7 川が満ちる
アイルたちは夜の間中、休むことなく川を下った。男たちが疲れて休んでいる間は、女が交代して船を進めた。そうしているうちに、やがて夜は明けていった。
アイルは何度目かの交代のあと、疲労困憊で小舟の底にへたり込んだ。彼はそのままぼうっと川の豊饒な流れを眺めていた。
オルド川の川幅は段々と広くなり、さらなる大河であるラインベルクへ合流した。そうすると、川の流れはより緩やかになった。大河の水深は深く、水は濃い緑色をしていた。
ローラント北部を東から西へ走るラインベルクは、幾万もの支流に支えられ巨大な水量を保っていた。川幅は上流域のここでもすでに六百ヤードを越えていた。向こう岸も、南側と同じく濃い森に覆われていた。
アイルたちはラインベルクをしばらく進んだあと、船の向きを変え支流の一つに入った。そして藪のなかに船を隠し、一旦陸地に上がった。
「食料をとりに行ってくる」アイルはそう言い、森の中に入った。半日ぶりの硬い地面の感触を確かめつつ、彼は山の斜面を駆けていった。彼は狩猟小屋に向かったのだ。狩猟小屋はスホルト村の狩り場の西端に位置し、猟師たちは普段は今いる支流より西側に出ることはなかった。狩猟小屋には食料や酒の備品が残っているはずだった。
アイルは湿ったシダが腰の高さまで生い茂る山の斜面をかき分けて進んだ。太いアカマツの幹が背の高さまで緑に苔むしていた。やがて木々が開け、その奥にぽつんと立つ狩猟小屋が見えた。しかし、アイルは一目見て、小屋の異変に気づいた。
小屋の錠が壊されて、地面に散らばっていたのだ。アイルは歩を緩めずに方向転換し、森の中を迂回して小屋の反対側に回り込んだ。ついで足を忍ばせて、小屋の壁に張り付き耳を立てた。
小屋の中から、か細い女の声が聞こえてきた。
「ここの食料は全て持っていきましょう」低い女の声が響いた。
「え、全部持っていくの?残しておかないと、あとから来た人が困るんじゃない?……」今度は甲高い娘の声が響いた。
「戦線はすでにここを通り過ぎています。残しておいても、そのうち腐ってゆくだけですよ」
「だけど、まだ逃げ遅れた人がいて、必要とするかもしれないわ」
「いたとしても、スホルトの人間しかこの小屋を知らないはずですよ。敵は東から攻めてきているのだから、スホルトは既に占領された可能性が高いでしょう」
「……ごめんなさい、スホルトってなんでしたっけ?」
「父君の話を聞いてなかったのですか。ここからパルパットまでの中間にある小さな村ですよ。あなたは下界に降りたことがないから知らないでしょうけど、スホルトの村長はかつてかなり高名な魔術師だったのです。あなたのお父様も弟弟子としていくつか魔術を授かったそうですよ」
「そんなに高名な人が守ってるんだから、村人はまだ生き残ってるかも」
「それはありえません。希望的観測は捨てましょう。スホルトは全滅したと考えるべきです。さあ、この干し肉を全部詰めて」
「うん……あれ、これってきのこかしら?初めて実物をみたわ」
「乾燥きのこみたいですね。それも全部持っていきましょう」
「かなりの量があるけど……あれ、この魚は何?」
「さあなんでしょうね。あなた分かる?」
「これはタラですね」今度は若い男の声が答えた。
「タラ?」
「タラは海の魚ですよ」
「海の魚が、なんでここにあるの?」
「干物ですし、普通に船で運ばれてくるのでは?ネーヴェにもたくさん海産物は売っていますよ」
「へえ……でも下流って滝があるんじゃなかったっけ?船で滝はどうやって登るの?」
「滝の上と下に港があるのです。駅馬車のようにそこで乗り継ぐのですね。下流のリンデンシュタットという街がそうですよ。聞いたことありませんか」
「ごめんなさい、外の世界のこと、全然しらないわ」
小屋の中で、三人が立ち上がる音がした。アイルは静かに短剣を抜き、扉の真横に背中を貼り付けて待った。
アイルは若い方の娘を人質に取りたかった。おそらく三人のなかで最も地位が高く、最も知能が低い。
扉が開け放たれ、先に女が出てきた。女の長いマリーゴールドの髪が木漏れ日の朝日を浴びて一瞬まぶしく輝いた。
アイルはその白い細首に腕を伸ばすと、一気に扉から引き放し、喉元にナイフを突き立てた。
「きゃ」
女は短く甲高い悲鳴を上げた。
「そこから動くな」アイルは小屋から距離を取りながら言った。
男はすでに腰の細剣を抜き放ち、小屋から出て大股でアイルとの距離を詰めてきた。
「おまえ達は何者だ」アイルは後ろ足で下がりながら言った。アイルは男の顔を見て驚いた。側頭部から長く尖った耳が突き出ていたのだ。こいつらはエルフだ。見ればアイルが今つかんでいる女の頭からも橙色の髪の毛から長い耳が突き出ていた。
「小屋から出るな。もう一人の女もだ!」アイルは叫んだ。「返事をしろ!」
しかし、男はアイルを無視してさらに距離を詰めてきた。アイルが首を曲げ小屋の中の様子を覗くと、その中はすでに空になっていた。いつ脱出したのだろうか。脱出したのだとしたら、森を回り込んで襲ってくるか?
アイルは方向を曲げ、小屋からも周りの木々からもさらに距離を取った。
「お前たちはどこから来た!」
男はなおも無言で距離を詰めた。
アイルは女の細首にナイフの先を突き立てた。一滴の赤い血が細かい金の産毛に覆われた女の細い首を滴り落ち、赤い玉を作った。
男はようやく歩を止めた。
「リッテンベルク。ここから北の砦だ!」
「なんだと?……そんな砦があるなんて聞いたことはないな。お前の名前は」
「アベルだ」
「ここで何をしている?」
「……我々はブリスコーへ向かう途中だ。君はこの狩猟小屋の持ち主か?だったら、勝手に使って悪かったな」
「なぜブリスコーへ向かう」
「砦が魔物に襲撃されたので逃げている。ブリスコーが避難場所だと言われてる」
「スホルトを知っているようだな。村と何か関係があるのか」
「僕たちはスホルトの人間と情報交換をしている」
「なんの情報交換だ?」
「魔物の活動場所とか、その年の赤竜の飛翔範囲とかだ」
「そんな話は聞いたことがないな」
「南部連隊の一部とあんたの村の上役しか知らないんじゃないか」
「なぜ隠す」
「僕たちは隠れて住んでる」
「なぜ」
「存在を知られていなければ、厄介者に襲撃されることなどない」
「今の話の証拠は?」
「あんたのダマスカスナイフが証拠だ」
「ほう?」
「エルフがダマスカスの作刀技術を南部連隊に渡したんだ。この地域全体の治安維持のためにね。柄の持ち手の装飾を見ろ」
アイルは男の細剣の柄をと自分のナイフの柄とを見比べた。たしかに2つの金細工は同じ美術様式のようだった。
アイルは娘を離した。娘は振り向いた。そこに一風変わった表情があった。そこにあったのは怒りなどではなく、むしろ好奇心とでも呼ぶような表情だった。
そしてなぜか、彼女はアイルに小さく一歩近づいた。
娘は美しかった。ターコイズブルーの大きな瞳がアイルを見つめていた。
無防備な女だ。
アベルが少女の胸に手をかけ、引き寄せた。そして抜身の刀身をゆらゆらとまたたかせ、アイルを再び睨みつけた。
アイルはため息を付き、両手を掲げて言った。
「悪かった。今の話は全部信じよう。俺はスホルトの人間だが、俺たちも魔物に襲撃されて逃げてきた。今はブリスコーへ向かっている最中だ。俺たちは船を持ってるし、道もわかる。一緒に来るか?」
「行く」娘が即答した。「私の名前はアリア。もうひとりいた女の子はテオよ。よろしくね」
「ああ。俺はアイルだ」
アイルはそう言い、二人とすれ違って再び小屋に入った。すれ違いざま、アベルの持つ細剣の刀身が少し揺らいだが、アイルは無視した。彼が小屋の扉をくぐると、後ろで彼が剣を鞘に納める音がした。
彼は小屋に入ると、床板の境目に指を引っ掛けて引っ剥がした。床の下にはまだ四つの荷袋があり、アイルはそれを全て取り出してエルフ達に持たせた。そして自分は棚から薬壺と竹の釣り竿を取り出した。
三人は連れ立って森の斜面を降りていった。川岸の藪に入りしばらく進むと、葦の隙間から小舟が見えた。
小舟の縁に長剣を抜いた女が立っていた。女は遠くからアイルを睨んでいた。
女の長剣はアマンダの首元に寝かされていた。アマンダは泣きそうな目で、やってくるアイルを見つめていた。
「ナ!カ!マ!だ!よ!」アリアが森に響く大声で叫んだ。
その女は遠くからみてもわかるほど大きなため息を付き、剣を鞘に収めた。
そのエルフはテオと名乗った。彼女は細い金髪をサイドテールに結った、つり目の凛とした女性だった。
アイル達は船に乗り込んだが、それは九人が乗るには手狭だった。テオとルイは船尾に座り、船べりに腰かけた。積載量としてはほとんどギリギリだろうか、船べりは水面にどっぷりと沈んでいた。
アイルはバランスを崩さないよう葦際から慎重に船を押し出した。
船は岸を離れ、さざ波を川面に立てて進みだした。
「あなたの傷を見せて」
テオはルイに言った。彼女はルイの右腕の包帯を外し、その傷口を検分した。
野犬の牙に穿たれた2つの穴は黒く化膿し、少なからぬ異臭を放っていた。
テオは荷袋からガラス管のような物を取り出した。その透明な管の底には緑色の液体が入っていた。
彼女は栓を抜き、ルイの傷口に液体を注いだ。
「いっ!」ルイはそういってピクリと全身を震わせた。
「しみる?」テオが訊いた。
「ああ」
「じゃあ我慢して。痛いっていうことは薬が効いてるってことよ」
「ああ……」ルイはしばらく苦悶の表情を浮かべた後、言った。「ありがとう」
「別に。あまり動かさないで」テオは無感情にそう言った。
やがて船が支流の流れの中に入ると、彼は船首を支流の上流へと向けた。
「ちょっと、どこへ向かう気?」テオが聞いた。
「もう川にはオーク達が侵入している。昼のうちは動けないだろう」アイルが答えた。「それに昼間に堂々と船なんか浮かべると、山の上から赤竜に見つかるからな。だから川を下るのは夜中にしたい」
「そういうことなら、わかったわ」テオが言った。
「そいえば昨日この支流の出口に帆船が浮かんでたんだけど、見たか?」アベルが訊ねた。
「いや、俺達は見ていないな」アイルは短く答えた。
「ってことはあの帆船はオーク達のものかな」アベルがひとりごちた。
「どんな帆船だったんだ?」アイルが訊いた。
「いわゆる竜帆船っていうやつだと思う」
「竜帆船?」
「船尾に竜の羽が提げてある船だ。竜の羽で船にかかる風向をコントロールするらしい。知らないか?」
「いや、おれもそんな船は知らないな」アイルは答えた。
「となると、やっぱりあれは魔物の船かな。だとすると腑に落ちないな。どうやってあんな船を魔物は用意できたのか……」
「俺はてっきり、オークはウルゴーンを越えてきたものだとばかり思っていたが、違うのか?」
「僕もそう思っていたけど、それなら船なんか持ってるのはおかしいじゃないか」
「そんなことは、俺に言われてもわからないな。俺はただの猟師だから。外の世界のことも、まったく知らないしな」
アベルは口元に手を当てて何か考え事をはじめた。しばらく船上に沈黙が流れた後、テオが口を開いた
「あなたのこと、知ってるわ」彼女はアマンダに向かって言った。「辺境伯の娘。そうじゃない?」
「辺境伯の娘?つまり……」アベルが反応した。
「貴族よ」テオが継いだ。「あなたのことは遠くから見たことがあるわ……その赤い髪もよく覚えてる」
「それを知っててよく剣を向けられたもんだな」アイルが言った。
「私の王じゃないもの」テオが言い返した。「……でも確かに不敬だったわね。謝罪するわ。でも私には、他人の王より守らなければならないものがあるのよ」
「謝罪は受け入れます」アマンダは言った。「こういう状況で不和を起こすつもりはありません。私たちの命は一蓮托生ですから」
彼らは支流を少し遡り、川に張り出した木の枝の中に小舟を隠して陸地に上がった。少し岸の斜面を登ると、そこからはラインベルクの本流が直接視認できた。
斜面は緑の草むらからあちこちで石灰岩が突き出しているカルスト地形だった。アイルたちはそのうちの一つの岩陰に隠れ、車座になって腰を下ろした。
「ねえ……ここってもう安全なの?」アリアが言った。
「スノウマンのことなら安心よ。やつらは生身じゃ川を渡れないし、船を使う知能もないから」テオが言った。
「雪男に追われているのか?」アイルが訊いた。
「ええ。でも多分もう撒いたわ……」
「まあ、この暑さだし。多分ここまでは降りてこないんじゃないか」アイルは言った。「ところであらためて言うが、俺たちはスホルトから逃げてきた。今はブリスコーに向かって川を下っている途中だ。ここらの地理にはそれなりに詳しいつもりだ。そっちは?」
テオが答えた。「私達は山脈の奥にある砦から来たわ。二日前に魔物の軍隊に砦が襲撃されたの。私たちは本体と分かれて川を下ってる。目的地は同じくブリスコーよ」
「山奥って、この川の上流か?リッテンベルクとか言ってたが」アイルが訊いた。
「リッテンベルクってなに?」アリアが口をはさんだ。テオとアベルは、ふたり揃ってアリアを見つめ、そしてふたり揃って大きくため息を吐いた。
「リッテンベルクっていう名前はね、煙幕よ。ほんとは砦に名前なんてついてないわ」テオが答えた。
「あ~なるほどね。課税逃れか」アイルが言った。
「あ・の・ね、あたしたちはエルフよ。そんな低俗な理由で隠れて住んでるんじゃない」
「へえ。じゃあなんでさ?」
「私たちはここからもっと東の土地から、訳あって移住してきたのよ。あたしたちの血族は3千年の歴史がある。たとえロキの血を継ぐ王族が相手でも、へりくだるわけにはいかないわ」
「でもこれからブリスコーに逃げるんだろ?」
「それはそれよ」
「随分都合のいいことで」アイルは苦笑いした。
「なあ。君たちはそんな山奥に住んでいて、赤竜に襲われたりしないのか?」ルイが横から聞いた。
「千年前に王が描いた魔法陣が、私達を守ってくれているのよ。私は詳しいことは知らないけど」
「へえ。俺らんところにも魔方陣はあるけど、龍が降りてくる度にバリスタ打ち込んだり銃を射ったりで村中てんやわんやだけどなあ」
「そうだな。まあ、なにはともあれ、とりあえず飯にしよう」アイルが言った。
アイルは荷袋を漁り干し肉を取り出すと皆に配った。肉はかなり湿気っていたが、贅沢は言えなかった。アイルは革袋をルイに放り投げて言った。「それに水汲んできて」
「待って。火を起こすつもり?」
「ああ。少しの間だけな」
「ちょっと待って」テオはそう言い、ルイから皮袋を受け取った。そして袋の口を開けて地面に置き、その穂口の上で両手の指を組んだ。
テオは口中で静かに呪文を唱えはじめた。みなテオの方を向き、注視していた。
「öum el jackt el dhash…… 」アイルの耳には聞き取れない異国の言葉が響いた。
やがて彼女の両手の中に小さな氷の塊が現れ、それは段々と大きくなり、一本の長いつららが形成された。彼女はつららをボキボキと折って皮袋の中に入れた。
「魔力が雲散すればすぐ溶けるわ。生水と違って安全よ」
「へえ、すごいもんだな」ルイは言った。
しばらく待った後、彼らは皆で革袋をまわして水を飲んだ。アイルは徹夜の船漕ぎの疲れがたまり眠気を感じたので、草むらに横たわり眠った。
アイルは体を揺すられてぼんやりと眠りから覚めた。
エルザの顔が彼の目の前にあった。彼女の橙色の髪が青空を背に透けて美しく光り輝いていた。彼女はなにか切迫した表情で叫んでいた。
「……きて……起きて!」アイルは体を起こし目をこすった。まだ頭に霞がかかり、言葉が頭に入ってこなかった。「起きて!!!ナグルが……」
「……ナグル?……なんだそれは?」
アリアは空を指さして言った。「ワイバーンが来てる!!!」
アイルは飛び起きた。そしてアリアの指差す方向を見た。空気の澄んだ高度地帯特有のコントラストの激しい空の青と雲の白の間に、小さな黒い凝固点が一つ油滴のように浮かんでいた。やがて遠くに見える胡椒粒のようなそれが、翼を広げ滑空姿勢をとるのが見えた。
その龍の両の翼は等しく左右対称に開いていた。そして尾が体の影に隠れて見えない。それが意味するところは、こちらに向けてまっすぐ滑空しているということだ。
みな既に荷物を抱え慌ただしく動いていた。アイルは皆に続いて坂を駆け下り、斜面の下にある林の中に逃げ込んだ。
彼は振り返って梢の隙間からワイバーンを見た。高標高地帯特有の青黒い空のグラデーションの中をまっすぐ突き進んで、翼を大きく広げたワイバーンが滑空してきた。
「もっと奥へ入れ!そこじゃ焼き殺される!!」アイルは叫んだ。九人は薮をかき分け高い木立の中に入ると、身を低くして隠れた。
皆息を詰めた。そしてなにかが起こる瞬間を待った。
しかし、ワイバーンは風切り音を上げてアイル達の頭上を通り過ぎた。やがて遠くに翼を大きく羽ばたかせる音が二度響いた。
「みんなはここで待ってろ」アイルはそう言うと、林の藪を突っ切り、川面に面した木の隙間から顔を出した。
竜は川の上流に向かって右に進路を変えた。その先には、大きな帆船が浮かんでいた。
竜帆船だ。その船尾に取り付けられた竜の羽は風を受けるため左右に大きく開かれていた。
竜は水面ギリギリまで下降し船に向かって一直線に滑空すると、灼熱の光を放つ炎のブレスを船体に向けて浴びせかけた。
船は一瞬のうちに燃え上がった。船上で黒い影が右往左往し、川面にいくつもの人影が飛び込むのが見えた。
龍は空高く舞い上がると、反転し、今度は上空から炎の息を撒き散らした。
その船のあらゆるすべてが燃え上がっていた。次の瞬間、船は黄色い閃光を上げ爆発した。一瞬の閃光ののち、水面を駆け巡る衝撃波がアイルの耳の穴を打地鳴らした。
船の甲板が木っ端微塵に吹き飛んだ。
背後で木の枝がガサガサと揺れる音がした。アイルが顔を軽く横に向けると、アベルが藪をかき分けアイルの隣までやってきていた。
「あいつら馬鹿だな。こんな真っ昼間に、堂々と竜の翼なんて見せびらかしながら川を渡ってたら、襲撃されるにきまってる」アイルは言った。
「……あの船ってどこから来たものだと思う?」アベルが聞いた。
「俺にわかるわけない。多分上流のどこかじゃないか?」
「となると、人間とオークが手を組んでるとか?」
「俺にはわからないよ」アイルは答えた。「ただ例えば協力者が東夷なら、ロードランと戦争を起こすためにオークと組むことはありうるんじゃないか」
二人はしばらくそのまま燃え上がる船を眺めていた。やがて黒焦げになったマストは自重を支えきれなくなり、船体の上に崩れ落ちた。船はその衝撃で大きく船体を横倒しにし、やがて水の侵入を許した船はゆっくりと川の中に沈んでいった。
彼らはそのあともしばらく川を眺めていた。しばらくすると、もとは船の構成部品だった焦げた木材が川に浮かんで流れたきた。
アイル達はしばらく船の残骸を目で追った。そして、彼らは上流から流れてくる奇妙な物体に目を留めた。
破壊された船体の部品がそこかしこに流されてくる中で、その物体はそれらのものとは質感が違った。
アイル達は立ち上がり、身を乗り出して、それが何なのか確かめようとした。
それは、人の頭だった。ほとんど白に近い金髪をかぶった人間の後頭部が、水面に浮かんで流れてきたのだった。頭部は水面につかり、その両手は後ろ手に縄で縛りつけられていた。
アイルはためらわず川に飛び込むと、彼女に追いついた。そしてその体を掴んだ。
アイルは間近に彼女の首筋を見て、驚いた。それは褐色の肌を持っていたのだ。
アイルは彼女を抱えて岸まで泳いでいき、いつの間にか岸辺に集まっていた仲間たちに、陸に引き上げさせた。
アベルは急いで彼女を仰向けにすると、両手を組みその胸を全力で何度も何度も押し込んだ。
やがて彼女は水を吐き息を吹き返した。女は顔を背けながらせき込み、うっすらとその目を開いた。
その切れ長の目の中にはオパールグリーンの瞳があった。アイルは改めて彼女の姿を観察した。
尖った耳と、褐色の肌。そして腕には白い入れ墨で何かの文様が彫ってあった。
彼女はダークエルフだ。女は再び目を閉じ、そして気を失った。
何か言いたそうな仲間たちを押えて、彼はまず言った。「みんな林の奥に入れ!まだワイバーンは近くを飛んでる……」
仲間が林の下がった後も、アイルはその場に残り、上流から人間が流れてこないか待った。しかし、しばらく時間がたつと、流れてくる船体の破片も量が少なくなり、やがて川面は何もなかったかのように静まり返っていった。
アイルは皆の元に戻った。彼らは竜が去るまでまたしばらく林の中に隠れていた。
そのうちに天気が変わり、小雨が降り出した。竜は雨を避け、山の方へと飛び去って行った。アイル達は、ゆっくりと森から這いでてきた。
アイルたちは崖沿いの斜面を登り、雨よけになり、かつ死角になる場所を探した。しばらく丘を少し上ると、彼らは小さな洞窟を見つけた。洞窟は深さ40フィートほどの小さなくぼみで、中は乾燥して清潔だった。
アイルは荷袋から布を取り出し、固く冷たい石の上にそれを広げ、その上にダークエルフをそっと寝かせた。
彼女は深くゆっくりとした呼吸をしていた。細く繊細な銀髪は片口までかかり、白く長いまつげが褐色の堀の深い顔を彩っていた。彼女の両の手首は、縄を解こうと動かしたからだろうか、激しい擦過傷でただれていた。ネネは荷袋から布を取り出し、彼女の全身をぬぐい始めた。
アイルは急激に疲労を感じ眠くなった。昼間の眠りは中断されたし、おまけに川をひと泳ぎしたのだ。彼は荷袋から自身の布を取り出すと、すぐにその上に横になった。
ルイが荷袋から干し肉を取り出し皆に配った。アイルは寝ながら口の端にそれを咥え、唾液で湿らせて柔らかくしたあと犬歯で噛みちぎった。鹿肉は塩気の利いた野趣じみた味がした。アイルは口を動かしながら言った。
「夜の暗いうちに川を下りたい。みんな今日は昼のうちに寝て体力温存してくれ」
アイルは肉を飲み込むと、体を横にずらし場所を開けた。彼の真横に、当然のことのようにルイが横に滑り込んできた。そして二人は肌をぴっちりとくっつけて布の下に並んだ。
アベルは怪訝な顔をして言った。「ええ……君たち何やってるの……」
「体を冷やさないように一緒に寝るんだよ。それが一番体力奪われるからな。お前も早く入れ」アイルは言い毛布代わりの布をはだけて体を見せた。
「いや、男同士で寝るのはちょっと、……遠慮しとくわ」
「アベル、言う通りになさい」テオが命じた。
ネネはスカートの埃を払った後、ダークエルフの隣に横になった。ララはその反対側から挟み込んだ。アマンダはエルフ達二人と同じ毛布にくるまった。
アイルは体を起こしてテオを見た。女達はすでに肩を寄せて毛布にくるまっていた。女はこういうことに抵抗は少ないのだろう。
このエルフ三人は一体どういう関係なのだろうとアイルは思った。いつの間にかテオは敬語を使わなくなっていた。おそらく最初はアリアの身分を隠したかったのだろう。想像だが、アリアが上級貴族でこの二人はお付きの護衛か何かだろう。
アベルは嫌々アイルの隣に入り込んだ。アイルはアベルの体に毛布をかけた。
「……この布、なんだか温かいな」アベルが言った。
「石綿っていうんだよ。繊維みたいにほぐれる石があって、それをフェルトにしてあるんだ」
「へぇ」アベルは生返事した。
「この布って火をかぶっても燃えないんだぜ。だから火浣布とも呼ばれてるんだ。エルフなのに知らないのか?」
「知らないな。俺たちは千年間山奥に引きこもって、ほとんど誰とも交流はなかったから……」
「アベル。あんまり私たちのこと喋らないでね」テオが毛布越しに言った。
「俺は別に詮索してるわけじゃないよ」アイルは言った。「ただの世間話じゃない」
テオは答えなかった。
「なあ、お前たちってこの川の上流から来たんだろ。あのワイバーンをどうやって避けてるんだ?確か魔方陣があるとか言ってたな」
アベルはテオの方を振り向き、喋っていいかという顔をした。テオはため息をついた。「なんでそんなこと知りたいの?」
「後学のため知りたい」
「……ダヴィデの防御円よ」
「それってダヴィデの防御陣とおなじものだよな?六芒星を円で囲ってある……」
「ええ、それならおなじものよ」
「俺たちの村にも防御陣はあるけど、しょっちゅうドラゴンに襲撃されるけどなあ」
「それはたぶん、標高が関係あるんだと思う」
「標高?」
「防御円は、物理攻撃に対しては脆弱だけど、本来ならその鉛直上には魔力を一切通さない絶対的な魔力防御があるのよ」
「一切?」
「そう、一切。だけど実際には、防御円の上には空気が広がっている。そして矢の速度が空気の力で減衰するように、防御円の力も空気に触れて減衰していくのよ。標高が高い場所では、空気が薄いから、この減衰が緩やかになる」
「なるほど」
「そして一定高度を越えると、今度は竜の飛翔限界を超える。これによって、高度地帯では防御円は竜に対して無敵に近い防御力があるのよ」
「へえ」
「本来、ダヴィデの防御円は天候不順ですぐに結界が破れるっていう弱点があるけど、ウルゴーンに住んでいるのは火竜でしょう?雨や雪が降ると、あいつらは巣穴に引きこもっちゃうから……」
「なるほどな、それで火竜に対しては無敵なのか。とすると、俺たちは逆に、山脈の奥に住んじゃった方が安全なのか?」
「けど人間にとって、雪山で暮らすなんて酷じゃない?エルフでも凍死するぐらい寒いけど」
「あ~確かに。寒すぎるのはつらいかもね」
「食べるものもないし」
「なるほどね。エルフは苔を食うって聞くね」
「イシクラゲとかね。人間はこれ食べてるって言うとドン引きするらしいけど」
「確かにドン引きだわ」アイルは笑った。
「けどあなた、こんなこと聞いて、どうする気?」
「ああ、村に戻ったときのために、参考にしたいとおもってね」
「戻るって、どうやって?」
「どうもなにも、戦って村を取り戻すつもりだ」
「戦うって、騎士団にでも入るつもり?」
「騎士団か、徴募兵か。義勇兵か、冒険者か。あるいは傭兵か。なんでもさ」
「そう、立派ね……」テオは短くそういうと、再び布を頭からかぶった。
「みんな聞いてくれ。これからのことを話す」アイルは言った。「このあと、船でブリスコーへ向かうが、その前に、ルアンという村に寄りたい。さっき言った、石綿の鉱山がある場所だ。もう避難はしてるとは思うけど、念のためオークについて警告して、できれば避難も手伝うつもりだ」
「人助けなんかしてる余裕、あるかしら」テオが毛布の下から反論した。
「友達がいるんだよ。どうしても寄りたい」
「さっきも話したけど、昨日の夜にこの支流の出口に帆船が停泊してたわ。だからラインベルクはもうとっくにオークの支配下にあるはずよ」
「そうかもね。だが下流が全部そうなってるかは分からない。もしルアンが敵に支配されてどうしようもない場合は、そのときはルアンは諦めてブリスコーに進む。それでいいか?」
「分かったわ」
「アリア、あんたはそれでいいか?」アイルが訊いた。
「え?うん、いいわよ」アリアは答えた。
「なんでアリアに聞いて俺に聞かないんだ?」アベルが抗議した。
「ああごめん。だってお前三人の中じゃ一番下っ端だろ」アイルが言った。
「なんでそう思うんだ?」
「別に、態度見てればなんとなくわかるよ。多分アリアはお前たちの貴族かなんかなんだろ」
アベルは毛布の中でびくりと体をこわばらせた。テオは毛布をはねのけ、アイルを睨みつけた。
「何を根拠にそう思うの?」
「あ、やっぱりそうなんだな」
「鎌かけなの?ふざけないで。小屋の会話を盗み聞きしたのね」
「あたしも、二人の会話を聞いてて、なんとなくアリアちゃんは偉い人なのかな、とは思ったけど……」ネネが隣から口を挟んだ。
テオは横目でネネを睨んだ。「あたし、何か口を滑らしたかしら?」
「まあ、会話の端にちょっとだけ。ほかには、アリアちゃんの仕草とか、話してる感じとかでなんとなくそう思ったの。あとは顔かな?すごい美人だから……」
「顔?」テオは眉間にしわを寄せた。
「そう、顔。なんとなく高貴なお顔をしてるな、と……」ネネは答えた
アイルは、アリアの地位を示唆する会話があったか、記憶を探したが見つからなかった。恐らくアイルが眠っている短い間の会話で何かあったのだろう。
テオは、「はあっ」と大きなため息を吐くと、今度こそ頭から毛布をかぶり、起きてこなかった
「あたしってそんなに美人なの?」アリアが言った。
「ええ、とってもかわいいわよ」ネネが言った。
「やっぱりぃ?私もしょっちゅう鏡みながらあたしって美人じゃないかって思ってたのよ~」
二人は笑いあった。アイルは二人に向かって口を開いた。
「悪い。散々俺が話振っといてあれだけど、もう寝たいから……」
女二人は、くすくす笑いながら静かになった。
アイルは、みたび強い睡魔に襲われた。彼は毛布に顎まで潜り、強く目をつぶって眠りに落ちて言った。




