化け物
「っらぁ!」
力を込める拳から徐々に血が滲んできた。皮膚を硬化させる薬を打ち、更に筋繊維スーツを纏っているが、蟲の強靭な胴体を殴り続ければ仕方が無い。
次々と湧いて出る蟲の頭を潰し、胴体を捻り、羽をもぎ取り、脚をへし折り、そして飛んでくる斬撃も毒針も全て避けて拳を振るう。
「す、すげぇ……雷電ってあんな事出来たのかよ……」
銃を片手に、戦場を駆け回る空がこぼした。宙を舞う雷電はもはや人の域を超えている。
猿は道具を持って進化した結果、道具を持たなくなったのか、と訳の分からない事を口に出す空を横目に、颯太は専ら雷電の援護射撃だ。
能力を持たない、非力な人間でしかないが、特殊戦闘員として活動する以上、足を引っ張るなどあり得ない。
「ふーた!」
上を見ていた空が名前を叫び、颯太を掴んで走り出す。駆け抜けた後に残るのは砂埃と毒針だ。多少の破壊力を孕んだ毒針は、当たれば即死、掠めただけでも徐々に痺れてくる厄介な代物。故に颯太は空の足を使って回避し、そして颯太より銃の扱いに劣る空は徹底して攻撃を避ける。
幼い頃から共に過ごしてきたからこそ出来る、他人には絶対に真似の出来ないテクニックだ。
『第一三機甲部隊の援護が入る! 隠れて!』
耳に飛び込む島田の命令と同時に雷電は着地し、他のそれぞれも物陰に隠れる。
『ーーてぇ!』
自走型無人機の一一二ミリ砲が炸裂。十数発を同時に撃ち込み、手の回らない所を砲撃。弾を装填する音と共にもう一発が炸裂した。無慈悲な機械は亡骸になった蟲をそれでもカメラで追いかける。生体反応が消えた事を確認すると別の蟲へ照準を合わせ直す。
『防御壁展開!』
同時に機甲部隊の左右を固める二機が折り畳んである壁を開く。そして横からの遠距離攻撃を防ぎ切った。
更に、その横を抜け走り出した機体が、搭載された遠距離砲で応戦。ヤシマ工業が誇るAIによる正確な演算で、放った弾丸は直撃したようだった。
それを見て空が声を上げた。
「本当に俺たち要るのかよ」
確かにその通りだと、颯太も頷く。ここまで一方的に攻め込めているのに、何故戦線が崩壊したのか。
その答えはすぐに分かることになった。
「颯太、空、大丈夫か?」
そう言いながら突然現れたのは橋宮だった。
「大丈夫ですけど……あの」
「ん?」
颯太は疑問を口にする。
「なんか弱くないですか? 大隊クラスが壊滅するとは思えませんが」
「……それはここに来るのが雑魚ばかりだからだ」
その回答に今度は空が首を捻った。
「なんでそんなことするんだ?」
「俺の推測だが、蟲の群れのトップ、ここじゃ女王蜂とでも呼ぶが、そいつが群れの指揮を執ってる。そしてこの雑魚は偵察員か何かだ。ここで無理に突っ込んで死ぬか、仲間を増やすのに戻るか……」
「蟲に思考力があるんですか?」
橋宮は笑って答えた。
「知らねぇ。でも帰還した隊員の証言を組み合わせるとそうなるだろうな」
そしてそれまで響いていた砲撃の轟音と、蟲の地面を抉るような攻撃の地響きがピタリと止んだ。
そして再び無線が入る。
『ミチルだ。敵が後退していく。右翼側の支援に入って』
聴き終わると、橋宮は二人の肩を叩いて、
「俺の予想通りだ」
と再び笑ったのであった。
*
「くそ! もう持たない!」
毒針の雨の中、銃を片手に走り出した青年は、その服を血で濡らして、反対方向に向いた右足を引きずってもがいていた。爆散した瓦礫の破片が腹に当たって、肋骨と内臓が痛む。肺は思うように酸素を取り込まない。苦しいと痛いが交互に乱れる。
仲間が目の前で倒れ、吹き飛ばされ、食べられて、その命を蹂躙された。蟲が憎い。だが感情だけではどうにもならない事実に打ちのめされた。
ほんの少し前に結婚したばかりだった。嫁のお腹の子はあと五ヶ月で産まれる。それまでは絶対に死なないと覚悟したばかりだったのに。何もかも上手くいくつもりだったのに。明日には家族と笑って過ごす一日があるつもりだったのに。
背後に迫る蟲の気配を感じた。振り返ると、こちらを見つめる蟲がいた。その目には血に塗れた自分の姿が写っていた。
もう死ぬと、間近に迫る絶対的な終わりを感じながら、叫んだ。
「死にたくない! 死にたく……あ――」
針が発射されたのが分かった。何故か世界がスローモーションに見えた。
死ぬ。
この近距離で腹を射抜かれて死ぬ。間違いなくそれは――
「……らぁ!」
しかし、横から飛び込んできた人物がその運命を変えた。
蟲を殴り飛ばし、足先で針の軌道を逸らしたのだ。
そして何処からか声が聞こえた。
「おい! 助かるぞ! 雷電が来たぞ!」
目の前の男はその声に反応して、
「ぴーちくぱーちくうるせぇよ。とっとと帰って田舎の母ちゃんにでも泣き縋りな雑魚共が!」
そう言って雷電は二本の注射器を取り出した。
「……細胞再生剤」
青年は呟いた。
能力者が消耗した筋肉を無理矢理動かすための、いわば劇薬に近い。使えば使うほど身体の負担が大きくなる。
「雷電! それは!」
しかしもう遅かった。彼は既に脚に刺しており、その空になった注射器を捨てた。
そして、
「こちとら限界突破してんだよ」
彼は枯れた葉っぱを一欠片口に入れると、それを噛み潰した。よっぽど苦いのか眉間にシワを寄せていたが、青年はその枯れ葉が何か分かった。
「お前……」
「黙れ。雑魚が話しかけんな」
圧倒的な威圧感が場を支配して、口から言葉が出てこない。
ただ目の前の人の皮を被った化け物が、ぼたぼたと血の溢れる拳を握りしめて飛び立っていった。
眺めることしか出来なかった。
「おい、大丈夫か? ……こりゃひでぇ」
後ろから駆けつけた医療班に声を掛けられても、何も言えなかった。この男と蟲に対する恐怖が身体を蝕んで、声が出なかった。
少しして、【crow】のチームコードが入ったCr-2が到着した。その時には既に蟲は壊滅状態だった。
それが荒地にただ立ち尽くす男の仕業だというのは、彼の姿を見れば分かる。
ふくらはぎと太ももから出血し、真っ赤に染まる服と、血走る眼がその凄惨さを物語っている。
と、迂闊に近付こうとした颯太を、橋宮はガッチリ掴んだ。
「お前は行くな。死ぬぞ」
そう言うと、橋宮は雷電に近付いた。
雷電はゆっくり振り返る。その目は殺意であふれていた。いや、あるいは殺す事への快楽だったかもしれない。
「橋宮サン」
「分かってるよ」
そう言って橋宮は拳銃を取り出し、あろうことかその銃口を雷電に向けたのだ。
「橋宮さん!? 何してるんですか!」
颯太は咄嗟に止めようと前に出た。が、遅かった。
パン、パン、と数発破裂音がして、銃口から煙が少し上がっていた。
「橋宮さ」
「狂犬はこうして飼い慣らすのさ」
「――――」
その時の橋宮の目は、酷く冷たかった。いつもの、にこやかな彼は何処へ行ってしまったのか。
「でも大丈夫。急所は外したから」
その言葉に、怒りが頭の先まで昇った。
「人を殺しかけておいて……そんな」
「いや颯太、お前は少し勘違いをしてる」
「……勘違い?」
何が違うと言うのか。事実雷電は自分の血で自分を汚し、浅い呼吸を繰り返している。
「あれは殺しを楽しむ化け物だ。危うく、俺たちも死ぬところだったんだせ」
橋宮は撃ち切った拳銃を腰のバッグに納めた。
そして雷電に近付き、手足を縛る。
「ま、安心しろ。死ぬわけじゃない」
そう言って橋宮は動かない雷電を担ぎ、Cr-2に戻っていった。
強烈な殺気に晒された空は身体を震わせてその場から動かなくなり、颯太は恐怖で動かなかった。
「化け物は……どっちだよ……」
そう呟いた颯太の声は、吹き荒れる風に掻き消されたのだった。