに熱を帯びているような気がした。


数日後の学食・午後の時間帯

友人と談笑しながらはつらつと歩く学生たちを、明美は遠い世界の出来事のように眺めながら、独りパンを口に運んでいた。

すると、視界の端にオレンジ色のパーカーが見える。隼人だ。彼は友人数人と笑い合っていたが、ふと明美に気づくと、遠くから大きく手を振った。


隼人:「あ、明美ちゃん! また会ったね!」


周りの学生たちが「誰だ?」と一斉に明美を振り返る。明美は顔が熱くなるのを感じ、慌てて小さく会釈をして視線を落とした。

いつもなら「目立ちたくない」と逃げ出す場面だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


明美(心の声):(……彼は、私を見つけ出してくれる。透明な存在だった私を、色のある世界に繋ぎ止めてくれる……)


図書館・閉館間際

静まり返った館内。明美が重い専門書を抱えて歩いていると、書棚の向こうから隼人が顔を出した。


隼人:「(ひそひそ声で)お疲れ。明美ちゃん、それ、結構重くない? 貸して」


断る間もなく、彼は明美の腕から本をひょいと持ち上げる。

明美:「あ……大丈夫です。自分で持てますから」

隼人:「いいって。俺、これでも体力には自信あるんだ。……それにしても、明美ちゃんっていつも一生懸命だよね。砂浜にいた時も、何かを必死に守ってるみたいな顔してた」


明美は息を呑む。彼には、自分の脆さが見透かされているのかもしれない。


隼人:「今度、大学で国際交流会があるんだけど……明美ちゃんも来る? 俺、運営のボランティアやってるんだ。もし不安なら、俺がずっと近くにいるからさ」


彼はそう言って、悪戯っぽく笑った。その瞳には、打算も憐れみもなく、ただ純粋な「好意」と「誘い」だけが宿っている。


明美:「……隼人さんがいるなら、少しだけ、行ってみようかな」


消え入るような声だったが、明美にとってそれは、自分の檻の鍵を自ら開ける、大きな決断の一歩だった。


国際交流会の当日・会場の入り口

華やかな音楽と、聞き慣れない多言語が飛び交う会場。

明美は新しく買った淡いブルーのブラウスの裾を何度も整えながら、緊張で震える足を踏み出す。


明美(心の声):(怖い。でも、あの人がいる。あの笑顔が、どこかにあるはずだから……)


会場の喧騒を掻き分け、隅の方でグラスを握りしめたその時。

留学生たちに囲まれ、中心で楽しそうに笑う隼人の姿が目に飛び込んできた。彼はふと顔を上げると、入り口で立ち尽くす明美を見つけ、誰よりも優しい目で、小さく、確かな会釈を送った。


夜の並木道(帰り道)

街灯の下、二人は並んで歩いている。


「へえ、明美ちゃんもバレーやってたんだ。……でも、今はやってないの?」


「……はい。少し、疲れちゃって。隼人さんは、どうしてこの会に?」


「俺、いつか海外へ留学したいんだ。世界中で自分の力を試してみたい。知らない場所へ行くのって、ワクワクしない?」


明美(心の声):(お父様の言う『世界を知れ』は義務なのに、隼人さんのそれは『冒険』なんだ……。この人と話していると、耳の奥のノイズが消えていく……)


この日を境に、二人の距離は急速に縮まっていく。明美は隼人の夢に刺激を受け、自分の大学生活をようやく謳歌し始めていた。


大学近くのカフェ

おしゃれをした明美が、隼人と向き合っている。隼人は明美の手を優しく包み込む。


「明美、最近すごく綺麗になったね。……俺が、ずっと君の隣にいたいんだ」


明美は隼人の胸に顔を埋め、生まれて初めての多幸感に浸った。

明美(心の声):(はじめて。成績でも家柄でもない私を見てくれる、はじめての場所……)


大学の裏庭・木漏れ日の下

初秋の風が、明美の耳元で遊んでいる。

「……明美、こっち向いて」

名前を呼ばれただけで、心臓がトクンと跳ねる。顔を上げると、そこには世界中の光を集めたような隼人の笑顔があった。


「あ……はい」

「『はい』じゃなくてさ。……いま、俺のこと考えてたでしょ?」

隼人はいたずらっぽく目を細めると、明美の返事を待たずに、彼女の細い腰をぐいと引き寄せた。


「……っ、隼人さん、誰かに見られたら……」

「いいよ、見られたって。俺が明美に惚れてるなんて、大学中の人間が知ってることだし」


隼人の体温が、薄いブラウス越しに伝わってくる。父の書斎に漂うインクと古書の冷たい匂いとは違う、清潔な石鹸と、若々しい熱を帯びた、彼だけの「おす」の香り。明美は眩暈めまいを覚えた。彼に抱きしめられるたび、十数年かけて自分を縛り付けてきた「優等生の鎖」が、甘い熱でドロドロに溶けていくのを感じる。


放課後の図書室・夕暮れ時

オレンジ色の夕日が、閉架図書の迷宮に長い影を落としていた。

並んで座り、ノートを広げていた二人の手が、机の下で密やかに絡み合う。


隼人の指が、明美の手のひらをそっとなぞり、指の股に深く食い込む。

「明美の手って、冷たいね。……俺が温めてあげなきゃって、いつも思うんだ」

そう言って、彼は明美の指先を一つずつ、まるで壊れ物を扱うように自分の唇へと運んだ。


柔らかな粘膜の感触。明美の背筋に、甘美な電流が走る。

「……隼人さん……」

「ねえ、明美。もっと俺に溺れてよ。お父さんの期待とか、学校の評価とか、そんなもの全部忘れるくらい。俺の腕の中にいる時だけは、君はただの『女の子』でいいんだから」


隼人の低い声が、明美の脳内を震わせる。

彼は、明美が一番欲しかった「免罪符」を、甘い愛の言葉に混ぜて与えてくれる唯一の存在だった。


週末の黄昏・駅のホーム

電車の到着を知らせるベルが鳴る。人混みの中、隼人は明美を背後から包み込むように抱きしめた(バックハグ)。

彼の顎が明美の肩に乗り、耳元で熱い吐息が漏れる。


「帰りたくない……。このまま、誰も知らない遠い場所まで、君を連れ去ってしまいたい。……明美を独り占めできるのが俺だけじゃないなんて、我慢できないんだ」


独占欲。これまで「家名の道具」としてしか独占されてこなかった明美にとって、隼人が向けてくる情熱的な独占欲は、至高の愛の証明だった。

「私も……離れたくありません……」

明美はそっと、彼の腕に自分の手を重ねた。


明美(心の声):(……ああ、私はいま、生きている。成績のためでも、家柄のためでもない。一人の男の人に、こんなにも激しく、甘く求められている……。このまま、彼の熱に溶かされて消えてしまいたい……)


明美の瞳からは、かつての物憂げな闇が消え、隼人の愛によって磨かれた真珠のような輝きが宿っていた。

鏡を見るたびに、自分の頬に赤みが差し、唇が艶を帯びていく。彼女は生まれて初めて、自分がおしゃれをすること、誰かに「綺麗だ」と言われることに、震えるような喜びを感じていた。


しかし、その「女」への変容こそが、最も鋭敏な狩人——父・泰三のセンサーに触れることになる。


静止した食卓

小野寺家・ダイニングルーム(夜)

玄関の扉を開けた瞬間、明美は自分のまとっている空気が、一瞬で凍りつくのを感じた。

家の中に漂う、重苦しい「規律」の匂い。


ダイニングテーブルの主座に、泰三が座っていた。

彼は食事の手を一切止めず、ナイフとフォークを正確に動かしている。その所作には、一切の無駄も、一切の感情も介在しない。


明美が座に着くと、泰三がゆっくりと顔を上げた。

眼鏡の奥の瞳が、明美の髪に絡みついた「隼人の温もりの残滓」を、冷徹な視線で剥ぎ取っていく。


「……最近、随分と楽しそうだな」


その声は、甘い夢を見ていた明美の心臓を一突きにする。

「楽しそう」という言葉が、この家では「緩んでいる」「堕落した」という弾劾の言葉であることを、明美は知っていた。


「男の影がある。……私の直感を裏切るような真似はするなよ」


泰三の視線が、明美の唇の艶に固定される。まるで、不純物が混じった実験体を検分する科学者のように。

明美の喉元までせり上がっていた隼人の愛の記憶が、一瞬で凍りつき、鋭い破片となって彼女の内側を傷つけ始めた。


明美の身体が硬直する。フォークを持つ手がカチリと音を立てた。


「私の直感を裏切るような真似はするな。近いうちに、その男をここに連れてきなさい。」


小野寺家・ダイニングルーム

正装した隼人と、冷徹なまでの「外面」を装った泰三が向かい合っている。

明美は、隼人の人間性、大学での人望、どれほど誠実な人かを必死に説明した。


「お父様、隼人さんは本当に優秀で、留学の夢のために毎日勉強していて……」


「ほう、海外かね。志は立派だ。君の家庭環境についても聞かせてもらえるかな、掛川くん」


隼人は泰三の瞳を真っ直ぐに見据え、サラリーマン家庭で育ったこと、それでも自立して夢を追っていることを誠実に語った。


駅の改札・別れ際

隼人は明美の肩を優しく叩き、安堵したように微笑む。


「緊張したけど、いいお父さんじゃないか。君のことを大切に思っているのが伝わってきたよ。よかった」


「……うん。ありがとう、隼人さん。……愛してる」



隼人を送り届け、家に入った瞬間。母・文江が青ざめた顔で立っていた。


「……明美、お父様が書斎でお待ちです」


重厚な机に向かう泰三。明美が入っても、彼は書類から一度も目を離さない。


「……別れなさい」


「……理由を教えて!」


「理由? 私が不適合だと判断した。それがすべてだ。」


明美は泣き崩れながら縋りついたが、泰三は一瞥もくれない。

翌日から、大学で隼人に声をかけられても、明美は唇を噛み締め、石のように無視を貫くしかなかった。


半年後

大学二年生。空港へ向かうタクシーの中。

隣には、所在なげに窓の外を見つめる文江。


泰三(回想の声):『英国へ行け。そこで世界を知り、自分に足りないものを学んできなさい。これは命令だ』


母「……明美、付き合う相手は慎重に選びなさいと、あれほど言ったでしょう」


「……お父様ね、あの日、隼人さんの家庭がただのサラリーマンだと知って、激怒されていたのよ。『そんな平庸な血を、小野寺家の食卓に招いたのは一生の恥だ。私のブランドを毀損した』って。私にも、あなたにふさわしい人間を選ぶよう教育し直せと、一晩中、強い口調で責められて……」


明美(心の声):(……ああ、そうか。隼人さんの夢も、優しさも、最初からお父様の心には入っていなかったんだ。)


明美は窓の外を流れる景色を、死んだ魚のような目で見つめる。


明美(心の声):(どこに行っても、私は小野寺泰三の所有物。私の心も、人生も、全部お父様が組み替えるためのパズルの一部……。イギリスへ行っても、その檻が広がっただけ……)


タクシーが空港のゲートを潜る。

明美は静かに、靴の中で足の小指を丸めた。かつて自分で剥がした爪の跡が、鈍い痛みを持って彼女に「これがあなたの現実だ」と告げていた。


本作を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

「別れなさい」――。

その一言で、一人の女性としてのささやかな幸福が、粉々に打ち砕かれました。

泰三にとっての家族とは、愛情の対象ではなく、完璧に統制され、磨き上げられた「小野寺」という作品の一部でしかありません。隼人の誠実さも、明美の涙も、彼の効率的な価値観の前では、不純物として排除される運命にありました。

異国の地・英国へと、再び「流刑」に処される明美。彼女が靴の中で小指を丸める描写は、もはや痛みさえも彼女の日常の一部になってしまったことを物語っています。この支配の連鎖は、一体どこまで続くのでしょうか。

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