1話 異界渡りのアリス
森は、朝をゆっくりと運んでくる。
夜の冷えがまだ地面に残っていて、踏みしめるたびに湿った土の匂いがかすかに立ち上る。落ち葉は柔らかく沈み、ところどころに露が残っている。触れると冷たく、指先がわずかに震えた。
木々は高く、枝と葉で空を覆い隠しているせいで、光は細く裂けるように差し込む。その光の帯の中に、アリスはしゃがみ込んでいた。
指先で、小さな石を拾う。ざらりとした感触。ほんの少しだけ温もりが残っている。
一つ。
少し離れたところに、もう一つ。
二つ。
間を空けて、もう一つ。
三つ。
並べて、また崩す。
意味はない。ただ、こうしていると胸の奥のざわつきが静まる気がするだけだった。
「またやってるのか」
背後から声が落ちてきて、アリスの肩が小さく揺れた。
振り返ると、おじいちゃんが立っていた。白い髭の間から小さく息を吐きながら、腕に抱えた薪を持ち直している。
「……やってない」
「そうか。じゃあその石は勝手に並んだわけだな」
アリスは答えず、石をそっと崩した。指先に残る冷たさが、少しだけ現実を感じさせる。
おじいちゃんはそれ以上追及せず、家の方へ歩き出す。
「水も汲んできた。昼はそれで足りる」
「……ありがとう」
「礼はいらん」
ぶっきらぼうな返事。それでも、どこか柔らかい。
森の中にぽつんと建てられた小さな家。人の気配はほとんどない。けれど、アリスにとってはそれでよかった。
ここには余計なものがない。
ただ、おじいちゃんがいる。
それだけで、十分だった。
⸻
昼は、静かに流れていく。
アリスが鍋に水を入れ、かまどに置く。けれど薪はまだ湿っていて、火はすぐにはつかない。
アリスが少し困ったように見ていると、おじいちゃんが横から手を伸ばした。
指先が、わずかに空を弾く。
それだけで、小さな火が生まれた。
指の先ほどの大きさの、淡い橙色の光。
それが薪へと触れると、ゆっくりと炎が広がっていく。
ぱちり、と乾いた音。
火はすぐに安定し、鍋の底を温め始めた。
アリスはそれを、当たり前のように見ていた。
「……ありがと」
「これくらい、自分でできるようになれ」
「……むり」
即答だった。
おじいちゃんは鼻で笑う。
「だろうな」
それ以上は何も言わない。
けれど、その言い方に責める色はなかった。
水が温まっていく音を聞きながら、アリスは火を見つめる。
炎は揺れているのに、不思議と落ち着く。
森の中での生活は、そういう小さなものの積み重ねだった。
⸻
「……ねえ、おじいちゃん」
「なんだ」
「昔の話、して」
ぱちり、と薪が弾ける。
「急だな」
「……なんとなく」
おじいちゃんはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「昔はな、人が多い場所にいた」
「街?」
「もっと大きい。うるさい場所だ」
それだけ言って、口を閉じる。
アリスは少し考えてから言った。
「……じゃあ、ここは嫌い?」
炎が揺れる。
影が、壁をゆっくりと動く。
「どうだろうな」
曖昧な答えだった。
「少なくとも、今は静かでいい」
その言葉に、アリスは少しだけ安心する。
同じだ、と思った。
⸻
そのときだった。
鍋の中の水面が、ふと揺れた。
風はない。
火も安定している。
それなのに、水だけがわずかに波紋を広げる。
アリスはじっとそれを見る。
まただ。
触れていないのに、こうなることがある。
「……」
おじいちゃんも気づいていたらしい。
一瞬だけ視線を向け、それから何も言わずに目を逸らした。
「……気にするな」
短い言葉。
それ以上は続かない。
アリスも、何も聞かなかった。
⸻
夕方になると、風が変わった。
森の奥から流れてくる空気が冷たい。どこかよそよそしくて、知らない場所の匂いが混じっているような気がする。
アリスは足を止めた。
耳を澄ます。
鳥の声がない。
虫の音も、遠い。
静かすぎる。
「……?」
胸の奥が、わずかにざわつく。
「どうした」
後ろから、おじいちゃんの声。
「……なんでもない」
そう答えたが、違和感は消えなかった。
おじいちゃんは周囲を見回し、それから何も言わずに歩き出す。
その背中が、ほんの少しだけ張りつめて見えた。
⸻
夜。
火の灯りだけが、部屋を照らしている。
外は完全な闇。森は昼よりも静かで、音がないことが逆に重く感じられる。
「……おじいちゃん」
「なんだ」
「最近、外見てるよね」
薪をくべる手が、一瞬だけ止まった。
「気のせいだ」
「……うそ」
アリスは炎を見たまま言う。
「外、知らない音がする」
沈黙。
おじいちゃんはゆっくりと立ち上がり、壁に立てかけてあった剣を手に取った。
「アリス」
低い声。
「何があっても、外に出るな」
その直後、窓が砕けた。
窓が砕ける音は、思っていたよりも軽かった。
乾いた音が一度鳴って、それきりだった。けれど、その一瞬で空気が変わる。部屋の温度が、すっと下がった気がした。
黒い影が、滑り込んでくる。
音はほとんどない。床に触れているはずなのに、足音すら感じられない。顔は見えない。ただ、光を吸い込むような黒が、そこにあった。
アリスの呼吸が止まる。
身体が、動かない。
「……子供か」
低い声が落ちる。
感情のない、ただの確認のような声音だった。
「標的は老人だけではない。処理しろ」
その言葉で、時間が動き出した。
影が、一斉に距離を詰める。
速い。速すぎて、目で追えない。
けれど――
次の瞬間、その動きは断ち切られた。
一閃。
空気が裂ける音とともに、一つの影が崩れる。遅れて、床に落ちる音。
もう一つ。
ほとんど同時だった。
アリスの視界に映ったのは、ただ剣の軌跡だけだった。
おじいちゃんが、そこに立っている。
さっきまでの姿とは違う。背筋はまっすぐ伸び、足はぶれず、剣は迷いなく振るわれる。
知らない人みたいだった。
「……甘い」
低く、短く。
残った影がわずかに距離を取る。
「やはり元団長か」
その言葉に、アリスの胸が強く鳴った。
団長――。
その意味を理解する前に、また影が動く。
だが今度は、正面ではなかった。
気配が、背後に回る。
見えない。
どこにいるのか、わからない。
「……っ」
鈍い音がした。
おじいちゃんの身体が、ほんのわずかに揺れる。
遅れて、血の匂いが届いた。
鉄のような、重たい匂い。
「終わりだ」
新しい声がする。
さっきまでいなかったはずの、もう一つの影。
おじいちゃんの背後に立っていた。
アリスの喉が、ひゅっと鳴る。
何もできない。
声も出ない。
ただ見ていることしかできない。
おじいちゃんは、ゆっくりと膝をついた。
それでも、振り返らない。
ただ、アリスの方を見ずに言った。
「……来るな」
その声は、いつものままだった。
静かで、短くて、優しい声。
「お前は……選べ」
意味は、わからない。
けれど、その言葉だけが妙にはっきりと耳に残る。
選べ。
何を。
どうやって。
そんなこと、考える余裕なんて――
次の瞬間、
おじいちゃんの身体が、前に崩れた。
音が、消えた。
⸻
何も聞こえない。
いや、違う。
聞こえているはずなのに、届かない。
視界が、揺れている。
息ができない。
胸が痛い。
怖い。
いやだ。
ここにいたい。
ひとりは、いやだ。
感情が、溢れる。
抑えようとしても、どうにもならない。
身体の奥から、何かが引き裂かれるような感覚。
アリスの喉から、音にならない声が漏れた。
その瞬間――
空間が、歪んだ。
最初は、かすかだった。
空気が揺れる。熱の向こう側みたいに、景色が波打つ。
それが、急に広がる。
壁が、裂ける。
床が、歪む。
影たちの輪郭が崩れていく。
「……何だ、これは――」
誰かの声が聞こえた気がした。
けれど、それもすぐに飲み込まれる。
世界が、剥がれていく。
色が混ざる。
形がほどける。
全部が、ぐしゃぐしゃになる。
落ちる。
どこかへ。
⸻
気づいたとき、
アリスは立っていた。
見たことのない場所に。
空は灰色だった。雲ではない。煙のようなものが、ゆっくりと流れている。
息を吸うと、かすかに焦げた匂いがした。
耳に届くのは、重たい音。
低く、規則的に響く、金属のうなり。
遠くで何かが動いている。
大きな、何かが。
視線を上げる。
建物が並んでいる。
けれど、それは石でも木でもなかった。
鉄だ。
無数の管が絡み合い、歯車がむき出しのまま回っている。蒸気が白く噴き上がり、空気を曇らせていた。
「……ここ……」
声が、かすれる。
自分の声なのに、遠く感じた。
さっきまでいた場所とは、何もかもが違う。
匂いも、音も、空気も。
そのすべてが、異質だった。
遠くで、蒸気が大きく噴き上がる。
まるで、この街そのものが息をしているみたいに。
アリスは、動けなかった。
足が地面に張りついているように、そこから離れられない。
頭の中は、まだ森の中にあった。
おじいちゃんの声が、残っている。
――選べ。
その意味を、まだ理解できないまま。
アリスはただ、鉄と煙の世界に立ち尽くしていた。
あなたはスチームパンクが好きですか?
私は大好きです。
想像するだけで心がワクワクしますよね。
不思議と油の匂いまでしてくるような気がします。




