雲切雷電という男
扉を開けるとカランコロンと鈴のなる音がした。
相変わらず薄暗い店内はコーヒーの匂いを蓄えて、鼻腔を刺激した。
「……いらっしゃい」
渋く低い声で言うのはこの店のマスター、とはただの仮装で、実際は裏社会の情報通であり、まとめ役でもあるような人物だ。警察がすぐに動けないのは、彼を慕う下部組織の戦力の把握が出来ていないからだろうか。そうして、知るだけで七年はここでマスターとして店に立ち続けている。
「お疲れ様でした、雷電」
「あぁ……いつものだ」
そう言うと、マスターはカトラリーを磨く手を止めて、棚から一つのグラスと飴色の瓶を取り出した。そしてその瓶の中身をゆっくり注いでいく。
「今日も?」
「あぁ、枝夫妻の研究所をぶっ壊してきた」
「……無茶しないよう」
そう言ってグラスを雷電の前に差し出した。酒のようで酒ではない。
雷電はそれを優しく持ち上げ、一気に飲み干した。
「はぁ、楽になった」
「……」
雷電はグラスをマスターに返すと、胸ポケットから葉巻を一つ取り出し、いわゆるジッポライターに火を付けたところで、マスターが一つ咳払いをした。
「あ?」
マスターは静かに禁煙マークを指差している。
「いつからだよ」
「……今日からです。法律は守らねばならん」
「なんでだよ! 今まで人殺しまくった人間が今頃法律守ってもしょうがねぇだろ……チッ」
舌打ちして、雷電は葉巻とライターを胸ポケットに仕舞った。
手持ち無沙汰になったのか、雷電はコーヒーを一つ頼んだ。
「雷電のアルコール嫌いは相変わらずですね……」
「カフェインの方が体に効く」
「それは知りませんでした」
「冗談だ」
マスターはふっと笑って、サイフォンのフラスコに水を注いだ。
「しばらく……」
そしてゆっくりとコーヒーの濃い匂いが立ち込めて、サイフォンを止めた。
取り出した白いマグカップにコーヒーを注ぎ込み、皿に乗せて雷電の前に置いた。
「角砂糖とミルクはお好みで……」
「ブラックに決まってんだろ」
雷電は湯気ののぼるマグカップを持ち上げて、一口啜った。苦さよりも酸っぱさが強いコーヒーだが、この酸味がたまらなく美味い。ミルクや砂糖で台無しにしたくないのだ。
「それで雷電、何か用事でしょうか」
「……」
雷電はもう一口コーヒーを口に含んで、喉を潤した。
「世界的昆虫学者エリック・グレイバーの遺した最後の手紙には『日本へ向かう』と書かれていた」
「……」
「九年前だ。彼はそのまま姿を消した。空港の監視カメラ、タクシーの運転手の証言、その後寄ったホテルの監視カメラには間違いなく彼は居た。そこに存在した。だが翌日彼は居なくなった。まるで魔法にでもかけられたようにな」
「……ふむ」
マスターはカトラリーを磨く手を止めて、雷電の話に耳を傾けている。
壁掛け時計の針が一目盛動いた。
雷電は続ける。
「そしてその時捜査に当たった警察官が数人自殺してるらしい」
「……」
「ここからはあくまで予想だが、ネクストワールド社の前身の企業の社長は警察すら買収し、グレイバー氏の身柄を確保した」
「自殺した警察官は」
「口封じかもしれない。気付かれたから自殺に見せかけて殺した。書類上で書き換えるのは簡単な事だろう」
「……整理しよう」
「グレイバー氏が消えたのが九年前。クローンプロジェクトが発足したのが八年前。実用化は少し時間が経っているが、時系列は揃った」
雷電は少し冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。
「そしてグレイバー氏の利用だが、彼の知識だ」
雷電は自分の頭を人差し指でトントンと突いた。
「クローンは基本ネットワークで記憶を共有している。脳に埋め込まれたチップでだ。そしてそのネットワークにグレイバー氏の記憶を埋め込むと、全機体が同じ記憶を共有する。つまり個性を消すことによってプログラムしやすくする」
「……なるほど」
「マスターは知ってたんじゃねぇのかよ」
そう言うと、マスターはこちらに背を向けて、
「私も似たような話は聴きましたが、大方噂の類と思っていました……何せどれもこれも裏付けがありませんからね」
「……と言うと」
マスターはゆっくりこちらを振り向いた。その顔は動揺と葛藤と憎しみに溢れていて、
「一つ事実をお教えしましょう、雷電」
「あぁ」
「実は――」
*
「あ、おかえりらいちゃん」
「ニャー」
階段を降りてきた雷電を迎えたのはエプロン姿の島田と、皿の前にちょこんと座る猫のタマだ。
タマは帰ってきた主人と目の前にある缶詰を交互に見やり、頭だけ皿に向けて体を少し雷電に寄せるという謎の葛藤を見せた。
何故かこの猫は雷電にしか懐かず、雷電もそれを嫌がってはいない。
「ご飯できてるけど……」
「もう食った」
雷電は着ていた革ジャンを脱いでハンガーに掛けると、素早く部屋に帰っていった。タマもそれに釣られて、半分ほど缶詰を残して閉まる扉に体を滑らせていった。
「まぁいつものことだけどねぇ……」
缶詰の残った皿を持ち上げて、島田は腰に手を当てた。
「そんなことより整体に行きたいわねぇ……」
そう呟きながらリビングを後にするのであった。
*
雷電は部屋に入り、椅子に腰掛けた。タマが膝の上に乗り、撫でて欲しそうに腹を上に向けた。
この猫を見ていると妹の顔を思い出す。
自分には似ても似つかない顔付きで、この世の全てを浄化するような笑顔を見せるのだ。
「お前は…………いや、お前はタマだな」
震える手を毛むくじゃらのタマの腹に沈めた。
目を閉じるだけでマスターの声が響く。思考を止めると聞こえる渋い声が体を震わせる。聞きたくない、聞きたくない声が反響して繰り返し鳴り響いて、脳を支配していく。
壊れそうになる脳みそが、
「あぁ、俺はもう死んでも大丈夫か」




