【第8話】静かなオチ
あれから三ヶ月が経った。
私は一人、カフェのテラス席に座っていた。
あの「地獄の一ヶ月記念日」があった、同じ店。
わざわざここを選んだわけじゃない。
たまたま通りかかって、ふと入りたくなっただけ。
注文したのは、あの日と同じアイスコーヒー。
運ばれてきたグラスを見つめながら、三ヶ月前のことを思い出した。
あの時、佐藤くんに「今日で俺たち付き合って一ヶ月だね」と言われて、口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
苦いだけで、味なんて分からなかった。
でも、今は違う。
◇
「ねえ、俺たちさ」
ドキリとした。
隣の席から、あの単語が聞こえてきたからだ。
反射的に振り返ると、若いカップルが楽しそうに話している。
「俺たちさ、来月の旅行、どこ行く?」
「沖縄がいい!海見たい!」
「いいね、じゃあ沖縄で決まりだな」
女性も笑顔で「やった!」と喜んでいる。
二人とも、その「俺たち」に自然に参加している。
ああ、そうか。
あれが、本来の「俺たち」だった。
二人いて、二人の意思があって、二人で決めて、初めて成立する言葉。
佐藤くんの「俺たち」には、最初から私の意思がなかった。
私の予定も、私の気持ちも、私の未来も、何一つ含まれていなかった。
ただ、彼の妄想の中に存在する「理想の彼女」という名前のNPCがいただけ。
私じゃない。
私の形をした、彼の一人芝居の相手役。
◇
私はアイスコーヒーを一口飲んだ。
冷たくて、ほんの少し酸味があって、後味にかすかな甘みが残る。
「……美味しい」
小さく呟いた。
誰にも邪魔されず、誰の許可もいらず、自分のペースで味わう一杯。
スマホの通知は静かだった。
毎朝六時三十分の「おはよう」も、毎晩二十三時の「おやすみ」も来ない。
既読催促も、予定確認も、報告義務もない。
佐藤くんは、悪い人ではなかったのかもしれない。
ただ、見ている世界が、致命的に違っていた。
でも、それでも。
相手の意思を無視して、勝手に「俺たち」を作って、勝手に人生設計をして、勝手にSNSで公開するのは、やっぱり間違っていた。
次に誰かが同じことをしてきたら——
今度は迷わず、もっと早い段階で言える。
「付き合ってないですよね?」
あるいは、もっとシンプルに。
「その『俺たち』、私入ってないです」
そう言えるだけで、世界はだいぶマシになる。
私はグラスを持ち上げて、窓の外の空を見上げた。
青い空に、白い雲が流れている。
ふと、あの決め台詞を思い出した。
「俺たちさ……」
何度も何度も聞いた、あの言葉。
私はスマホを置き、深く息を吐いた。
「『俺たちさ』って言葉、あの人は一人称で使ってたんだ」
小さく呟いて、また一口。
コーヒーの味が、ちゃんと分かる。
酸味と苦味と、ほんの少しの甘み。
これからは、自分のペースで、誰にも邪魔されずに、美味しいコーヒーを味わおう。
私の人生の主語は、私が決める。
コーヒーはまだ冷たい。
私だけの、静かな時間を。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
「俺たち」という言葉は、本来二人の意思があって初めて成立するものです。でも時々、一方的に「俺たち」を作り上げて、相手を勝手に巻き込む人がいます。
もしそんな場面に遭遇したら——
「付き合ってないですよね?」 「その『俺たち』、私入ってないです」
遠慮なく使ってください。
違和感を感じた時、ハッキリ言っていいんです。 あなたの人生の主語は、あなたが決めるものですから。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。 少しでも楽しんでもらえていたら嬉しいです。




