第四話 第三層 《刻憶層》
配信が開く少し前、澪はアークライン本部の管理通路に立っていた。
白い深層戦闘服の襟元を、マシロが何度も整えている。手首には刻差計。針のない三つの文字盤が並び、地上時間、装着者側の時間、魔力周期を別々に記録する。インベントリの中には、結衣が持たせてくれた弁当包みが他の装備と分けてしまわれていた。澪は出発前に一度だけそれを確認し、少し満足そうに頷いた。
佐伯は端末を見ながら、澪の前に立っている。
「澪さん、今回は可能な限り転移を使わずに進んでください」
「二層の途中まで、行ける」
「はい。第二層第五環までは確認済みです。ただ、今回は刻差計の基準記録が必要です」
「基準」
「澪さんが通常進行した場合、各層の魔力圧、時間差、配信遅延、装備負荷がどう変化するかを測ります。今後、遠征隊の行程を組むための比較資料になります」
「歩く?」
「はい」
「分かった」
「退屈かもしれませんが」
「弁当ある」
「それは大切ですね」
「うん」
佐伯は真顔で頷いた。澪が弁当のことだけ少し真剣な顔になったので、横にいた配信担当が視線を逸らした。笑うと、マシロに見られる気がしたからだった。
配信タイトルは短い。
『第三層へ』
画面が開いた瞬間、白い横顔と灰色の通路が映った。コメント欄はすぐに流れ始める。
『九環きた』
『第三層攻略配信』
『刻憶層だ』
『澪ちゃん手首のやつ何?』
『刻差計。時間差を測るやつらしい』
『今日は転移しないの?』
『計測のために歩くって公式に出てた』
『澪ちゃん基準の徒歩、参考になるのか?』
『ならないけど、ないよりまし』
『卵焼き持った?』
『持った顔してる』
『メイちゃんは?』
『まだ出てない』
『マシロちゃん今日も襟直してる』
『かわいいけど行き先が怖い』
澪はコメントを少しだけ見て、歩き出した。
第一層は、風と空と墓の匂いがした。
白い墓標の列が斜めに傾き、骨鳥の影が空を横切る。普通の探索者なら、ここから先で緊張を強いられる。風の向き、骨鳥の位置、墓標の陰に潜む白い小型魔物、足場の崩れ。どれも命を落とす理由になる。けれど澪の足取りは変わらない。石を踏む音だけが小さく続き、骨鳥が急降下してきた瞬間には、もう地面へ落ちていた。
澪は振り返りもしなかった。マシロの袖が伸び、澪の指先についた骨粉を払う。
「浅い」
『第一層が浅い扱い』
『まあ澪ちゃんにとっては』
『骨鳥が落ちる瞬間見えなかった』
『メイちゃん出てないよね?』
『マシロちゃんだけで処理した?』
『第一層ってこんな通勤路だったっけ』
『違う。普通に死ぬ』
第一層は、澪を止めなかった。
刻差計の文字盤は静かに動き、配信端末は魔力圧と映像遅延を記録し続ける。アークライン本部の観測室では、配信映像とは別に、澪の歩行速度、周囲魔力、環境負荷が細かく表示されていた。研究員の一人が数字を見て、首をひねる。
「これ、徒歩速度ですか」
「徒歩です」
「本当に?」
「澪さん基準では」
佐伯は否定しなかった。
澪は第二層へ入った。
生命と森の層。湿った空気が肌にまとわりつき、巨大な根が道を割る。葉の隙間から落ちる青い光は美しいが、その光の下には牙を持つ花、蔓に擬態した蛇、幹の内側から人の声を真似る魔物がいる。
澪の足首へ牙花が噛みつこうとした。
白い布が先に落ちる。マシロが足元を覆い、牙を押さえた。澪の指先が花弁に触れる。牙花は凍ったように止まり、根元から崩れた。
「二層」
『説明が短い』
『今の牙花、普通に危険種』
『触っただけで崩れた』
『マシロちゃん強くない?』
『強い』
『澪ちゃん、弁当確認してる?』
『たぶんした』
『卵焼き無事そう』
『攻略中の精神安定剤』
流れるコメントの中に、短い詩が混じった。
『白い君が歩くと、森の牙さえ花に戻る。今日も画面のこちらで灯りを見ています』
月下詩人。
しばらく姿を見せなかった視聴者のコメントだった。病室から戻ってきた彼女の言葉に、コメント欄が少しだけ反応する。
『詩人ニキ復帰してる』
『無理すんなよ』
『今日は綺麗めだな』
『八割くらいは元々綺麗だっただろ』
『残り二割が濃すぎただけ』
『生きて見てろ』
澪は一度だけコメント欄を見た。
「いた」
それだけ言って、また前を向いた。助けると決めた。治療はアークラインが進めている。コメントが戻ってきた。それで十分だった。今は第三層へ向かう。
第二層第五環を越える頃、配信開始から一時間半ほどが過ぎていた。ここまでなら澪は転移できる。だが今日は歩いた。刻差計の文字盤が記録を増やし、端末が階層ごとのズレを拾い続ける。澪にとっては通れる道でも、アークラインにとっては今後の遠征を支える貴重な記録だった。
同じ頃、朱音たちの遠征隊は第三層《刻憶層》の中で、何度目かの休止を取っていた。
出発からすでに数日が過ぎている。
第三層の空は、ずっと夕暮れだった。朝も夜もない。薄紫に焼けた空の下、古い鳥居が列をなし、灯籠の火が風もないのに揺れている。遠くから祭囃子に似た音が聞こえるが、耳を澄ませるほど記憶の端が薄くなる。
朱音は座らず、槍を支えにして立っていた。疲れていないわけではない。けれど、腰を下ろす前に確認することが多すぎた。
「静華さん」
「います」
「真央さん」
「いるぞ」
「小夜さん」
「いるよ。朱音さんも、ちゃんといるね」
「透子さん」
「いるわ」
「アカリさん」
「いる」
「セレスさん」
「います」
名前を呼ぶ。声を返す。誰がいるかを固定する。第三層に入ってから、遠征隊はそれを何度も繰り返していた。一度だけ、後方支援員の一人の名を呼ぶのが遅れた。その瞬間、全員が「最初からその人はいなかった」ような感覚に襲われた。小夜がすぐに処置し、透子が記憶の綻びを捕まえ、朱音が聖域を足元へ落として事なきを得た。
それ以来、点呼は儀式になった。
「朱音さん、聖域はそのくらいでいいよ」
小夜が柔らかく言った。
「広げすぎると疲れちゃうからね。足元と呼吸だけ、灯りを置く感じだよ」
「はい」
「頭痛は?」
「少しあります」
「じゃあ、抜いておこうね」
小夜の指が朱音のこめかみに触れる。緑がかった光が染み込み、頭の奥に溜まっていた冷たい霞が薄くなった。
「大丈夫?」
「楽になりました」
「よかったよ。無理を覚える前に、こっちが覚えておくからね」
「ありがとうございます」
真央が少し離れたところで、大きく肩を回した。
「ここは嫌だな。殴れる敵より、殴る前に何か持っていかれる感じがする」
「巨人族が一番苦手そうですね」
セレスが言った。
「うるせえ。正面から来るやつは好きだぞ」
「第三層は正面から来ません」
「だから嫌なんだよ」
透子は灯籠の火を見て、少しだけ目を細めた。
「綺麗ね。綺麗だから、なおさら悪い」
「透子さんでも?」
朱音が聞く。
「ええ。人の記憶を撫でるものは、だいたい悪趣味よ。私も含めて」
「自覚あるんですか」
「あるわよ。だから節度を守るの」
その時、セレスの耳が動いた。
「接近」
「魔物か?」
アカリが手甲を鳴らす。
「いえ……映像反応。配信端末です」
「配信?」
朱音は一瞬、意味が分からなかった。
第三層の鳥居の向こうに、白い影が見えた。
遠くない。夕暮れの道を、白い少女が歩いてくる。深層戦闘服の布が揺れ、手首の刻差計が淡く光っている。足元には影が伸び、その影の奥に黒い鎖の気配が眠っていた。配信端末の小さな浮遊光が、澪の後ろを追っている。
「……澪?」
朱音の声が裏返った。
澪は遠征隊の前で立ち止まった。
「追いついた」
「追いついたじゃないよ!」
朱音が思わず叫んだ。
「私たち、何日先に出たと思ってるの!?」
「歩いた」
「歩いたで済ませないで!」
コメント欄が爆発した。
『追いついた!?』
『朱音先輩たちもう第三層の奥だぞ』
『遠征隊、何日もかけてここまで来てる』
『澪ちゃん徒歩だよね?』
『徒歩です』
『徒歩とは』
『朱音先輩の声が完全に保護者』
『アークライン最上位組いるじゃん』
『二代目剣聖!』
『小夜ちゃんかわいい』
『真央さんでかい』
『透子さんエッッッッッ!!』
『セレスさんとアカリさんもいる』
『澪ちゃん、長期遠征隊に日帰り感覚で追いつくな』
静華は澪を見て、静かに息を吐いた。
「お早いですね」
「普通に歩いた」
「その普通が、いま一番恐ろしい言葉です」
「そう?」
「はい」
小夜が近づき、澪の顔を覗き込んだ。
「澪ちゃん、体調は大丈夫かな?」
「大丈夫」
「頭痛は?」
「ない」
「記憶が抜けた感じは?」
「少し」
「少しあるんだね。じゃあ、見ておこうね」
小夜が澪の手に触れた。緑の光が一瞬だけ浮かぶ。小夜はすぐに目を細めた。
「うん。大丈夫だよ。大丈夫だけど、大丈夫すぎるね」
「なにそれ」
「普通はもっと疲れるの」
「そう」
「そうだよ」
真央が笑った。
「本当に歩いて来たのか」
「うん」
「走ってない?」
「少し」
「少し走ったら何日分詰まるんだよ」
「知らない」
アカリが朱音の肩を叩いた。
「ほら、言ったでしょ。澪と比べると心が折れるって」
「折れそうです」
「折れてもいいけど、すぐ戻して」
「はい」
セレスは澪の刻差計を見ていた。
「記録は取れていますか」
「たぶん」
澪が手首を見せる。
「端末側でも受信しています。第三層の遅延と揺らぎが明確に出ていますね」
「役に立つ?」
「かなり」
「ならいい」
朱音は少しだけ安心した。澪が無意味に急いだわけではない。もちろん、本人の感覚では普通に歩いただけなのだろう。それでも、刻差計の記録は遠征隊にとって価値がある。澪が通った道の歪み、魔力圧、時間の揺れ。それらは今後、第四層へ向かう者たちの生存率に関わる。
だが、安心と同時に、距離も見えた。
自分たちが数日かけて進んだ道を、澪は短い時間で歩いてきた。疲れも薄い。聖域の補助も不要。記憶干渉に触れられても、メイとマシロが引き戻す。澪はやはり、同じ隊列の中に置く存在ではない。
それでも朱音は、澪の頬に指を伸ばした。
「怪我してない?」
「ない」
「本当に?」
「うん」
「よかった」
「朱音先輩は?」
「私は大丈夫。小夜さんが見てくれてる」
「うん」
澪は小夜を見た。
「いつもの人、えらい」
「えへへ。ありがとうね」
小夜は素直に笑った。
「澪ちゃんも、奥に行くなら気をつけてね。第三層は、強いだけだと意地悪されちゃうよ」
「意地悪」
「覚えてることを触ってくるの」
「さっき触られた」
「うん。そこから先はもっと増えるよ」
「分かった」
静華が一歩前に出た。
「澪さん。私たちはこのまま第四層へ向かいます」
「うん」
「あなたは第三層第九環へ?」
「行く」
「ご武運を」
「静華さんも」
「ありがとうございます」
静華の腰で、新しい刀がかすかに鳴った。澪はそれを一瞬見て、小さく頷く。
「刀、元気?」
「はい。よく鳴ります」
「よかった」
透子が微笑んだ。
「澪ちゃん、あまり奥で迷子にならないでね」
「迷ったら戻る」
「戻れない場所もあるわ」
「なら、戻れるまで進む」
「……そういうところよね」
朱音の胸が少しだけ痛んだ。
澪なら本当にそうする。戻れないなら、戻れるようになるまで進む。第一層第九環でもそうだった。死にかけながら、帰るために強くなった。今から向かう第三層第九環も、きっとそういう場所になる。
朱音はもう一度、澪を抱きしめた。
「澪」
「うん」
「帰ってきて」
「うん」
「時間がかかっても、帰ってきて」
「帰る」
澪は短く答えた。
コメント欄の速度が少し落ちた。騒いでいた視聴者たちも、その声の重さを感じ取ったのかもしれない。
『帰ってきて』
『朱音先輩……』
『第一層のこと思い出す』
『今回は刻差計ある』
『アークラインも見てる』
『第三層第九環は前人未到』
『澪ちゃん、帰ってきて』
『絶対帰ってきて』
澪は朱音から離れた。
メイの鎖が足元でほどける。黒い鎖と長い刃。鎌の姿。まだそれ以外の形は見せない。けれど、メイは静かに鳴り、先へ行く準備をしていた。
澪は鳥居の奥を見た。
夕暮れの道は、さらに濃くなっている。灯籠の火は揺れ、遠くの祭囃子は少し近い。第三層《刻憶層》の奥。第七環、第八環、そして誰も見たことのない第九環。
澪は歩き出した。
遠征隊はしばらく、その背中を見送った。白い姿はすぐに夕暮れの中へ小さくなり、やがて鳥居の向こうへ消える。追えない速度ではない。ただ、追ってはいけない場所へ向かっているのだと、誰もが分かっていた。
朱音は槍を握り直した。
「私たちも行きましょう」
静華が言った。
「はい」
朱音は頷いた。
澪は第三層の奥へ。朱音たちは第四層へ。同じ夕暮れで一度交わった道は、そこでまた二つに分かれた。
澪足速い。
小夜ちゃんが抜い……ゲフンゲフン。
それはそうと、実は第四層より第三層の方が圧倒的に死亡率は高いです。直接的な危険ではない分対策無しでは高確率で死にます。偉大な先遣隊に感謝〜。
引き続きよろしくお願いいたします。




