20話 選んだ道
補修路の奥へ走りながら、アリスは何度も後ろを振り返りそうになった。
振り返ってしまえば、たぶん足が止まる。足が止まれば、それで終わる。分かっているのに、胸の奥だけがずっと第六列C区画に置き去りになったままだった。覗き穴の向こうの白い部屋。拘束具。浅い呼吸。わずかに顔を上げたヘイズの目。来るな、と形だけで告げた口元。けれどそのすぐあと、ほんのわずかに天井へ向いた視線。
あそこからなら。
その可能性だけが、今のアリスの足を無理やり前へ押していた。
「こっちだ」
レンが狭い通路の途中で、頭上の配管束の一角を指した。補修路の天井は最初から低かったが、そこだけさらに管と金属板が重なり合い、人が通ることを想定していないような圧迫感があった。レンは足場代わりになるボルトの出っ張りへ足をかけ、身体を持ち上げる。
「上?」
「ダクトの点検口があるはずだ」
「はず、ね」
「うるせえ、今さらだろ」
そう言い返す声も、完全にいつもの調子ではなかった。短く、低い。焦りを押し殺している声だった。
アリスもレンのあとに続く。配管は冷たいものばかりではなく、触れた瞬間に指先が熱で引くようなものもある。慌てて別の支えを探し、金属板の継ぎ目へ爪を引っかけて身体を持ち上げる。靴底が滑る。心臓が大きく鳴る。もし落ちたら、その音で全部終わる気がした。
レンが上で小さく舌打ちした。
「……あった」
その声の先で、平たい金属板の一部がわずかに浮いているのが見えた。正方形に近い形の点検蓋。周囲の板より少しだけ色が違う。ヘイズが言っていたという「上から被せて綺麗に見せている」構造の、そのさらに上に無理やり取りつけられたみたいな、新しいようでいて雑な蓋だった。
レンが工具を差し込む。
ギ、と嫌な音。
「静かに……!」
「できたらやってる」
噛みつくように返しながらも、レンは力を加減していた。だが金属はそう簡単には曲がらない。細い工具の先端が滑り、板が小さく跳ねる。その瞬間、補修路のどこか遠くで、あの音が鳴った。
キィン。
近い。
いや、近づいてくる。
アリスの背中に冷たいものが走った。頭上。横。下。もう、どこから来てもおかしくない。シーカーズは目に見えないのに、存在だけが金属の内側を伝わってくる。都市そのものに耳を当てて追ってくるみたいだった。
レンが息を詰め、今度は工具の角度を変えて一気にねじ込む。
バキッ。
鈍い破断音とともに、点検蓋の片側が外れた。完全には取れない。けれど人ひとり、どうにか身体を押し込める程度の隙間はできた。
「先入れ」
「レンが先じゃなくていいの?」
「下で受ける。落ちるなよ」
アリスは頷くと、両腕から先にその隙間へ身体を押し込んだ。肩が引っかかる。肋骨が圧迫される。思わず息が止まる。それでも、前へ。少しずつ。少しずつ。ようやく胸が抜け、腰が抜け、暗い空間へ転がり込む。
ダクトだ。
思ったより狭い。人が余裕をもって這える幅ではない。膝と肘で進むしかない、矩形の金属の筒。空気は乾いていて、埃と古い熱の匂いがした。ところどころに細い格子があり、下から白い光が滲んでいる。
すぐ後ろでレンが這い込んでくる。その直後、補修路の下でまたキィンと鳴った。今度ははっきり位置が分かった。さっきまで二人がいた場所の、ちょうど真下あたりだ。
「急げ」
レンが低く言い、前に進んだ。
二人は膝と肘で前へ進んだ。ダクトの内側は見た目以上に長かった。曲がり角もある。途中で下方向へ伸びる支線があり、風の流れがかすかに変わる。アリスは這いながら、さっきヘイズが見上げた位置を思い出していた。覗き穴から見えた小さな格子。部屋の中央より少しずれた場所。あそこまで辿り着ければいい。
「……この先」
アリスが小さく言う。
「分かるのか」
「うん。ちょっと……違う」
言葉にしづらい。けれど分かる。金属の箱の内側に、ところどころ空気の流れが変わる場所がある。まっすぐなはずのダクトの中で、そこだけわずかに“揺れている”。見えるというより、そこに意識が引かれる感じだ。
今までと同じだった。敵の攻撃が来る前に、ほんの一瞬だけ身体が先に反応した時と。黒い区画の前で、そこだけ“通れる”と分かった時と。説明はできない。でも、確かにある。
「右の方……たぶん」
「たぶん多いな、お前も」
「レンほどじゃない」
前から小さく鼻で笑うような音がして、その一瞬だけ緊張がほどけた。ほんの一瞬だった。
その次の瞬間、ダクトの下から声が響いた。
「反応、上方」
「構造内に侵入」
「経路補足開始」
シーカーズだ。
金属板一枚隔てた向こう側を、複数の個体が移動している音がする。走る足音ではない。一定の速さで、無駄なく、区画の構造を最短距離で詰めてくる音。人間の焦りがない。だからこそ怖い。
レンが止まる。
前方の格子の位置を確認し、天井側のボルトへ工具を差し込む。ここだ、と目で示す。アリスが頷く。格子の向こう、真下に見えるのは、第六列C区画だった。
白い部屋。
中央の椅子。
そして、ヘイズ。
まだ管理服の男とシーカーズがいる。
レンは格子を固定しているネジをひとつずつ外し始めた。手早い。けれど静かではない。金属が擦れるたびに、アリスの心臓も一緒に跳ねる。
部屋の中で、管理服の男がなおも尋問を続けている。
「最終確認だ。記録はどこへ送った」
「知らねえって言ってんだろ」
「適応型観測機はどこにある」
「壊れた」
「虚偽報告」
「……しつこいな」
「当然だ。お前は工房の人間として知りすぎた。停止区画に接触し、記録を持ち出し、再編処理に関わる事例を追った。そのうえ適応型観測機まで隠した。通常の収容で済む段階は過ぎている」
ヘイズは顔を上げ、疲れた目で男を見た。
「だから“調整”か」
「理解が早くて助かる」
その言い方がひどく冷たかった。
調整。
知りすぎた者、邪魔な者、都合の悪い記憶を持つ者を削り、整え、なかったことにする言葉。
アリスの指先がダクトの床を掴む。力が入りすぎて、爪が痛かった。
その時だった。
部屋の天井隅に埋め込まれたスピーカーから、低いノイズが走る。
ザ、と短い砂音。
管理服の男が顔を上げる。シーカーズも動きを止めた。
次いで、声が流れた。
低く、よく通る声。年齢の判別がつかない。怒っていない。笑ってもいない。ただ妙に穏やかで、それが余計に不気味だった。
『聞こえているかな、アリス』
アリスの全身が凍った。
呼ばれた。
名前を。
『やっと、辿り着いた』
声は区画全体に流れているらしかった。ヘイズも、管理服の男も、そのまま黙っている。逆らう気配がない。つまり、この声の主はこの場の全員より上だ。
『第六列C区画。そこに来るだろうと思っていた。彼を餌にしたのは、正解だったらしい』
アリスの呼吸が浅くなる。
餌。
その一言だけで、収容区画の白さがさらに冷たく見えた。
『管理局は彼に聞くべきことを聞こうとした。中央統制機構も、彼を調整対象として扱うつもりだった。だが、それは都合が良かった。知りすぎた男がひとり、目立つ形で収容されれば、君たちは必ずここへ寄る』
レンが歯を食いしばる気配がした。
『黒の区画で起きた事例から、私は君の存在を疑い始めていた。再編局員が無へ飲まれた時、ただの偶発では説明できない反応があった。観測できないものに、観測されているような揺らぎがあった』
アリスの喉がひゅっと鳴る。
黒の区画。あの時。局員が消えた瞬間。
『見えているはずだ』
声は相変わらず静かだった。
『この街の歪みが』
沈黙が、逆に耳へ痛かった。
『触れているだろう。既に』
その一言は、アリスの中にある何かを、指先でそっと弾かれたみたいだった。
『それは偶然ではない』
部屋の空気が、しん、と重くなる。
アリスは意味を全部理解できるわけじゃなかった。けれど、その言葉が、自分の知らないところまで届いている気がした。森で感じていた違和感。黒の区画で見えた道。敵の攻撃が来る前に、身体だけが先に動いた瞬間。全部が、ただの偶然ではないと言われた気がした。
『だから』
わずかな間。
『君はここまで来れた』
声が切れる。
区画の中に、短い沈黙が落ちた。
その間、シーカーズは動かなかった。
完全に停止したわけではない。観測機の環だけが、微かに回り続けている。だが、さっきまで寸分の無駄なく迫ってきていた圧が、今は来ない。それがかえって気味が悪かった。
その直後、レンが最後のネジを外した。格子がわずかに沈み、下へ開く。
管理服の男が何かに気づき、顔を上げる。
「上だ!」
その瞬間、レンがアリスを先に押し出した。
落ちる、というほどの高さではない。だが不意打ちには十分だった。アリスは部屋の床へ膝から着地し、すぐに立ち上がろうとする。レンも続いて降りる。管理服の男が後退り、シーカーズが一歩前へ出る。
「停止を勧告」
たったそれだけ。
「うるせえ!」
レンが近くの測定機器を蹴り飛ばした。白い装置が横倒しになり、コードが引きちぎられる。火花。耳障りな警告音。シーカーズの観測機の環が一瞬だけ乱れた。
その隙にレンがヘイズの拘束具へ飛びつく。
「今解放する!」
「鍵は――」
「見りゃ分かる!」
工具が金具へ差し込まれる。レンの手は震えていない。細い部品を引き抜き、締め具をずらし、固定具を外していく。慣れているわけじゃないだろうに、工房で積んだ手の動きが迷いなくそれをやる。
その間に、シーカーズが前へ出た。
アリスは反射的に一歩動く。
来る。
分かる。
ほんの一瞬先。
右。
いや、左。
違う。
下から上へ、圧が走る。
身体が先に動いた。アリスはわずかに身をひねる。次の瞬間、何もない空間が歪み、壁際の白い板がめり込んだ。見えない圧の線が通ったのだと、遅れて分かる。
管理服の男が息を呑む。
「避けた……」
シーカーズは何も言わない。ただ、その観測機がアリスへ向いたまま微かに高鳴る。
「レン!」
「あと少し!」
ヘイズの片腕が外れる。次いでもう片方。だが足元の固定はまだ残っていた。ヘイズ自身も身体を起こそうとするが、長く拘束されていたせいか、すぐには力が入らない。
「悪いな……助けられる側は、性に合わねえ」
掠れた声だった。
「黙ってろ!」
レンが怒鳴る。
その瞬間、区画の灯りが一斉に赤へ変わった。
けたたましい警報ではない。低く、一定の警戒音が鳴り始める。続いて、天井近くの表示灯に封鎖の文字が走る。
収容区画通路封鎖。
管理通路封鎖。
列間隔壁、閉鎖。
白い部屋の正面扉が重く開きかけ、管理服の男がほとんど転げるようにそこから外へ飛び出した。直後に扉が閉まる。向こうで何枚もの隔壁が降りる音がした。さらに、C区画の外側で別方向の通路も塞がれていく重い音が重なる。
閉じ込められた。
アリスたちと、ヘイズと、シーカーズ一体だけが、この白い区画の中に残された。
「……閉じ込められた!」
レンが顔を上げる。
ヘイズが低く笑う。
「そりゃそうだ。誘い込んだなら、逃がさねえ」
「罠かよ……!」
「最初からな。……あいつは、そういうやつだ」
掠れた声だった。
アリスははっとしてヘイズを見る。その目には呆れと、諦めと、それでも消えていない怒りが少しずつ混ざっている。
部屋の空気が一気に重くなった。
救出して終わりではない。
ここに来た時点で、閉じるように設計されていた。
スピーカーから、またあの声が流れる。
『ようこそ、アリス』
壁の一部のモニターが一斉に点灯する。映ったのは顔ではない。中央塔の内部らしき、巨大な円形装置の映像。回る環。脈打つ光。都市そのものが装置化しているみたいな景色。
『そこからが本番だ』
アリスは何も言えない。
『君には見えているはずだ。継ぎ目が。ずれた線が』
言葉は静かなのに、部屋の温度を少しずつ奪っていく。
『壁と壁のあいだにある、本当の接続が』
声が切れた。
同時に、部屋の外――隔壁の向こうで、いくつもの高い音が重なって鳴り始める。
キィン。
キィン。
キィン。
外にもいる。
増援だ。
けれど今は、まだこの部屋に入ってはこられない。その事実だけが、かえってこの閉鎖空間の息苦しさを強めた。
シーカーズが一歩、また一歩と近づく。
たった一体。
なのに、それだけで十分だった。
レンがアリスの前へ出る。ヘイズも身体を引きずるように位置を変えた。二人とも、勝てると思って前に出ているわけじゃない。少しでも時間を作るためだ。
ヘイズが短く言う。
「アリス」
その声で、アリスははっと顔を向ける。
「……見えてるんだろ」
「え」
「さっきからずっと、避けてたじゃねえか」
シーカーズの観測機がまた鳴る。壁際が歪む。アリスは反射的にそちらを見そうになって、止まる。
ヘイズが息を整えながら続ける。
「見るな」
「……」
「今までみたいに、見えたもん全部追うな」
短く、はっきりと言う。
「感じろ。どこが繋がってるかだけ選べ」
その言葉は長い説明じゃなかった。
でも、不思議とアリスの中へまっすぐ入ってきた。
見えてるんだろ。
見るな。
感じろ。
選べ。
シーカーズがもう一歩近づく。
レンが測定機器の残骸を蹴り上げ、牽制する。シーカーズはそれを避けもしない。欠片が白い装甲に当たって弾けるだけだ。
アリスは壁を見た。
白い壁。
閉じた隔壁。
逃げ道はない。
――本当に?
その瞬間、世界の見え方がほんの少しだけ変わった。
壁の継ぎ目。
床の境目。
天井と角の接合部。
全部が一枚の“閉じた壁”ではなく、少しずつ違う位置にある線として見える。
揃っているようで、揃っていない。
ほんの少しだけ、ズレている。
その中のひとつだけが、妙に強く見えた。
いや、見えるというより、そこだけ“合う瞬間”がある。
アリスはその線へ手を伸ばす。
「アリス!」
レンの叫び。
次の瞬間、シーカーズの圧が飛ぶ。
また避けられた。ほんの少し先が見えたからだ。だが今回は、それだけじゃない。手が壁へ触れた瞬間、固いはずの感触が、水面みたいに揺らいだ。
「……っ」
無理に押し開こうとした瞬間、強い反発が返ってくる。腕が痺れる。空間そのものに弾かれたみたいに身体が後ろへもっていかれる。
「違う!」
ヘイズが叫ぶ。
「押すな! 合わせろ!」
アリスは歯を食いしばる。
怖い。
失敗したら終わる。
でも、見えている。
そこだけ、ほんの一瞬、壁じゃなくなる。
息を吸う。
吐く。
耳の奥ではまだあのキィンという音が鳴っている。警戒音も、赤い灯りも、レンの荒い呼吸も、全部聞こえる。それでもアリスは一度だけ目を閉じた。
見ようとしない。
感じる。
そこ。
そこだけ、空気の密度が違う。壁ではなく、継ぎ目。断絶ではなく、接続。
アリスは手のひらをそっとそこへ置いた。
押さない。
合わせる。
その瞬間、壁の一部がふっと薄くなった。
「今だ!」
ヘイズの声。
レンが即座に反応し、アリスの肩を掴んでその継ぎ目へ押し込む。身体が半分沈む。壁を抜ける感触ではない。固いものと固いもののあいだへ、ちょうど身体の輪郭だけが滑り込むような、奇妙な感覚。
「ヘイズ!」
「先行け!」
シーカーズがさらに一歩迫る。
レンが先にアリスを向こう側へ押し出し、自分も続く。ヘイズは最後だった。動きは遅い。身体が削られているのが見て取れる。それでも、ギリギリでその継ぎ目へ身を滑り込ませた。
次の瞬間、三人のいた収容区画の壁は、何もなかったみたいに元へ戻った。
薄暗い別の保守路へ投げ出される。
アリスは膝をつき、荒い息を吐いた。レンも肩で息をしている。ヘイズは壁にもたれたまま、しばらく動かなかった。
「……抜けた」
レンが信じられないものを見るみたいに呟く。
アリス自身も、何をしたのか完全には分からなかった。
ただ、見えた継ぎ目を、選んだ。
それだけだ。
だが後ろの壁の向こうから、シーカーズの観測機の高音が幾つも重なって鳴り始める。抜けられたことは、すぐに知られたのだと分かった。
「立て」
ヘイズが低く言う。
声は弱い。けれど命令の形をしていた。
「ここで止まったら、次はねえ」
三人は再び動く。
保守路は上へ上へと続いていた。細い階段、短い梯子、狭い横通路。都市の表側から見えない構造の中を、息を切らしながら抜けていく。途中でヘイズが何度かよろめき、そのたびレンが舌打ちしながら肩を貸した。
「悪いな」
「なら死ぬな」
「無茶言うな」
「言うだけだ」
そんなやりとりが交わされるたび、アリスの胸は逆に締めつけられた。
いつも通りにしようとしているのが分かるからだ。
いつも通りには、もうできないと分かっているのに。
やがて、冷たい風が吹き込んできた。
外だ。
最後の重い扉を押し開けた瞬間、三人の前に夜の上層外縁が広がった。
白い灯りに慣れた目へ、外の暗さが逆にやさしく感じる。灰色の空は夜でも完全な黒にはならず、薄い煙と雲の層を抱えている。風が吹き抜ける。閉じた施設の内側とは違う、生きた空気だ。
そして、その足元の向こう。
中層が見えた。
広い。
信じられないほど広い。
工房の屋根。煙突。橋のように渡る管路。所々で噴き上がる蒸気。赤や橙の灯りが点々と散らばり、それが遠くまで連なっている。ごちゃごちゃしている。整っていない。継ぎ足して、直して、また継ぎ足してきた街の形そのものが、夜の中でかすかに光っていた。
アリスが息を呑む。
こんな時なのに、綺麗だと思ってしまった。
ヘイズも、その景色を見ていた。
しばらく、何も言わずに。
それから、ほんの少し笑った。
「……綺麗だな」
アリスは振り向く。
ヘイズの顔は青白い。収容区画を出てからずっと無理をしているのが分かる。けれど、その目だけは中層の方を向いたままだった。
「ごちゃごちゃしてるけど……綺麗だ」
風が、彼の髪を揺らす。
「昔は、こんなふうに見たことなかった」
掠れた声だった。
「近すぎたんだろうな。中にいると、汚れとか、音とか、面倒ばっか目につく」
少し息を吸う。
「でも……外から見ると、ちゃんと街だ」
レンが何も言わず、唇を噛んだまま隣に立つ。
ヘイズは続けた。
「守りたかった」
その言葉は、独り言みたいに落ちた。
「救いたかったんだよ。あのごちゃごちゃした街を」
アリスの胸が強く痛む。
ヘイズは遠くの中層を見たまま、少しだけ目を細めた。
「世界が、やばい」
短い言葉だった。
「もう、だいぶ深いとこまで来てる」
それ以上は言わない。説明もしない。
でも、その一言だけで十分だった。
ヘイズが知っていること。見てきたこと。止めたかったこと。全部が、その短さの中に沈んでいた。
その瞬間、背後で金属の擦れる音がした。
レンが反射的に振り返る。
「もう追いついてきやがった」
上層外縁へ出る直前の保守扉。その暗がりの中で、白い影が浮かぶ。シーカーズ。ひとりではない。後ろにさらに灯りが見える。中央側の追手も混じっているのだろう。
ヘイズが小さく息を吐いた。
「あー……最悪だな」
それは、昔アリスを拾った時のレンみたいな言い方だった。場違いなくらい普通で、そのことが余計に悲しかった。
「隠れ家が、ある」
ヘイズがレンの胸元を掴むようにして言う。
「この上層外縁の搬送橋、見えるだろ。あの下に旧昇降機のシャフトがある。昔、中層との荷揚げに使ってたやつだ。今は止まってる」
レンが目を上げる。外縁の少し先、太い梁で支えられた搬送橋が夜の中へ伸びている。その下は影になっていて、配管と骨組みが複雑に絡んでいた。
ヘイズは続けた。
「橋の下へ降りる細い保守階段がある。そこを降りた先、ひたすら進める。シャフト脇の小部屋だ。壁に半分埋まってる。表通りからは見えねえ」
少し息を継ぐ。
「扉の塗装が、青く剥げてる。そこに俺が分かってることを全部置いてきた」
アリスの頭の中に、その場所が初めて形になる。
上層外縁。
搬送橋の下。
止まった旧昇降機シャフト。
その脇にある、青い塗料の剥げた小さな保守室。
「なんで今まで言わねえんだよ」
レンが震える声で言う。
「お前に全部教えたら、調子乗るだろ」
「こんな時にまで――」
言い返しながら、レンの声が崩れる。
ヘイズはそこで、初めてアリスを見た。
青い目を、まっすぐ。
その目は疲れていた。けれどどこかやわらかかった。さっきまで白い部屋の中で削られていた人間の目じゃない。全部を言葉にはできないまま、それでも何かを託そうとする人間の目だった。
「行け」
「でも……!」
「行け」
今度ははっきりと言った。
保守扉の方から、白い圧が飛ぶ。レンがアリスを引き、二人はとっさに身を低くする。足元の柵が弾け飛び、火花が散る。
ヘイズが前へ出た。
足元は覚束ない。満身創痍だ。なのに、その背中は妙に大きく見えた。
「ヘイズ!」
「時間、稼ぐだけだ」
「無茶だ!」
「知ってる」
ヘイズは振り返らないまま、短く言う。
「でも、おれが一番マシだ」
シーカーズが外縁へ姿を現す。白い装甲。環状の観測機。感情のない視線。
ヘイズは近くの保守パネルから、剥き出しの金属棒を引き抜いた。武器というには頼りない。けれど、何も持たないよりはましだった。
「レン」
「……」
「頼んだぞ」
その一言で、レンの顔が歪む。
怒鳴り返しそうになって、言葉が出ない。代わりに、歯を食いしばる音だけが漏れた。
ヘイズは、少しだけ笑った。
今まで見たどの笑いとも違った。皮肉でも、諦めでも、強がりでもない。ほんの少しだけ、安心したみたいな、やわらかい笑顔だった。
「そういう顔、すんな」
それから、アリスを見る。
風が吹き、ヘイズの髪が揺れる。背後には、中層の灯りが広がっている。
「……お前は、あいつらによく似てる」
アリスの胸が止まりそうになる。
誰、とは言わなかった。
ヘイズは、そのままアリスの目を真っ直ぐ見た。
優しい顔だった。
今までほとんど見せたことのない、ちゃんとした優しい顔。
そして、低く言った。
「……あとは、お前が選べ」
おじいちゃんの最後の言葉と、重なる。
胸の奥の何かが、音を立てて崩れそうになる。
聞き返す前に、ヘイズは前を向いた。
シーカーズが一体、近づく。
もう一体。
さらに後ろに人影。
ヘイズはその中央へ向かって、一歩だけ踏み出した。
「来いよ」
乾いた声だった。
その次の瞬間、白い圧と金属音がぶつかり合う。ヘイズは真正面から避けず、わずかに身体をずらして一撃を受け流し、その勢いのまま金属棒を観測機の環へ叩き込んだ。火花。高い音。シーカーズの一体が姿勢を崩す。
「行けえっ!!」
ヘイズの怒鳴り声が、初めて外縁に響いた。
レンがアリスの手首を掴む。
今度の手は、ためらわない。
泣きそうな顔のまま、それでも前へ引く手だった。
アリスは動けなかった。
見てしまったからだ。
ヘイズの脇腹から、すでに血が流れているのを。収容区画で受けた負荷か、さっきの圧か、それともその両方か分からない。でも、長く持たないことだけは分かる。
「アリス!」
レンの怒鳴り声。
その瞬間、ヘイズが振り向く。
そして、たった一度だけ、大きく頷いた。
アリスは唇を噛み、涙で歪む視界のまま頷いた。
走る。
レンと一緒に。
背後でまた金属音が鳴る。白い閃きが走る。何かが壊れる音。誰かが倒れる音。全部が混ざって、夜の風に千切れていく。
上層外縁の通路を曲がり、搬送橋の手前へ出る。そこから橋の側面に沿って走る細い保守階段が下へ落ちていた。レンがそれを見つけ、ほとんど飛び込むように駆け下りる。アリスも続く。頭上で橋の骨組みが軋み、下では外縁に沿った古い搬送橋が待っていた。
途中で一度だけ、アリスは振り返った。
遠く。
保守扉の前。
中層の灯りを背にして、ヘイズの影が揺れていた。
次の瞬間、強い白光が走る。
それで、もう何も見えなくなった。
⸻
どれくらい走ったのか分からない。
レンが急に足を止めたのは、搬送橋をだいぶ進んだところだった。上層外縁の華やかな灯りから少し外れた場所。金属の骨組みと古い昇降機の支柱が影を落とし、その根元に、小さな保守室の扉が壁へ半分埋もれるようについていた。
青い塗料が剥げている。
ヘイズが言った通りだ。
レンは扉へ飛びつき、乱暴に開ける。中へアリスを押し込み、自分も入ってすぐに扉を閉めた。
暗い。
狭い。
けれど、外の風と追手の気配が、ひとまず遮られる。
アリスはそこで膝から崩れた。
息が苦しい。胸が痛い。頭の中が真っ白だ。なのに、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
ヘイズが、もういない。
「……やだ……」
声が零れる。
「やだ……やだよ……」
止まらない。
涙が勝手に出る。嗚咽が喉を引き攣らせる。子どもみたいに泣きたくなんかなかった。泣いても戻らないことくらい分かっている。なのに、身体のどこにもそれを止める力が残っていなかった。
レンは何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
暗がりの中で、彼も壁に背をつけたまま俯いている。肩がわずかに震えていた。泣いているのかどうか、アリスには分からなかった。けれど、きっと同じだった。
助けたのに。
見つけたのに。
触れたのに。
連れてこられたのに。
最後まで、一緒には来られなかった。
しばらくして、アリスはぐしゃぐしゃのまま顔を上げた。
保守室の狭い窓の向こうには、まだ中層の灯りが見えていた。蒸気が上がる。歯車が回る。ごちゃごちゃしてる。整っていない。けれど、確かに綺麗だった。
ヘイズが守りたかった街。
ヘイズが救いたかった街。
アリスは涙で濡れた顔のまま、その灯りを見つめた。
そして、自分の胸の奥に、さっき収容区画で触れた継ぎ目の感覚が、まだ微かに残っているのに気づいた。
怖い。
でも、もう知らないままではいられない。
ヘイズが死ぬ前に残したものは、隠れ家の場所だけじゃない。
選べ、と言われる形で託されたもの。
繋げろ、と言われたみたいな感覚。
そして、あいつによく似てる、という最後の言葉。
アリスは中層の灯りを見たまま、震える声で呟いた。
「……絶対に、終わらせない」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ヘイズか。
おじいちゃんか。
あるいは、街そのものか。
ただ、その夜初めて、アリスは「逃げるため」ではなく「進むため」に言葉を口にした。
隣で、レンが小さく息を吐く。
「……ああ」
短い返事だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
狭い旧保守室の中で、二人はしばらく、何も言わずに泣いた。
外ではギアラクトが、何も知らないみたいに、いつも通り重たい音を鳴らし続けていた。
ありがとう




