表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

1話 異界渡りのアリス

森は、朝をゆっくりと運んでくる。


夜の冷えがまだ地面に残っていて、踏みしめるたびに湿った土の匂いがかすかに立ち上る。落ち葉は柔らかく沈み、ところどころに露が残っている。触れると冷たく、指先がわずかに震えた。


木々は高く、枝と葉で空を覆い隠しているせいで、光は細く裂けるように差し込む。その光の帯の中に、アリスはしゃがみ込んでいた。


指先で、小さな石を拾う。ざらりとした感触。ほんの少しだけ温もりが残っている。


一つ。


少し離れたところに、もう一つ。


二つ。


間を空けて、もう一つ。


三つ。


並べて、また崩す。


意味はない。ただ、こうしていると胸の奥のざわつきが静まる気がするだけだった。


「またやってるのか」


背後から声が落ちてきて、アリスの肩が小さく揺れた。


振り返ると、おじいちゃんが立っていた。白い髭の間から小さく息を吐きながら、腕に抱えた薪を持ち直している。


「……やってない」


「そうか。じゃあその石は勝手に並んだわけだな」


アリスは答えず、石をそっと崩した。指先に残る冷たさが、少しだけ現実を感じさせる。


おじいちゃんはそれ以上追及せず、家の方へ歩き出す。


「水も汲んできた。昼はそれで足りる」


「……ありがとう」


「礼はいらん」


ぶっきらぼうな返事。それでも、どこか柔らかい。


森の中にぽつんと建てられた小さな家。人の気配はほとんどない。けれど、アリスにとってはそれでよかった。


ここには余計なものがない。


ただ、おじいちゃんがいる。


それだけで、十分だった。



昼は、静かに流れていく。


アリスが鍋に水を入れ、かまどに置く。けれど薪はまだ湿っていて、火はすぐにはつかない。


アリスが少し困ったように見ていると、おじいちゃんが横から手を伸ばした。


指先が、わずかに空を弾く。


それだけで、小さな火が生まれた。


指の先ほどの大きさの、淡い橙色の光。


それが薪へと触れると、ゆっくりと炎が広がっていく。


ぱちり、と乾いた音。


火はすぐに安定し、鍋の底を温め始めた。


アリスはそれを、当たり前のように見ていた。


「……ありがと」


「これくらい、自分でできるようになれ」


「……むり」


即答だった。


おじいちゃんは鼻で笑う。


「だろうな」


それ以上は何も言わない。


けれど、その言い方に責める色はなかった。


水が温まっていく音を聞きながら、アリスは火を見つめる。


炎は揺れているのに、不思議と落ち着く。


森の中での生活は、そういう小さなものの積み重ねだった。



「……ねえ、おじいちゃん」


「なんだ」


「昔の話、して」


ぱちり、と薪が弾ける。


「急だな」


「……なんとなく」


おじいちゃんはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。


「昔はな、人が多い場所にいた」


「街?」


「もっと大きい。うるさい場所だ」


それだけ言って、口を閉じる。


アリスは少し考えてから言った。


「……じゃあ、ここは嫌い?」


炎が揺れる。


影が、壁をゆっくりと動く。


「どうだろうな」


曖昧な答えだった。


「少なくとも、今は静かでいい」


その言葉に、アリスは少しだけ安心する。


同じだ、と思った。



そのときだった。


鍋の中の水面が、ふと揺れた。


風はない。


火も安定している。


それなのに、水だけがわずかに波紋を広げる。


アリスはじっとそれを見る。


まただ。


触れていないのに、こうなることがある。


「……」


おじいちゃんも気づいていたらしい。


一瞬だけ視線を向け、それから何も言わずに目を逸らした。


「……気にするな」


短い言葉。


それ以上は続かない。


アリスも、何も聞かなかった。



夕方になると、風が変わった。


森の奥から流れてくる空気が冷たい。どこかよそよそしくて、知らない場所の匂いが混じっているような気がする。


アリスは足を止めた。


耳を澄ます。


鳥の声がない。


虫の音も、遠い。


静かすぎる。


「……?」


胸の奥が、わずかにざわつく。


「どうした」


後ろから、おじいちゃんの声。


「……なんでもない」


そう答えたが、違和感は消えなかった。


おじいちゃんは周囲を見回し、それから何も言わずに歩き出す。


その背中が、ほんの少しだけ張りつめて見えた。



夜。


火の灯りだけが、部屋を照らしている。


外は完全な闇。森は昼よりも静かで、音がないことが逆に重く感じられる。


「……おじいちゃん」


「なんだ」


「最近、外見てるよね」


薪をくべる手が、一瞬だけ止まった。


「気のせいだ」


「……うそ」


アリスは炎を見たまま言う。


「外、知らない音がする」


沈黙。


おじいちゃんはゆっくりと立ち上がり、壁に立てかけてあった剣を手に取った。


「アリス」


低い声。


「何があっても、外に出るな」


その直後、窓が砕けた。


窓が砕ける音は、思っていたよりも軽かった。


乾いた音が一度鳴って、それきりだった。けれど、その一瞬で空気が変わる。部屋の温度が、すっと下がった気がした。


黒い影が、滑り込んでくる。


音はほとんどない。床に触れているはずなのに、足音すら感じられない。顔は見えない。ただ、光を吸い込むような黒が、そこにあった。


アリスの呼吸が止まる。


身体が、動かない。


「……子供か」


低い声が落ちる。


感情のない、ただの確認のような声音だった。


「標的は老人だけではない。処理しろ」


その言葉で、時間が動き出した。


影が、一斉に距離を詰める。


速い。速すぎて、目で追えない。


けれど――


次の瞬間、その動きは断ち切られた。


一閃。


空気が裂ける音とともに、一つの影が崩れる。遅れて、床に落ちる音。


もう一つ。


ほとんど同時だった。


アリスの視界に映ったのは、ただ剣の軌跡だけだった。


おじいちゃんが、そこに立っている。


さっきまでの姿とは違う。背筋はまっすぐ伸び、足はぶれず、剣は迷いなく振るわれる。


知らない人みたいだった。


「……甘い」


低く、短く。


残った影がわずかに距離を取る。


「やはり元団長か」


その言葉に、アリスの胸が強く鳴った。


団長――。


その意味を理解する前に、また影が動く。


だが今度は、正面ではなかった。


気配が、背後に回る。


見えない。


どこにいるのか、わからない。


「……っ」


鈍い音がした。


おじいちゃんの身体が、ほんのわずかに揺れる。


遅れて、血の匂いが届いた。


鉄のような、重たい匂い。


「終わりだ」


新しい声がする。


さっきまでいなかったはずの、もう一つの影。


おじいちゃんの背後に立っていた。


アリスの喉が、ひゅっと鳴る。


何もできない。


声も出ない。


ただ見ていることしかできない。


おじいちゃんは、ゆっくりと膝をついた。


それでも、振り返らない。


ただ、アリスの方を見ずに言った。


「……来るな」


その声は、いつものままだった。


静かで、短くて、優しい声。


「お前は……選べ」


意味は、わからない。


けれど、その言葉だけが妙にはっきりと耳に残る。


選べ。


何を。


どうやって。


そんなこと、考える余裕なんて――


次の瞬間、


おじいちゃんの身体が、前に崩れた。


音が、消えた。



何も聞こえない。


いや、違う。


聞こえているはずなのに、届かない。


視界が、揺れている。


息ができない。


胸が痛い。


怖い。


いやだ。


ここにいたい。


ひとりは、いやだ。


感情が、溢れる。


抑えようとしても、どうにもならない。


身体の奥から、何かが引き裂かれるような感覚。


アリスの喉から、音にならない声が漏れた。


その瞬間――


空間が、歪んだ。


最初は、かすかだった。


空気が揺れる。熱の向こう側みたいに、景色が波打つ。


それが、急に広がる。


壁が、裂ける。


床が、歪む。


影たちの輪郭が崩れていく。


「……何だ、これは――」


誰かの声が聞こえた気がした。


けれど、それもすぐに飲み込まれる。


世界が、剥がれていく。


色が混ざる。


形がほどける。


全部が、ぐしゃぐしゃになる。


落ちる。


どこかへ。



気づいたとき、


アリスは立っていた。


見たことのない場所に。


空は灰色だった。雲ではない。煙のようなものが、ゆっくりと流れている。


息を吸うと、かすかに焦げた匂いがした。


耳に届くのは、重たい音。


低く、規則的に響く、金属のうなり。


遠くで何かが動いている。


大きな、何かが。


視線を上げる。


建物が並んでいる。


けれど、それは石でも木でもなかった。


鉄だ。


無数の管が絡み合い、歯車がむき出しのまま回っている。蒸気が白く噴き上がり、空気を曇らせていた。


「……ここ……」


声が、かすれる。


自分の声なのに、遠く感じた。


さっきまでいた場所とは、何もかもが違う。


匂いも、音も、空気も。


そのすべてが、異質だった。


遠くで、蒸気が大きく噴き上がる。


まるで、この街そのものが息をしているみたいに。


アリスは、動けなかった。


足が地面に張りついているように、そこから離れられない。


頭の中は、まだ森の中にあった。


おじいちゃんの声が、残っている。


――選べ。


その意味を、まだ理解できないまま。


アリスはただ、鉄と煙の世界に立ち尽くしていた。


挿絵(By みてみん)


あなたはスチームパンクが好きですか?

私は大好きです。

想像するだけで心がワクワクしますよね。

不思議と油の匂いまでしてくるような気がします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ