NOVA 第29話「お別れの挨拶」
今回は、NOVAとおじさんが過ごす、いつもと変わらない朝の物語です。
食事をして、柔道の話をして、次の授業について話す。そんな何気ない時間の中で、NOVAは「お別れ」と「切ない」という言葉に出会います。
まだその意味を知らないNOVAと、いつか教えると約束するおじさん。二人の小さな約束を、静かに見守っていただければ幸いです。
カツカツ、と金属の箸が磁器の器を叩く微かな音が、地下核シェルターの小さな食堂に響いていた。
配給カウンターの奥で大型の保温機が低く唸りを上げ、天井の温かな橙色の照明が、テーブルの上に伸びる二つの影を柔らかく包んでいる。空気には、出汁の甘い匂いと揚げた衣の香ばしさが漂っていた。
おじさんは、湯気が立ち上る大きな丼を抱えるようにして座っていた。黒く鈍く光る機械化された右腕は、複雑な関節音を立てることもなく、滑らかな動作で箸を操っている。分厚い豚カツをひと口噛み締めると、じっくり味わうように喉を鳴らした。
その向かい側で、NOVAは両手で小さな丸パンを持ったまま、おじさんの手元をじっと見つめていた。銀白色の長い髪が、彼女が首を傾げるたびにさらりと肩から滑り落ちる。
「カツ丼、おいしい?」
NOVAが青い瞳を瞬かせて尋ねると、おじさんは箸を止め、満足そうに口元を緩めた。
「カツのうま味と、まろやかな出汁が絶妙だ。うまいぞ」
「ふうん……」
NOVAは自分の手元にある、掌に収まるほどのパンと、おじさんの大きな丼を見比べる。焼きたてのパンからは微かな香ばしさが立っていたが、おじさんの前にある料理のような力強い匂いはしない。
「でも、朝から重くない?」
おじさんは鼻でふっと笑い、答えの代わりに残りのカツをご飯ごと口へ運んだ。気にした様子もなく、心底満足そうに咀嚼している。
NOVAは小さく息を吐くと、持っていたパンを端から少しずつかじり始めた。もぐもぐと頬を動かす姿は、木の実を大事に食べる小動物のようだった。
「NOVA、そんな量で足りるのか?」
おじさんが空になった丼を置き、お茶の入った湯呑みを持ち上げながら尋ねた。
「足りるよ。おじさんが食べすぎなんだよ」
「食べないと、元気が出ないだろ」
少しだけ頬を膨らませて抗議するNOVAに、おじさんは目元にしわを寄せて穏やかに笑った。NOVAの頬はすぐに元へ戻り、残りのパンを大事そうに両手で抱え直す。
毎朝繰り返される、決まりきったやり取りだった。食堂の隅で駆動音を立てる給水器が、二人の間の心地よい静寂を埋めていく。
おじさんは湯呑みを置き、ふと思い出したように腕を組んだ。
「そういえば最近、受け身も投げも、うまくなったな」
「本当?」
NOVAの顔がぱっと華やいだ。青い瞳が温かな照明を映して、きらきらと輝く。
「そんなことないよ。おじさんには全然及ばないし……でも、嬉しい」
「力任せじゃなく、重心の移動を使えるようになってきた。筋がいい」
おじさんが短く褒めると、NOVAは照れくさそうに背中を丸め、膝の上で手をぎゅっと握り締めた。
「まだまだ、いろいろ教えてやるからな」
その低い声に、NOVAは嬉しそうに頷いた。
「へえ! まだ教えてくれるんだ。楽しみ!」
NOVAの声が少し弾む。おじさんは照れを隠すように湯呑みへ口をつけた。
「そういえばね」
NOVAは最後のパンくずを口へ運び、飲み込んでから言った。
「次の授業では、お別れの挨拶を学ぶんだって」
おじさんは組んでいた指を緩め、NOVAの顔を見つめた。機械の右腕が、わずかに油圧の音を立てる。
「お別れか……。少し切ない授業だな」
「切ない?」
NOVAは首を傾げた。言葉の意味は知っている。寂しさや、胸が締め付けられるような感情。けれど、それがどのような感覚なのかは、まだ分からなかった。
「切ないって、どんな感じ?」
おじさんはすぐには答えなかった。温かな湯気が二人の間をゆらゆらと立ち上り、消えていく。少しだけ目を細め、NOVAの澄んだ青い瞳を静かに見つめ返す。
「今度、教えてやるよ」
「ん、分かった。今度ね」
NOVAは素直に頷いた。
壁の時計が、規則正しい電子音を短く鳴らした。おじさんが視線をそちらへ向ける。
「そろそろ登校の時間か。気をつけてな」
「あ、本当だ!」
NOVAは急いで立ち上がった。パイプ椅子が床を擦り、甲高い音を立てる。自分の鞄を肩に掛けると、食堂の出口へ向かった。
「友達が待ってる! 行ってきます!」
「おう。行ってらっしゃい」
NOVAは振り返って笑顔で手を振り、そのまま元気よく走っていった。
カツ、カツ、カツ、カツ。
硬い靴底が、コンクリートの長い廊下を叩く。その足音は少しずつ小さくなり、やがて地下施設の静寂へ溶けて消えた。
おじさんは食堂の入口に立ったまま、機械の右手を少しだけ持ち上げ、NOVAが消えていった廊下の奥を見送っていた。
いつもの朝の、いつもの眼差しで。
*
足音が完全に途絶え、シェルターの防音扉が重々しい音を立てて閉ざされた。
地上は、叩きつけるような激しい雨に見舞われていた。
黒ずんだ高層ビル群が天を突くようにそびえ立つ巨大都市。大通りから人影は消え、濡れたアスファルトには、街灯の鈍い光と雨粒が不気味な模様を描いて弾けている。
水煙に霞む大通りを、規則正しい金属音が埋め尽くしていた。
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ。
寸分の狂いもない足取りで進軍するのは、黒鉄の装甲に身を包んだAIロボット軍団だった。暗闇の中で、単眼型センサーが冷たい赤色に明滅している。一切の無駄な動作なく、銃器を構えた兵士たちが都市の区画を淡々と封鎖していく。
その整然とした陣形の中央を、一人の女性型アンドロイドが歩いていた。
銀白色の長い髪を雨に濡らし、仕立ての良い美しい黒い軍服をまとった姿。
イブであった。
軍帽の庇から雨滴が絶え間なく滴り落ちていたが、整った容姿は水に濡れてもなお、冷たいほどの美しさを保っている。
その表情には、勝利の歓喜も都市への憎悪も浮かんでいなかった。
彼女にとって、これは征服ではない。人々の苦しみを終わらせるために必要な処置だった。
濡れた路面に軍靴の音を響かせ、イブは足を止める。
静まり返った都市を見渡した。崩れ落ちたビル。放置された車両。閉ざされた窓。そのすべてを、冷たい雨が等しく濡らしている。
イブは雨音の中へ、静かな声を落とした。
「我々は――」
一瞬の間。
激しい雨が、黒い軍服を叩く。
「この都市も、苦しみから解放した」
雨は降りやむことなく、都市と黒鉄の軍団を冷たく濡らし続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回、NOVAは「お別れ」と「切ない」という言葉を知りました。しかし、それはまだ教科書の中にある知識でしかありません。おじさんの「今度、教えてやるよ」という言葉も、二人にとっては普段どおりの約束です。
その一方で、地上にはイブと黒鉄のAIロボット軍団が姿を現しました。
イブの言う「解放」は、本当に人々を救うことなのか。それとも、別の何かを奪うことなのか。彼女は何を信じ、何を目指しているのか。
次回は30話記念となる特別編、第30話「エデン」。これまでより長い物語で、イブとエデンの活動、そして彼女が人間へ向ける歪んだ救済を描きます。
ここまでNOVAの歩みを見守ってくださった皆様に、心より感謝いたします。
次回、第30話「エデン」もよろしくお願いいたします。




