13 ブリスコーの最初の日
アイルは死の淵の闇からゆっくりと覚醒した……。
彼は瞼に直射日光のまぶしさを感じた。彼は顔の熱さを感じた。彼は目を見開いた。
ギラつく白いの太陽がアイルの眼を刺した。彼は眼を細め顔を背けた。
やがて頭がはっきりしてくると、雑踏の話声や足音が彼の耳に響いてきた。
一体ここはどこだろう。アイルはいまいち直近の記憶がはっきりしなかった。確か船から降りて、ブリスコーの門をくぐって、その途端に魔物達の襲撃を受け……
そしてオークと戦って殺されたのだ。唐突に緑青の巨大な刀がアイルの腹を刺し貫いた、その記憶が蘇った。
アイルは身を起こした。そのとたんに腹部に激痛が走り、アイルはうめいて再び身を横たえた。
彼は痛む腹部をさすりながら、自分の神経がふたたび興奮していくのを感じた……血液が逆流し、後頭部がかっと熱くなるあの感覚。
”おれは殺されかけた……”
彼は体を動かそうとしたが、痛みできなかった。彼は腹部の激痛が去るのを待った。
そうして動かず目を閉じ眠っていると、彼の高ぶった精神も徐々に静まっていった。
そうしてアイルはしばらく目を閉じていた。すると彼の顔に何か柔らかいものが触れた。
アイルは再び目を開けた。彼の顔を美しい金髪の修道女が覗き込んでいた。その長い髪の端っこがアイルの顔をくすぐった。
彼女の名は確か、ミランダだ。
「起きましたか?」ミランダはそう言い、くすくすと笑った。
アイルは自らの下腹部に手を伸ばし、へその真上の痛みのある場所を恐る恐る触った……しかしそこにあったのは、はだけた肌と裂けた服だけだった。
腹の中身はまだ痛い。しかし、傷口はふさがっているらしい。
「君が治療してくれたのか……」アイルは訊いた。
「そうですよ」ミランダはそう言い、またクスクスと笑った。彼女は細めた緑色の瞳でアイルを見た。
アイルの顔に冷たい水の飛沫がかかった。彼が顔を横に向けると、目の前には噴水の泉があった。
彼はどこかの噴水の縁に寝かされていたのだ。清涼な水しぶきは冷たく爽やかで、肌に触れると気持ちが良かった。おそらく地下水から直接汲み上げられたであろう新鮮な水は、狩人の研ぎ澄まされた嗅覚にも嫌な匂いとは感じなかった。
アイルは反対側に顔を向けた。
広場はけが人でごった返していた。重傷者が石畳の上に広げられた絨毯の上に寝かされ、修道士たちが両手の袖をひじの上まで真っ赤に染めて怪我人達を治療していた。けが人たちの中には、すでに死んでいる者もいた。兜を脱がさたある兵士の周りを、たくさんの兵たちが囲み、手を合わせ祈りをささげていた。
しかし、けが人達以外の多くは笑顔だった。明るい口調の話声や、笑い声が聞こえてきた。どこからかいい匂いがしてきた。それは焼き鳥の匂いだった。鶏皮の焼ける香ばしい臭いがアイルの鼻をくすぐった。屋台が調理台ごと広場に移動してきて、鳥の串焼きを兵達に配っているのだ。
アイルのお腹がぐうと鳴った。それを聞きミランダがまたクスクスと笑った。そういえば彼はこの三日間、湿気った干し肉しか食べていなかった。
アイルはミランダと目を合わせた。太陽からの逆光に照らされて、彼女の細かい産毛が鮮やかに光っていた。
「俺たちは勝ったんだよな」アイルが聞いた。血の痰が喉に絡み、しゃがれ声しか出なかった。
「もちろんっ、勝ちましたよっ」ミランダが明るく答えた。
アイルは頭の下の太ももの柔らかさに心地よさを感じた。ミランダは、昨日は身を清めていないはずだった。彼女の垢のすえた匂いと、女の匂いがまじりあい、それはとてもいい匂いがした。素晴らしい香りだった。
彼女はアイルのシャツをめくり下腹部の傷口に触っていた。聖医術の放つ淡く黄色い光が彼女の細い左手を覆っていた。彼女はやさしくアイルの肌に触れた。その産毛を撫でるような淡い手付きにアイルは心地よさを感じた。それは性的に気持ちが良かった。
彼女の香りとその優しい手付きに、アイルの体は性的に反応した。アイルの陰茎は脚衣の布を押し広げ、そのうちに高い高い天蓋を張った。
ミランダの眼がそれをとらえた。
アイルは必死に別のことを考え勃起を鎮めようとした。
彼女は笑って目を細めた。
彼女は徐々に徐々に顔を近づけながら、アイルの耳元で、ささやき声でこう言った。
「えっちなこと考えちゃ、だーめ♡」
彼女はアイルの眼に手をかざし瞼を閉ざせた。すると突然の睡魔がアイルを襲った。彼は再び眠りに落ちていった。
次に目覚めたとき、アイルはまた別のどこかの広場に横になっていた。
彼は敷物を敷いた石畳の上に寝かされていた。日陰の冷たい石畳のひんやりとした感触がアイルの腹に伝わってきた。その頭は、また誰かの膝の上だった。
アイルは頭を起こした。そこにはネネの顔があった。彼女の長くウェーブした栗毛がアイルの顔にかかり、鼻梁をむずむずとくすぐった。
彼女はなにか怒った顔をしながらアイルの顔をなでていた。彼女の太ましい肢体は、背中に当たるゴツゴツした石畳とは対象的に、暖かく柔らかかった。累計四日間も湯浴みもしていない彼女の躰から饐えた垢の匂いと女の恥垢の匂いが漂い、それがアイルの鼻腔で混ざりあった。
アイルは再び勃起した。
ネネはそれをみても、咎めなかった。
アイルは彼女を見つめながら、ピコピコと陰茎を動かした。
そのとき突然、周囲の話し声が大きくなった。アイルは慌ててペニスの動きを止め、勃起を鎮めた。周囲の声が大きくなった理由は、アイルとは関係がなかった。
役人の一団が難民たちと話をするためここにやってきたようだった。
彼は寝たまま周囲を眺めた。スホルト村の住人たちは、地べたに直接座り込んで互いに話をしていた。彼らの近くにはエルフ達も腰を下ろし休んでいた。門前で演説した長老格のエルフが、同じく櫓の上にいたモノクルの役人と話し込んでいた。
「いま、みんなの住居が割り当てられてるの」ネネが言った。「ブリスコーには遺跡がたくさんあって、空いてる家が余ってるんだって」
彼はゴードンを見つけた。ゴードンは村の副村長だった。彼は長老エルフと役人との話し合いに加わっていた。
「ゴードンさんは無事だったのか」アイル言った。「……誰が死んだかわかるか?」
「ハンスさん、ユーゲル、フランツ」ネネが答えた。
アイルは押し黙った。村に残った連中はどうなったろうか。あれほどの戦力で包囲されれば、村長とて一日も村を守ることはできない。もうあれから三日たった。ならば、ゲイルもすでに……。
アイルはそのままぼんやりとしていた。エルフと役人の話し声が聞こえてきたので、彼はそれに耳を傾けた。
「……クルツ様については私から説得しましょう。そちらからは正規兵を十名ほど募ることになるでしょう。装備はこちらで手配します。あとこんなこといってはなんですが」役人が目配せをしていった。「はやく住居を定めて既成事実を作ったほうが良いかと。あとは私の力でなんとかしましょう」
「なぜ私達を助けるのですか?」老エルフが聞いた。
「あなた方は決死隊を作って我が民を守ってくれました。当然かと思います」
「感謝する」老エルフは頭をさげた。
アイルはアリアたちの姿を探した。しかしそれはどこにもなかった。アイルは再び睡魔に襲われ、うとうとと眠りに落ちていった。
夕方になり、アイルは三たび起こされた。どうやら、ようやく仮の住まいが決まったらしい。
アイル達は市街地を出て斜面をのぼり山の中腹までたどり着いた。
このブリスコーは2つの山の峰の合間の谷に作られた自然の砦だった。街の中央には小さな小川が流れており、地下水も豊富らしく水の心配はなかった。この自然の要塞には太古の昔に街が開かれた。しかし千年前にウルゴーン山脈に火竜が住み着いた。街は幾度か火竜の襲撃を受け、多くの人間がこの街を去った。今は兵士、義勇兵そして冒険者が住み着く無骨な前線基地となっていた。山の斜面にはかつて栄えた時代の石造りの町並みが残っていた。しかし時を経て多くの家々が崩れ去っていた。
スホルトの住人に割り当てられた家々も、壁に崩れた場所があり、寝るには危険だった。今からそれを補修をするには日が陰りすぎていたので、彼らは積荷を広げ、天幕の設営を始めた。
アイルは天幕を組みながらエルフ達の方を眺めていた。彼らはアイル達のすぐ隣の遺跡を割り当てられていた。遺跡の中を調べているようだが、今夜は中に泊まる気だろうか。彼らの遺跡はところどころ壁が崩れ、泊まるには危険であるように見えた。
それにしても、彼らの積荷は少なかった。今夜毛布ぐらいしか寝るための寝具はないだろう。なんとなくだが彼らは生活力が低そうな印象を受けた。
やがて日が沈み山の斜面が赤い夕日に包まれたころ、ドワーフの一団が大荷物を背負って坂道を上ってきた。男も女も背丈の二倍はあろうかという嵩の荷物を背負っていた。彼らにはエルフ達の住居のさらに奥、洞窟を直接くり抜いた遺跡があてがわれたらしい。荷降ろしをしている彼らのもとへ、ゴードンが挨拶に向かった。ゴードンはスホルト難民の暫定的なリーダーになった。男性的な髭をたっぷり蓄えた屈強なドワーフたちに囲まれていたも、ゴードンの分厚い肉体は彼らに見劣りしなかった。アイルはそのことを誇らしく思った。
ジェイがアイル達のもとへやってきた。
「おい」彼は言った。「ご近所さんみたいだな」
「おっす」アイルは言った。「ずいぶん大荷物だな」
「ああ、先に避難したおばちゃん達が、商人に頼んで家具とか買い付けてもらったんだと」
「もうか?随分手際いいな?」アベルが訊いた。
「他には大工道具とか膠とかだな。あと木材を買い付けた」
「木なんてそのへんに生えてるの勝手に使っちゃえばいいんじゃないの?」アベルが言った。
「それはだめでしょ。ああいうのは包囲されたときに薪に使ったり緊急時の建築資材に使ったりするんだ」
「へぇえ」アベルが返事をした。
三人はそのままぼんやりと座っていた。奥の遺跡から金槌で何かを打ち付ける音が響いてきた。見ると、ドワーフ達はまず遺跡の外壁をハンマーでまんべんなく叩いていた。遺跡がどれだけ建築物として劣化しているのか反響音で確かめているらしい。ドワーフらしい念入りなやり方だった。スホルト村の人間やエルフたちは、ドワーフに遺跡を調べて貰う代わりに、彼らの3日分の食料を用意することになった。
「トグマは家の補修手伝わなくていいのか?」アイルは金槌が響いてくる遺跡の方角を指差しながら言った。
「俺はああいうのはやらない。戦士だからな」トグマは応えた。アイルは笑い、特に追求しなかった。
エルフとドワーフとスホルトの人間とは、皆で食事をすることになった。
アイルたちは、市街地に鍋を買いに行かされた。彼らは三人がかりでえいさえいさと坂を登り大鍋を運んできた。
女衆は焚き木を集め火を起こし、大鍋を火の上に乗せた。そしていつもの手順で粥を煮炊き出した。アイルや他の若い人間は、斜面に上りきのこや山菜などを集めた。鍋にはその他には村から持ってきた干し肉が刻まれ入れられた。あり合わせの即席の粥だったが、彼らは昨日から何も食べていなかったので、勢いよく粥をかきこんだ。
「うおーいナマズとってきたぞうい」斜面の下から声が聞こえた。見ると漁師のゲルとその息子のシバが魚かごを下げて道を上ってきた。
「もう釣りにいってきたんだ」アイルが聞いた。
「おうよ、城門では兵士に色々文句垂れられちまったがな。まだ外は危険だから出るなってな。」
ナマズはぶつ切りにして煮炊きにされた。薄い塩味の煮汁はナマズの脂がぽつぽつと浮いていて、香ばしい出汁が効いてうまかった。ナマズのやわらかい脂身は胃袋に染み渡った。
ふと気づくと、一人のエルフの小さな少年が指を皿に入れて魚の身をいじっていた。彼は箸がうまく使えないようだった。年の頃は5歳ぐらいだろうか、綿毛のように細い金髪が風にそよそよと揺れていた。
「ちょっと貸して」ネネがそう言うと、彼女は少年の皿を取った。そして箸で身を骨から外すと、少年の口に運んだ。
「おいしい?」彼女は訊いた。少年はうなずいた。
「あんたらあの家で寝るのはまだ危ないから、今夜はテントで寝なさいよ」村長の奥方がそういった。彼らは男女に別れ、四つのテントにすし詰めになって眠った。
やがて日が沈み夜になった。
アイルは疲れて早いうちから天幕に入って寝ていたのだが、夜中に誰かから体を揺すられて起こされた。
彼が体を興すと、テントの入口が開いていた。
彼が外に出ると、中洲で戦った仲間たちが、みな焚き火を囲って集まっていた。
「よう!」髪を逆立てた少年が声をかけた。確か彼の名前はトグマと言ったか。
「よう」アイルは返事をした。「どうしたのよ。こんなところに集まって」
「俺たちもこの近所に住むことになったんだよで。でちょっと話でもどうかと思ってさ」トグマは言った。「おまえ団長の話聞いてるか?」
「話って?」
「お前、ぶっ刺されて寝てたからな~。死んじまうかとおもったぜ。すんげー美人さんがお前の胸に突っ伏して泣いてたよ。まあ話っていうのは、魔力のことなんだがな」
「ああ」
「とりあえず一週間はなにもしないで休息しろってさ。体を鍛えるのもやめとけと。中洲で手に入れた魔力は、本来の俺たちの力でないってさ」
「なるほど」
「あれは一生分貯めた込んだ魔力を一気に吐き出しただけなんあと。本来の俺たちは、あれの百分の一も魔力は持ってないらしい。実際、今俺達のまわりに魔力が見えるか?」
「いやなにも。俺もオークと戦ってる最中に気づいたんだよ、あ、これ魔力が切れかかってるのかなって」
「まあとにかくあれは本来の俺達じゃなかった。そして、詳しくはわからないけど魔力の形質も俺たちのものじゃないらしい。団長に剣で肩を触れられたの、覚えてるだろ」
「ああ」
「あれって騎士の叙任式のときにやるやつだと思うんだけど、要するにあれで団長の魔力を授かって俺たちは覚醒したってことらしい。今の俺たちの魔力は団長の魔力とで混ざり物になってるんだと」
「なるほど」
「だから団長の魔力が抜けきるまでは何もするなってさ。まあ団長の話はこんなところだ」
「わかった」
「ところでさ、お前パルパットから来たんだって?」
「ああ。下流のスホルトっていう村出身だけどね。城が襲われた時はパルパットにいたよ」
「そんときの話聞かせてくれないか?」
アイルは話し始めた。話の途中でテオがチラチラと目線を送ってきたが、言われるまでもなくアマンダの秘密には触れなかった。
「辺境伯は、死んだのか……」男が言った。彼も中洲で合流した人間で、確かデインと言った。「俺たちは騎士団に所属しているが、何も知らされてない。多分、士気に係るからだろうが……」
「他に聞きたいことはあるか?」アイルは訊いた。
「あるぜ」トグマが言った。「あの赤い髪の女、一体何者だ?」
アイルは答えなかった。
「俺は昨日魔法を覚えたばかりだがな、あれがとんでもねえバケモンだってことはわかる。なにせ団長のオーラよりも強力だったからな」
「さあな」アイルはなんと答えるか迷った。「俺たちは川を下る途中で合流しただけだ」
「辺境伯の娘じゃないかと思うんだが」カイが言った。「辺境伯の娘さんは、きれいな赤い髪をしてるときいたことがある」
「ちょっといいですか?」金髪に青い帽子を被った女が答えた。確か名前はセーラだった。「あまり詮索しないほうがよろしいのでは?こういう情勢ですし、高貴な方は身分を隠していたいかもしれません」
「その通りよ。我々はその問題に関わるべきじゃない」テオが言った。「私達の身の安全のためにも」
「だけどよ、知りてえんだ」
「何を」
「何で俺たちがこの戦争に巻き込まれたのかだ。なんでダグラスが死ぬことになったのか……」
「それがアマンダのせいだっていうのはおかしいよ。攻めてきたのはオークの方なんだから」アリアが声を上げた。
「馬鹿……」テオが額に手を当て、頭を抱えた。
「アマンダ。やっぱり辺境伯の娘なんだな。名前聞いても答えてくれなかったんだよ。別にそいつが一緒に逃げて来てることは何もおかしくないと思うんだが、なぜ隠すんだ?」
「身分が高いからだろ。何もおかしくはない」
「だが……」
「だが?」
「……俺は孤児院の出なんだが」トグマが一息つき、続けた。「一週間前、つまり敵さんがパルパットを攻める二日前に、向こうから子供が避難してきたんだ。別に前線基地から子供が送られてくることは普通のことだとは思う。あそこはずっとオークとやり合ってる前哨基地だったからな。そんなわけで、孤児院がそいつらの面倒見てたんだが……」
「それで?」
「だがその二日後にパルパットが包囲されたわけだろ。つまり軍は敵の動きを察知してたわけだ。じゃあなんでそもそもアマンダも一緒に避難させないんだ?確かもう一人小人の付き人もいたな」
「シリカだ」カイが言った。
「そう、シリカ。なんで二人はパルパットに留まったんだ?」
「そんなの俺が知るわけ無いだろ。何が言いたいんだ?」
「アマンダは囮だったんじゃないかと思うんだが」
「囮?」
「ここの門にたどり着いた時、やつらは明らかにアマンダを狙っていた。団長もアマンダを守れと叫んでた。敵の狙いはアマンダだったんじゃないのか?」
「……なんのための囮だよ」
「知らねえ。多分売国奴が誰かあぶり出したかったんだと思う」
「……」
「どっちにしろ、オークが攻めてくることを軍は察知してたはずなんだ。その過程で何も知らない国民が犠牲になった」
「お前が言ったことが事実だったとして、お前は何をどうするつもりなんだ?」
「もし国が国民を見殺しにするんなら、俺は義勇兵団なんかに入らねえよ」
「もう入っちまってるだろ。そんな自己判断で出たり入ったりできるわけねえって」
「俺はこんなのが正義だと認めねえよ?」
トグマは踵を返した。アイルたちは、斜面を登っていく彼の背中を見ていた。
突然、トグマが膝から崩れ落ちた。そして地面に伏せたまま動かなくなった。
「トグマ!」カイが叫び、彼の元へ走った。みなもカイに続いた。
カイがトグマを仰向けにひっくり返した。
トグマは窒息していた。
彼は眼球を剥き、爪を立てて首を掻きむしった。彼の喉仏を一周する黒い線が、鉄線のように彼の首に食い込み締め上げていた。
「トグマ!」カイは叫び、その黒い線を爪先でつまもうとした。しかしそれは、入れ墨のように皮膚に食い込んだ線だった。それをつまみ上げ、糸のようにほどくことは不可能だ。
「すまんがどいてくれるか」突如彼らの背後から声がかけられた。
そこには老人がいた。それは中洲で団長とともにいた、年齢不詳のカエル顔の老人だった。
彼は手を伸ばし、トグマの首を指先で触った。
途端に黒い糸は緩んだ。トグマは地面に膝を付き、腹を抱えて嘔吐した。
「君の義勇兵を抜けるという考え、今すぐ撤回したまえ」老人が言った。
トグマは首を振った。
再び黒い糸が締まった。老人は再びとグマの首に触り、黒い糸は緩んだ
「まだ反抗するか。なかなか気骨があるようだな。気に入った」老人は言った。「きみには特別に国家の内情を話してやろう。そうすれば一旦は納得するはずだ」
老人はそう言い、アイルたちの方に顔を上げ、続けた。
「君たちにも訓練が終われば事情を話すだろう。いまは納得いかないことがあっても飲み込んでくれ。ひとつ言っておく」老人は一呼吸おき、続けた。「この国は正義だ。だが一点の曇もないわけじゃない。大業をなすためには、犠牲を求められることもある。その犠牲のもっともたるものが義勇兵だ……」




