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17話 帰らない場所

静かな層を抜けてから、通路の空気はまた少しずつ変わり始めていた。


最初に変わったのは匂いだった。下層の、湿った鉄と油と古い水の匂いではない。静かな層に満ちていた、妙に乾いていて整いすぎた無臭でもない。今二人が歩いている場所には、そのどちらも中途半端に残っている。古い設備の熱と、新しく付け替えられた保護材の焦げた匂いと、長く閉じていた金属の内側の匂いが、薄く混ざっていた。


通路そのものは狭い。左右の壁にぴたりと寄せられた太い配管が、ほとんど人ひとり分の幅しか残していない。床は金属板を等間隔で敷き詰めた作りで、踏み出すたびに乾いた音が返る。天井の低い位置には細い灯りが並び、白い光を落としていた。見た目だけなら、いかにも設備用の道だ。けれど長く見ていると、その整い方に奇妙な揺らぎがあることに気づく。継ぎ目は揃っているように見えるのに、視線をずらすたびに数ミリずつ位置が変わる。灯りも一定の間隔で続いているはずなのに、光と光のあいだだけが微妙に長く見えたり短く見えたりする。


アリスは歩きながら、その違和感を何度も飲み込みかけて、結局声に出した。


「……ねえ」


前を歩くレンが、振り返らずに言う。


「なんだ」


「さっきからさ」


アリスは天井と床と壁を順番に見ながら、少しだけ眉を寄せた。


「点検路とか保守路とか、似たような名前ばっかりで、もうどこ歩いてるのか全然分かんなくなってきた」


レンが小さく息を吐く。


「今さらだな」


「いや、今さらだけど大事でしょ。だって、どこ通ってるか分かんなかったら、どこに向かってるかも分かんなくなるじゃん」


それはただの文句ではなかった。ここまでずっと、追われながら、下へ潜ったり上へ上がったり、点検路だ保守路だと呼ばれる似たような道を抜けてきた。頭の中では“移動している”ことは分かっていても、いま自分たちがこの巨大な街のどこにいるのか、どこへ向かっているのか、その輪郭が曖昧になりはじめていたのだ。


レンはそこでようやく足を止めた。壁際に体を寄せ、ポーチから薄いプレートを取り出す。指で表面を軽く叩くと、淡い線が浮かび、簡易的な地図が立体的に描き出された。


「ほら」


レンが一点を指す。


「ここが今の位置」


アリスが横から覗き込む。細い線と太い線、重なり合う区画、上下にずれた通路。最初はただの光の束にしか見えない。


「……線、多くない?」


「層が重なってるからな」


レンは少しだけ指を滑らせた。


「まず、ヘイズの予備工房があったのが中層工房A区画第三保守路の外れだ」


その名前を聞いた瞬間、アリスの頭の中でようやく一点が繋がる。あの、工房区画の外れに隠されていた予備工房。ヘイズが先に仕込んでいた場所で、そこからシフトを持ち出したのだ。


「それから、中層外れの接続路を抜けて、下層のコミュニティに入った」


レンの指が別の線へ移る。


「そこから停止区画に近い外れを回って、大空洞の外縁に沿った点検路を通って上がった。静かな層はその上、外縁居住整理区画」


アリスはその呼び名に少しだけ息を止めた。静かな層に“居住整理区画”なんて名前がついていること自体が、あの場所の冷たさを言い直しているみたいだった。住んでいた人間がいて、それを“整理”した結果、あの整いすぎた空白が残ったのだ。


「で、今いるのが」


レンの指が細いラインの上で止まる。


「中央外縁第2保守路」


アリスはゆっくりとその名前を繰り返す。


「中央外縁……第2保守路」


「ああ。中央そのものじゃない。まだ手前だ」


レンの指がさらに奥をなぞる。


「この先で第一点検路に合流する。点検路は広い。見通しもいい。だから見つかりやすい」


「保守路は?」


「狭い。配管沿いで、曲がりも多い。隠れるには向くが、逃げ場は少ない」


アリスは小さく頷く。


「じゃあこの後は?」


「第一点検路を短く抜ける。それから分岐して、中央外縁第3保守路に入る」


レンの指が最後にある一点で止まった。


「その先が、中央外縁の監視区画と収容区画だ」


アリスはその場所をじっと見た。


「……ヘイズはそこにいると思う?」


レンはすぐに答えなかった。いつものように乱暴に「たぶんな」と言う代わりに、地図を見つめたまま少しだけ考えてから言った。


「分からん。けど、連れてかれるならあの辺だ」


「どうして?」


「中央に近いからだ。回収したやつを置くなら、奥に運ぶ前に一度集める場所がいる。外から切り離しやすくて、監視もしやすい」


アリスは小さく息を吸った。


「……じゃあ、今はそこを目指してるってことだね」


「ああ」


レンはプレートを閉じる。


「分かりやすく言うなら、今は“中央の手前”を這ってる」


その言い方は、妙にしっくりきた。中心にはまだ届いていない。けれど、もう十分に中央の匂いがする場所まで来ている。静かな層で感じたあの整いすぎた冷たさも、その“手前”の一部だったのだろう。


アリスは少しだけ息を吐いて、頷いた。


「……ようやく分かった気がする」


「分かったなら進むぞ」


レンがそう言って歩き出しかけた、その時だった。


アリスの視線が通路の先で止まった。


最初は、ただ暗いだけだと思った。灯りの届く範囲の先に、少し濃い影がある。そう見えた。だが、一歩進んでから違和感が形になる。


通路が、そこで終わっている。


いや、終わっているのではない。続きを“見られない”。


「……ねえ」


さっきまでとは違う声色だった。


レンがすぐに振り返る。


「なんだ」


アリスは指ささずに、その先を見たまま言う。


「ここ、変」


レンも視線を向ける。数秒の沈黙。


やがて、レンの表情が僅かに固くなる。


そこにあるのは、黒だった。


ただの暗闇ではない。灯りが届いていないだけの闇とも違う。白い光を一切受け付けない、均質な黒。表面の有無すら分からない。奥行きがない。空間があるはずの場所に、空間としての情報だけが抜け落ちている。


「……何だこれ」


レンの低い声が落ちる。


アリスはその黒を見つめる。


そして、息を呑んだ。


黒の中で、何かが揺れた。


一瞬だけ、そこに通路が見える。壁。床。配管。扉。全部ある。だが位置が合っていない。床は少し高く、壁は少し斜めで、通路の向き自体も今いる場所と微妙にずれている。まるで、同じ区画が別の座標に滑ってしまっているみたいだった。


そして、その中には人影もある。


「……ある」


アリスが小さく呟く。


「向こうに、ある」


「何が見える」


レンがすぐに聞き返す。


「区画……たぶん居住区。壁と、扉と……人も」


レンは一瞬だけ黒を見つめ、それからアリスを見る。


「人?」


「うん。でも、こっちと重なってない。ズレてる」


アリスの声は、自分でも分かるくらい不安定だった。見えているのに、信じ切れない。人影は立っているように見えたが、次の瞬間にはその場所から滑るように消えた。別の場所に出る。さらに消える。


レンは少しだけ黙り、それからぽつりと言った。


「……聞いたことある」


「何を?」


「上の方で、区画ごと人が消えたって話」


通路の空気が一段冷える。


アリスが顔を上げる。


「消えた?」


「全員だ」


レンは黒から目を離さないまま続けた。


「一人も残らなかった。争った跡も、逃げた跡もない。急に、ただいなくなった」


その言い方は、昔話をするようでいて、まるで自分でも半分は信じていない噂を口にしているみたいだった。


「その後、すぐ中央が封鎖した。だから理由は誰も知らねえ。上の失敗だとか、嫌気がさして逃げただとか、いろいろ言われてたけどな」


アリスはもう一度黒を見る。


人が消えた区画。


でも、今自分に見えているものは“消えた後”じゃない。


「……違う」


「何が」


「消えたんじゃない」


アリスは喉の渇きを感じながら言う。


「ここに、まだある」


その瞬間、黒の中で一枚の扉がはっきり見えた。居住区の扉だ。脇には細い番号板。壁の下には、子どもの背丈ほどの高さに細い線が刻まれている。成長を記録するみたいに。人が暮らしていた痕跡が、黒の中で揺れている。


「……見えてないだけ」


アリスがそう言うと、レンは黒を睨んだまま短く言った。


「……確認する」


「え?」


レンはしゃがみ込み、足元の金属板の継ぎ目に転がっていた小さなボルトを拾い上げた。アリスはその動きを見て、すぐに意味を理解する。


「レン」


「見てろ」


レンは黒の縁から二歩ほど手前で足を止めた。大きく投げるのではなく、軽く放る。“そこに落ちる”くらいの弱さで。


ボルトは黒の方へ飛んだ。


普通なら床に当たり、乾いた音を立てて少し転がるはずだった。


だが、音は返ってこない。


アリスの目にははっきり見えていた。ボルトが黒の縁に触れた瞬間、輪郭がふっと薄くなる。そのまま、そこから先が“続かない”。落ちたはずなのに、落下の先がない。


レンも一瞬だけ息を止めた。


「……穴じゃねえな」


低く呟く。


「穴なら音くらい返る」


その時だった。


背後から、規則的な靴音が近づいてきた。


金属を打つ、迷いのない音。


再編局だ。


白い装甲。顔の半分を覆う無機質な覆い。細い観測機を持った腕が、こちらへ向けられている。


「偏差反応、収束」

「未登録機、確認」

「対象、回収優先」


感情のない声が重なる。


アリスの背筋が凍る。


前には黒い無。後ろには再編局。


逃げ道がない。


レンもそれを理解したのだろう。舌打ちし、小さく位置を変える。だが狭い保守路では大きく動けない。再編局との距離は縮まるばかりだ。


「……まずいな…」


レンが低く言う。


アリスは答えなかった。


黒の中が、また揺れたからだ。


通路。


床。


壁。


扉。


今度は、それがほんの一瞬だけ“繋がる”。


「……待って」


アリスが呟く。


「今……」


再編局の先頭が前に出る。だが、まだ黒までは距離がある。こちらとの距離を詰めているだけだ。


アリスの手の中でシフトが強く震えた。


黒の中に、道が見える。


「……道」


アリスが息だけで言う。


「レン」


「なんだ」


「行ける」


レンが眉を寄せる。


「は?」


「今だけ。繋がってる」


前には無。後ろには敵。もう迷っている時間はなかった。


「今!!」


アリスはレンの腕を掴み、黒の中へ踏み出した。


次の瞬間、視界が揺れる。


足元の感覚が一瞬消え、それから別の位置で戻る。


そこは真っ黒ではなかった。


アリスにだけ見えていた居住区の通路が、今は二人の足元に“存在している”。だが正常な空間ではない。床は僅かに斜めで、壁の位置は揺れ、扉の輪郭は時々ずれる。遠くには人影が見える。居住区にいたはずの誰か。だが近づこうとすると消える。区画全体が、今いる世界のすぐ横で滑っているみたいだった。


背後で再編局員が迫る気配がする。


彼らには、アリスたちが“落ちずに進んだ”ように見えたのだろう。黒の中に、通行可能域が発生したと判断したはずだ。


「対象確認、アリ――」


最後まで発音される前に途切れる。


先頭にいた局員が黒に触れた瞬間、何も起きないように見えた。


そして、足が消えた。


削れたわけじゃない。砕けたわけでもない。ただ、そこから先が存在していない。


膝が消える。腰が消える。


体がぐらつく。


局員が何かを言おうと口を開く。だが音が出ない。いや、口は動いているのに、声だけがこの世界に届かない。肩まで消えた体が、まるで“続きがなかった”みたいに途切れていく。


最後に残った手が、何もない空間を掴もうと伸びる。


その指先がほどけるように消え、何も残らなくなる。


本当に、何も。


音も、影も、痕跡も、熱もない。


最初からそこには誰もいなかったみたいに。


アリスの呼吸が止まる。


黒の中が揺れる。


さっき消えた局員が、別の位置で一瞬だけ立っているように見える。顔がこちらを向いている気がする。だが次の瞬間には消える。


「……やだ……」


思わず声が漏れた。


「消えたんじゃない……違う……」


レンもその場で固まっていたが、次の局員が前に出たことで我に返る。


その局員は消えた仲間を顧みない。僅かに進路をずらし、アリス達に迫ろうとする。


「障害、消失」

「ルート再計算」

「回収継続」


その無機質さが、かえってぞっとする。人間が消えているのに、それを“障害”としか認識していない。


「違う!!」


アリスが叫ぶ。


「そこじゃない!!」


局員の足が、ほんの数センチだけずれる。


その数センチが致命的だった。


踏み出した先が、黒と重なる。


今度はもっと早い。抵抗する暇もなく、体が一瞬で抜け落ちる。音がないことだけが、余計に怖かった。


シフトが、手の中でこれまでにないほど強く震えた。


「持たない!!」


アリスが叫ぶ。


それは勘だった。だが確信に近い勘だった。今、この道は一瞬だけ二つの空間が噛み合った結果見えているだけだ。すぐに崩れる。


「どっちだ!」


レンが声を返す。


アリスは前を見た。床の線が一瞬だけ安定する方向。手すりの高さが合う方向。そこだけが“正しい”。


「右!!そこじゃない!!」


レンは迷わず従う。


背後で再編局員がさらに踏み込んでくる気配がした。だが彼らにはこの道の位置が見えていない。声だけが近づき、そしてそこで途切れる。


「――」


音がない。


何かが消えた気配だけがある。


アリスは振り返らない。


振り返れば足を踏み外す気がした。


数歩。


また数歩。


足元の床が急に消える。次の瞬間、少し右に現れる。


「っ……!」


アリスは身体を捻り、ギリギリで踏み直す。レンも続く。


通路の先の扉が、近づいたと思った瞬間に遠ざかる。壁の継ぎ目が、別の位置へ滑る。


この空間そのものが安定していない。


「アリス!」


レンが叫ぶ。


アリスはシフトを強く握りしめる。光が揺れる。黒い空間の中で、その光だけが“今の位置”を掴み取る糸みたいだった。


「もう少し!」


自分に言い聞かせるように声を出す。


その瞬間、足場が崩れた。


後ろではなく、横でもなく、世界の“繋がり方”が崩れる。床の線と壁の線がズレ、扉の向こうの居住区が一気に遠ざかる。


黒が広がる。


次の瞬間、二人の身体は弾き出された。


硬い金属の床に、肩から叩きつけられる。


息が詰まる。


数秒、呼吸ができない。


アリスは咳き込みながら起き上がり、振り返った。


そこにはもう黒はなかった。


ただの通路だ。


さっきまであったはずの無も、揺れる居住区も、消えた局員も、全部最初からなかったみたいに、保守路の続きを照らす白い灯りだけが続いている。


アリスは震える手で胸を押さえた。


「……助けられたかもしれない」


小さな声だった。


レンはすぐには答えなかった。息を整えながら立ち上がり、少しだけ間を置いてから言う。


「無理だ」


その声は強くない。ただ、事実だけを置くような声だった。


「ここじゃ、誰も助けられねえ」


アリスは何も返せなかった。


助けようとした。止めようと叫んだ。けれど結局、自分たちは逃げるしかなかった。その事実が、勝ったとか助かったとかいう感覚を全部薄くしていた。


それでも、前を見る。


通路の先には、今までより少し安定した光がある。中央外縁第3保守路へ繋がるライン。ヘイズがいるかもしれない場所へ近づくための道だ。


レンが小さく顎を上げる。


「行くぞ」


アリスは一度だけ、さっき黒があったはずの位置を見る。


何もない。


けれど、確かにそこには“あった”。


帰れない区画が。ズレきって、この世界から見えなくなった居住区が。人が暮らしていた痕跡ごと、座標を外してしまった場所が。


アリスはシフトを握り直す。


震えはまだ完全には止まっていない。


それでも、前へ進くしかないことだけは分かっていた。


「……うん」


二人はそのまま歩き出した。


中央外縁へ。ヘイズに近づくために。

そして、街そのものがおかしくなっているという事実の、もう一段深いところへ。

人間に見えている色はあくまで色の反射によるものと言うのは頭でわかっていますが、考えれば考えるほど思考がループしてしまいます。

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