僕は捨てられていなかった? 1
今日も訓練を終えたハインリッヒはポケットの中からハンカチを取り出す。
精緻な黒薔薇の刺繍が美しいハンカチだ。
漆黒の薔薇はヴィルヘルミーナを連想させるので、ハインリッヒの顔には見る者をほっこりさせる微笑が浮かぶ。
何処かで誰かが倒れた音がした。
「リッヒ~、ハンカチを見るのは部屋に戻ってからにしろって言ったろ?」
「また何処ぞ彼の御令嬢がぶっ倒れてるぞ?」
「あー、あれはアーベライン男爵家の令嬢だな。確か婿取り希望だったような……」
フリッツに咎められ、ホルガーに現状を教えられ、ギードが詳細を語ってくれる。
これがヴィルヘルミーナにハンカチを貰い受けた日から、当たり前の流れになっていた。
「しかし、リッヒが速攻で隠蔽魔法と防汚魔法を覚えたのには驚かされたぜ」
「や。一緒になって覚えた俺たちも大概じゃね?」
「精度は桁違いだけどね」
ギードの言葉に、ふとハンカチを貰って寮に帰ったときの会話を思い出す。
『お前のことだから終始ハンカチを携帯するはずだ、ミーナに嫌われたくなかったら、隠蔽魔法を覚えて黒薔薇の刺繍を隠せ。あと汚したくないだろうから、防汚魔法を覚えろ』
ハインリッヒならできると疑わないホルガーの忠告に頷き、言われた次の瞬間に隠蔽魔法、防汚魔法を発動させれば、その場にいた全員に絶句された。
一部を除いて結束力の高い第五騎士団は仲が良いのだ。
『……さすがはリッヒ。ミーナが関わると不可能を可能に変えるな』
『……今更驚いている場合じゃないよね? 僕たちも頑張って覚えようか』
ギードの言葉に周囲がざわつく。
『どちらも騎士団必須にしてもいい魔法でしょ?』
基本的に素直な団員たちはしばし考えたあとで、こっくりと頷いた。
『今までは何故か知らんけど、身体強化魔法しか使わない! ってー風潮があったけどな。この二つの魔法ならお偉いさんたちも許可しそうな気がするわ』
魔法を使える騎士は多い。
しかし身体強化魔法以外は邪道と教えられてきたのだ。
身体強化魔法こそ、邪道ではないか? と意見したフリッツは、その日の食事を与えられないほどの罰を受けた。
理不尽だと思いつつも声を上げられなかったのだが、ここにきてホルガーは何か思いついたようだ。
『リッヒのヴィルヘルミーナ嬢に対する思いは上層部も知っているからね。事後報告でも罰は受けないと思うよ』
ギードの言葉を聞いた途端。
その場にいた全員が魔法の取得に集中しはじめた。
危うく夕食の時間に遅れそうになったほどだ。
徹夜して頑張った奴らもいて、二つの魔法を取得した者が出始めた頃。
騎士団長と副騎士団長に呼び出されて、ことの経緯を説明させられた。
副騎士団長は退団させるべきです! と鼻息を荒く唾を飛ばしたが、団長は騎士団長会議で議題として提案し、さくっと許可を得てしまった。
上に行くほど二つの魔法の重要性を理解していたのだ。
「他の騎士団員にも声をかけられることが増えたよな」
「それなー。いきなり馴れ馴れしくされるのは鬱陶しいことこの上ないけど、今までほとんどなかった交流ができたのは悪くないと思う」
「実力者が多いしな」
勿論坊ちゃんのような貴族も多い。
どころか何かを勘違いしている平民も多い。
力こそが正義! と謳われて久しい騎士団だが、実力があるからといって何をしても良いわけではないのだ。
愚か者ほどそれを理解していない。
「り、リッヒさま~」
何処からか誰かを呼ぶ女性の声がする。
訓練後に見学者と話をする時間が儲けられていたが、ハインリッヒがその時間を有効活用した日は一度もなかった。
だから誰かがハインリッヒを呼ぶとは思えなかったし、女性に愛称呼びを許しているのはヴィルヘルミーナだけだったので、自分を呼んでいるのだと認識すらしていない。
「……あれは?」
「バーター子爵令嬢。兄三人が騎士団所属なんだよ」
「ああ、良い方たちだな」
『高位貴族でもないんだし、もっと砕けてくれて構わないよ!』
そう言ってくれる貴族が希少であるのだと、ハインリッヒが知っている。
知っているからこそ、令嬢のマナー違反が許せない。
くるりと振り向いた。
フリッツが背後から全力で拘束してくる。
「……御令嬢相手に暴力は振るわないよ?」
「暴言もやばいだろうが!」
昔自分を虐めていたとは思えない。
ハインリッヒを考えての拘束。
人は変わるものだと感慨深く頷きながら、走り寄ってくる令嬢に向かって叫ぶ。
「止まれ!」
「り、リッヒ様?」
「貴殿に相性呼びを許しておりません。以降はどうかアーレルスマイアーとお呼びください」
「そ、そんな! 酷いですわ。私と貴男の仲ではございませんか!」
どんな仲だろう?
彼女と一対一で話した過去などない。
尊敬する彼女の兄たちに請われて一度だけ、自己紹介をしただけだ。
「失礼ですがバーター子爵令嬢。貴女は兄上たちが同伴でなければ、騎士と話をしてはならないと契約を結んでおられるのでは?」
ハインリッヒが入団して以降、整えられた規則らしい。
被害者の筆頭はハインリッヒだったが、他にも何人か身分を盾にして接触やそれ以上の行為を求められた騎士がいたようだ。
『何で、僕のところに相談してくるんだろう? 僕、平民だよ。あの人たちは下位とはいえ、貴族じゃん。上への意見だって僕より通せるはずなのに……』
食堂でギードが愚痴っていたのを思い出す。
そういえばその規則が整ったのはギードの頑張りがあったからだ。
貴族より意見を通せる平民、ギードに対するそんな認識はじわじわと騎士団内に浸透していると、ホルガーが教えてくれた。
才能のある努力家とはギードにこそ相応しい。
ハインリッヒはぽんぽんと友人想いのギードの肩を叩く。
「待って、リッヒ! 誤解されるから。そんな慈悲深い顔で僕を見ちゃ駄目でしょう?」
「そうだぞ、リッヒ。また御令嬢が勘違いするから」
「か、勘違いなどしておりませんわ! リッヒ様は私と結婚してくださいますのよ?」
結婚。
婚約を通り越して結婚。
ハインリッヒの結婚相手はヴィルヘルミーナしかいないというのに。
何を間違って、ここまで暴言を吐くのだろう。
ポケットの中のハンカチを握り混んで怒りを散らそうと試みる。
「あ、リッヒが努力してる」
「うんうん、良い傾向だよな……ですから、御令嬢。リッヒが我慢しているうちに、御帰宅ください。今ならまだ、間に合うかもしれません」
どうだろう。
バーター子爵家は代々優秀な騎士を送り出している家系だ。
家族内でならいざ知らず、騎士団員が多くいるこの場所での度を超した発言は許さないと思う。
「ベネディクタ!」
令嬢の名前らしきものを叫びながら走ってくる人影がある。
バーター子爵家で一番騎士らしいと囁かれている次男だ。
「何故契約を破った! 二度目はないとあれほど言いつけただろう?」
騎士団では珍しく冷静沈着と評価されている男が、髪を振り乱して真っ赤な顔をしている。
それほど妹の暴挙に怒っているのだろうか。
「ハインリッヒ、申し訳ない。他の皆も忠告してくれたんだろう? せっかくの言葉を無碍にしてすまない」
次男は深々と頭を下げた。
身分で態度を変えてはいけないと掲げていても、現実では身分による差別が横行している。
下の者に対して、誠実に真摯に謝罪ができる貴族は希少なのだ。
「ツェーザル殿が頭を下げてはいけません。下げるべきは御令嬢です」
「それでもだ。家族として止められなかった責任は負うべきだろう」
「いいえ。尊敬する先輩の経歴に傷をつけたくはないのです」
「ハインリッヒ……」
家族だからといって、必ずしも尻拭いをする必要はない。
今回の一件は令嬢が年齢の割に愚かだっただけなのだ。
「僕……自分はバーター子爵家に対して含むものはございませんし、責任を求めるつもりはございません。ただ! 金輪際御令嬢に接触していただきたくないだけです」
「便乗して恐縮ですが、一部を除く第五騎士団員もそれを望みます」
坊ちゃんたちは御令嬢が押し掛けてくるのを望んでいる。
しかしハインリッヒにしか興味を示さないのに理不尽な怒りを覚えて、御令嬢に対してよろしからぬ計画を立ててもいるらしいのだ。
優しいギードはその辺りも心配しているのだろう。
「あい、わかった。では妹は今後第五騎士団員との接触はさせぬと誓おう。のちに契約書に条項を付け加えておく」
「感謝いたします」
「ツェー兄様! 酷いですわ。私とリッヒ様の邪魔をしないでくださいまし!」
「邪魔などしていない。ハインリッヒ殿は心に決めた方がおられる。騎士団では有名な話だ。御令嬢の間でも知られているはずなのだが?」
「その! 心に決めた方が私なのです。どうしてわかってくださらないの?」
御令嬢がぽろぽろと涙を流す。
周囲にいる何人かの騎士が眉根を寄せた。
大半の人が見れば愛らしいとか、不憫だとか思うのだろうけれど。
ハインリッヒはただ鬱陶しいと感じるだけだった。
「リッヒさまぁー」
必死にこちらに向かって手を差し伸べてくる御令嬢に背を向ける。
今回の一件で彼女がどれほどの存在を敵に回したのか。
彼女が知る日は来るのだろうか。
来ない方が幸せかもしれない。
無言で肩を叩いてくる友人たちの肩を、同じようにたたき返したハインリッヒは訓練場をあとにした。
後日長男であるコルネリウスがベネディクタの末路を教えてくれた。
ハインリッヒに対する盲目的な執着に激怒した当主の手によって、修道院に送られたとのことだった。
執着が失せ、反省の態度が見られれば家に戻してもいいと考えているようだが、自分は難しいと考えている、と深々と溜め息を吐くコルネリウスが不憫で仕方ない。
コルネリウスにハインリッヒを責める色がなかったので、余計に、そう思ったのだ。




