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6 下界へ向かう王女

ーアイルがスホルトを再び発つ二日前ー


 晩夏の砦の城壁に粉雪が薄く降り積もっていた。

 氷河の侵食が形作った急峻な台地の隠れた谷間にその砦は立っていた。ウルゴーン山脈の巨大な峰の中腹に立てられたその砦の城壁のさらに奥には、真夏の太陽の日差しにも溶けることのない永久氷河の白銀の積雪が山々の裾一面に広がっていた。

 その砦に名前はなかった。砦が守る王国にも名前はなかった。

 この砦には千年前からエルフの集団が住み着いていた。エルフ達は、それよりもさらに十数年前に、ウルゴーン奥地の故郷の地を追われ、この地に移り住んできたのだ。

 エルフ達は外界との接触を絶った。彼らは街にも砦にも名前をつけなかった。それは呪いまじないに似た効果を発揮し、ますます地上における彼らの存在を希薄なものにした。

 彼らは外界に対してはわずかな人数の信頼できる者のみに接触した。しかし、その彼らとてエルフの住処は知らなかったのだ。

 エルフ達は階級の低いエルフの子供を選んで、下界との連絡役とし、山裾の川辺に住まわせた。そして、その連絡役に対しても、城のありかを教えなかったのだ。

 この方法でエルフたちはその存在を完全に秘匿した。こうして彼らは千年もの間戦乱を避けた。


 しかし、今、エルフ達が城門の前に集まって目の前に見ているものは、その千年の秘匿が暴かれたことを示していた。

 胸の甲冑を貫かれた血まみれの兵士が城門によりかかり臥せっていた。その血が薄く積もった雪をシャーベットのように赤く染めていた。

 その兵の名はトーンと言った。彼は僅か三日前に成人したばかりの若いエルフの兵士だった。

 彼のうつろなグレーの瞳は微動だにせずただ自らの足元を見つめていた。

 年嵩のエルフが彼の瞼に手を当て、その目を閉じてやった。

 

 雪の地面には二対の足跡が残っていた。

 一つは人間の足跡だった。したがってトーンのものだろう。

 もう一つは、人間の物ではない、巨大な魔物の足跡だった。それはトーンに追いすがり、城門の雪を踏み荒らした後、谷間の方へ戻って行った。


 エルフたちが足跡を検分していると、王が城門から出て来てこれに加わった。

「とうとうこの場所も、良からぬものに見つかってしまったのか」王は言った。

「どういたしましょう」エルフの一人が言った。

「まずこの足跡を追い攻撃者を見つける。トゥリオ、貴様が偵察にでろ。残りのものは、戦の準備にかかるのだ」

「戦の準備ですか」エルフが驚いて言った。

「左様だ」

「気が早いのでは」ほかのエルフが言った。

「外界の戦争と関係があるかもしれん」王は言い、城に引き返した。

 トゥリオはすぐに馬にまたがり出立した。わずかに積もった雪の足跡が太陽の熱で消え去る前に、急いで谷を下らなければならない。

 足跡は谷の隘路へと続いていた。

 トゥリオはしばらく馬を走らせた。彼は隘路の入り口に立っている大岩にむかった。その岩は、とぐろを巻いた蛇のように奇怪なねじくれ方をしているので、蛇岩と呼ばれていた。その岩の下で、それまで一つしかなかった足跡が、他のより大きな二つの足跡に合流していた。

 トゥリオはそこで馬を降りた。そして岩陰に身を隠しながら、谷間の隘路を進んでいった。谷間はしんとして暗く湿っていた。トゥリオが歩くと彼の足音が崖に反響した。やがて谷は開け、日が差し込み辺りは明るくなった。

 彼は、隘路の先の空に一本の細い煙が立ち上っているのを見た。彼は忍び足で歩を進め、岩陰から煙の火元を覗き込んだ。

 隘路の先は開けた場所になっていた。そこは太陽の光が降り注ぐ、比較的広い窪地だった。

 窪地に三百を超えるオーガ達が潜んでいた。

 彼らは火を囲って座っていた。彼らの周りにはいくつものテントが張られ、どこから運び込まれたのか分からない大量の荷車には糧秣や火砲が積まれていた。

 トゥリオは敵の戦力をつぶさに検分した後、急ぎ足で砦へと戻った。

 彼が道を帰る途中、急に雪が降り出した。そして谷の隘路の薄い雪の上に、彼は自らの足跡をくっきり残っしてしまった。

 斥候としてはありえないほどの失態だ。これでは侵入者がいると自ら喧伝して回っているようなものだ。千年の平和のうちに、エルフ達の間では基礎的な戦闘教養さえ失われていた。彼は夏の日差しが彼の足跡を消してくれることを願った。


 トゥリオは砦に戻ると、王に事態を報告した。

「わかった。アリアをここに呼べ」王は言った。

 しばらく後、兵に連れられて、王女とその若い護衛がやってきた。

 王女は橙色の長い髪を垂らした美しいエルフだった。彼女は年の離れた王の娘であった。そして護衛の娘は、エルフとしては珍しく彼女と年の離れていない幼なじみだった。王は護衛に向かって話しかけた。

「テオよ。よく聞け。貴様らはアリアを連れて今すぐにこの砦から脱出するのだ。まず第一に、ここからラインベルクまで山を降り、スホルトへ向かえ。そこは我が兄弟子が長を務めているがゆえ、快く歓待されるだろう。もしスホルトへ行けぬようならば、川を下りブリスコーへ向かうのだ。」

「お父様はどうなさるのですか?」アリアが言った。

「儂はここに残り戦う」王は言った。「さあ、はやく出発するのだ!」

 二人は馬小屋へ向かった。

 アリアは弓を肩に駆け、馬にまたがった。彼女が首を優しく撫でると、馬は喜んで首を振った。彼女は城を振り返った後、馬を走らせた。

 

 アリア達は山を駆け降りた。霜の落ちた高原の台地は、晩夏の太陽の放射を浴びて、ぬかるんだ茶色い土へ変わっていた。

 馬の蹄は柔らかい土を高く蹴り上げた。そして深い蹄の跡を残した。

 この様子では、敵は容易に彼女たちを追跡できるだろう。二人は道を急いた。

 やがて彼女たちは、氷河谷の左右いっぱいに広がる氷河の麓にたどり着いた。

 これ以外の道は急峻な斜面になっていた。下界へ降りるにはこの氷河を渡る必要があった。

 彼らは馬から降り、馬を引き雪の残る斜面を徒歩で進んだ。氷河の浸食によって砕かれた大きなモレーンが、茶色いシミのように純白の氷河の両岸を汚していた。

 彼女たちは氷河の上流をしばらく進み、やがて凹凸の激しい氷河の中流域に差し掛かった。

 この中流域には夏場になると大量のクレバスが口を開けた。この裂け目の形は毎年変わり、しかもそのうちいくつかは雪で上部が覆い隠され危険であった。

 二人は慎重に歩を進めた。そして幅二十フィートはある巨大なクレバスに突き当たった。このクレバスはおよそ五年前から存在していた。彼女たちは前年の記憶を頼りに氷河の右岸まで渡ったが、 近づくに連れ氷河の裂け目は崖の際まで広がっていることがわかった。彼女たちは引き換えし、今度は左岸の際まで行くと、ようやく馬一頭が通れる崖下の細い道を見出した。

 二人は慎重にその々を渡った。気づけば太陽は正中しており、この一連の迂回に二人は予想以上に手間取った。

 アリアはなんとなく後ろを振りむいた。

 斜面の上の氷河の始まるとことに、たくさんの巨人たちの立ち姿があった。

 スノウマンだ。それは雪原に残されたアリアたちの足跡たどり、すぐに追いついてくるだろう。彼らの巨大な体躯ならば、細いクレバスなどはいくつも飛び越えてしまうに違いない。

 二人は振り返り先へ進んだ。

 アリアは焦った。彼女の歩幅は段々と早くなった。そして気づけば二人より前を進んでいた。

「急がないで!」テオは上から声をかけた。「わたしたちより先に進まないでください!」

 

 しかしその時、アリアの馬が足を滑らせた。それは何度か踏ん張りを効かせようと足をバタつかせた後、ついにバランスを崩して雪原の上に横倒しになった。馬は最初はゆっくりと、そしてだんだんと早く斜面を滑り出した。茶色い栗毛の滑らかな肌は氷雪の上滑り、馬は為す術もなく下降した。

 アリアは手綱を引っ張って馬を止めようとした。しかし馬の体重はアリアに比べてあまりにも大きく、アリアの足は雪の表面を削り取るだけで、なすすべはなかった。

 アリアは助けを求めて叫んだ。

 やがて細いクレバスが目の前に迫ってきた。アリア手はもう一度全力で足を踏ん張ったが、もはや馬を止める術はなかった。

「手綱を話しなさい!」テヲは叫んだ。しかしアリアは、手綱を手放さなかった。

 馬はクレバスの裂け目に落下した。

 馬は二十フィートほど落下したところで、裂け目の隙間につっかえた。アリアも馬と一緒に落下したあと、馬と衝突し、それよりさらに二十フィート深くまで落下していった。

 アリアは氷と氷の細い隙間に挟まりようやく落下を止めた。彼女の下から氷河の最下層を流れる水の音が聞こえてきた。体の下から冷気が這い上がってきた。

 馬は彼女の頭上で脚を振り回し暴れた。冷たい雪が崖の淵から降ってきて、アリアの顔面にかぶった。雪の塊がアリアの襟元から体のなかに入り、彼女は冷たさに身をすくませた。

 彼女はパニックに陥り叫びだした。

 「落ち着いてください!」」

 テオはどうやってか、クレバスの上から綱を伝い降りてきた。そしてアリアの体を掴み、氷の間からなんとか持ち上げた。

「落ち着いてください。綱を伝って上に登れますか?」テオが聞いた。アリアはうなずいた。そして一歩ずつ崖の上を登っていった。

 彼女は穴から這い出た。綱は氷河に突き刺さった一本の青い氷のつららに結び付けられていた。これはテオの魔法だった。

 やがて彼女の後ろから手をも這い出てきた。

 斜面の上のスノウマンは、もう二百ヤードの距離まで迫っていた。

 アリアはクレバスを覗き込み、馬を見た。しかし馬は先ほどよりもさらに深く溝にはまりこんでいた。彼は無為にも脚を動かし続けていた。

「スレイ!」アリアは叫んだ。「助けないと」

「もう助かりません。先を急がないと」

「私のせいで……」

 テオは一瞬優しい言葉をかけようとしたが、すぐに口を一文字に結んで言った。「そのとおり、あなたが慎重さを失った結果です。これからは決して私達より先行しないでください。さあ、先へ進みましょう」

 テオはアリアの手を引いて、再び氷河を降り始めた。

 やがて彼女たちは、小石の降り積もった氷河の下流に差し掛かった。ここにはもはやクレバスはなく、また地面も滑らないので彼女たちは歩みを早めた。

 やがて氷河は終わった。二人は馬に乗り、道を駆けた。


 二人は森の中を走った。晩夏の山には美しい花が一面に咲き誇っていた。二人は峠を東に駆けた。

 そして二人は再び氷河に出た。標高の低いこの場所の氷河は、晩夏の熱を浴びてたくさんの水たまりができていた。それは危険な兆候だった。

 氷河の下流では、崩落が始まっていた。

 二人は馬を降り氷河を歩き出した。

 低地では雨が降っていたのだろうか、氷河の表面にはプールのような大きな水たまりがたくさんできていた。それらを迂回するたび、氷河の終わりは遠くなった。

 二人の歩みは遅々として進まなかった。 

 そして幾度目かの進路変更のあと、彼女たちは大きなクレバスに行く手を阻まれた。そこから来た道を戻るには、ゆうに一時間を超える時を無駄にすることになるだろう。

「このままでは追いつかれます」テオは言った。「馬を囮に使うしかありません」

「待って」アリアは行った。しかしテオはそれを無視して剣を抜き、馬の腹に傷を入れた。

 その馬、フロロは、悲しくうめいた。そして潤んだ目で彼女達を見つめた。

「ごめんね、ごめんね」アリアは馬を撫で、泣きながら何度もそう言った。

 二人は浅いクレバスの淵に立つと、意を決して飛び降りた。

 二人はクレバスの底に衝突した。幸い底には残雪があり、ふたりとも怪我はしなかった、。

 「Oüm el türe ärianndal……」

 テオは呪文を唱えた。それは二人の上にドーム状の氷の壁を作り、上から二人の姿を覆い隠した。

 そこはあまりにも冷えた。二人は互いに身を寄せ合った。

 そのうちに、外で馬のいななきが聞こえた。

 彼女たちの真上に巨大な怪物が現れた。それは彼女たちの潜むクレバスをまたいで渡った。

 馬は恐怖に猛り狂い暴れ回っていた。

 そのうちに、石斧が打ち下ろされる衝撃音が聞こえてきた。それは、フロロに向かって何度も何度も振り下ろされた。

 やがて頭上は静かになった。

 今、頭上では、フロロの体は引きちぎられ、食われていることだろう。

 アリアは顔を伏せて、縮こまりすすり泣いた。テオはアリスの肩に手をかけて、時が過ぎるのをひたすら待った。


 アリア達はそのくぼみの中に隠れ一晩を過ごした。氷点下を下回る凍てつく洞穴の中で、テオたちは凍死をしないように何度も目を覚まさなければならなかった。

 やがて朝になり目の前の谷が明るくなった。頭上に生物の気配はなかった。

 テオがクレバスから顔を出すと、既にオーガたちの姿はなかった。雪の上には、血に染まった鞍と鐙が捨ててあるだけだった。

  地面に残されたスノウマンの巨大な足跡は、やがて反転して山上へと引き返して行った。


 テオたちは氷河を降り、そこから流れ出る小川に沿って山裾を駆けた。

 やがて氷河から流れ出る冷たい灌流は、谷間のいくつもの細い流れと合流し,太く暖かい渓流となっていった。


 テオたちはその渓流の岩棚を軽やかに駆けた。

 さすがにエルフなだけあって、普段野外に出ることなどしない王女といっても、森を駆けるのはお手の物だった。二人は川面に突き出た岩と岩の間を軽々と飛び越えた。

 こうして彼女たちが川を下っていくと、やがて行く手の先に小屋が見えた

 小屋は丸太づくりのロッジだった。その表面には、夏場の湿気に蒸された苔が屋根まで覆っていた。。その湿気った藁葺きの屋根には白いキノコがぽつりぽつりと生えていた。

 彼女たちが家に近づくと、男が家の陰から現れた。

 彼は長い金髪に切れ長の目をした男だった。

「アベル」テオは言った。「紹介するわ。こちらはアリア様よ」

「お初にお目にかかります、アベルと申します」彼は頭を下げた。「魔物はすでにパルパットに侵入しています。お急ぎを」

 三人はアベルの案内ですぐに出発した。そのうちに陽は落ち、辺りは暗くなっていった。


 やがて三人は渓流の河口にたどり着いた。その流れは、幾万の水の流れを束ねるラインベルクの支流の一つとして、その大河に吸い込まれていった。

 河口には巨大な帆船が停留していた。その横舷には黒く輝く鉄の火砲が並んでいた。帆船の大きな帆が月の光を受けて白く輝き、闇の川面に灯火が輝いていた。

「あの船は何なの?味方の船かしら」テオは言った。

「あれは竜帆船ですね」アベルは言った。

「竜帆船?」アリアは訊いた。

「船尾に竜の翼が張ってあるのが見えるでしょう。あれで風を受けて高速で船を走らせるのです。あのような戦闘艦がこんなところに停泊している理由は考えられません。おそらく敵の船かと。まずどこかに隠れましょう」

 テオ達は森のなかに入った。森をしばらく進むと、そこに小さな狩猟小屋を見つけた。

「借りることにしましょう」テオはそういい、扉の錠を剣の柄で叩き壊した。

 三人は扉を締め、そのまま横になり眠った。

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