第二話 遠征前夜
静華の刀は、訓練室からそのまま地下工房へ運ばれた。
持ち主は静華だ。澪が作り直し、素材も澪のものだったが、澪は「弁償」とだけ言った。だから佐伯は、その言葉を正式な譲渡意思として処理した。工房長は最初、震える指で刀を見つめていた。砕けた刀身の欠片、白鯨骨、龍鱗、黒樹龍の硬質繊維。それらが一本の刃としてまとまり、しかも静華の手に馴染むように重心を残している。性能試験どころか、鞘に納めた状態の魔力測定だけで、測定器の一つが警告音も鳴らさず沈黙した。
工房長はしばらく無言だった。
「……これ、一本で研究班が三つ増えます」
「増やさないでください」
佐伯が即答した。
「増やさないと足りません」
「人員申請書は出してください。通るとは限りません」
「通してください」
「通せる額ではありません」
「では、この刀を見てください。通すしかありません」
「見たので困っています」
静華は工房の中央で、少し居心地悪そうに立っていた。二代目剣聖としての姿勢は崩れない。背筋はまっすぐで、表情も静かだ。けれど、刀を預けた手元だけが少し寂しそうに見える。
透子が横から覗き込んだ。
「静華ちゃん、取られた子どもを見る顔ね」
「取られてはいません。検査です」
「心配?」
「……初日なので」
「昨日届いた子が今日砕けて、今日生まれ変わったものねえ」
「透子さん」
「はいはい。言わないわ」
真央は工房の壁際で腕を組み、興味深そうに新しい刀を眺めていた。巨人族の大きな体に似合わず、刃物を見る目は細かい。巨大な戦斧を扱う女だが、武器そのものへの感覚は雑ではなかった。
「重心が変だな。見た目は細いのに、奥に芯がある」
「白鯨骨が芯材に入っています。龍鱗が外殻、黒樹龍繊維が内部結合。通常の鍛造ではありません」
工房長が早口で答える。
「切れるのか?」
「切れる、で済めばいいのですが」
「はは、怖いな」
「笑い事ではありません。育つ武器です。使用者の魔力に馴染み、戦闘履歴を蓄積し、追加素材で段階的に強化される可能性があります」
「メイみたいなもんか」
「似ていますが、同一ではありません。あちらは武器と呼んでいいのかすら怪しいので」
メイは工房の床に出ていなかった。澪がインベントリへしまっている。白鯨素材と龍素材が並ぶ工房で出すと、また何かを取り込みたがるかもしれないからだ。澪はそれを分かっているのかいないのか、隅の椅子に座って、マシロに袖を直されていた。
小夜が澪の横に座っている。治療室で何度も見た、柔らかい笑顔だった。
「澪ちゃん、疲れてないかな?」
「ない」
「模擬戦と加工を続けたから、魔力が少しだけ揺れてるよ」
「揺れ」
「うん。痛くない揺れだね。でも、放っておくと気持ち悪くなるかもしれないから、整えておこうね」
「分かった」
「いい子だね」
小夜が澪の指先に小さな光を浮かべる。緑がかった光だった。妖精種の回復魔力は、朱音の聖域とは質が違う。朱音の聖域が場を満たす白い温度なら、小夜の魔力は指先から染み込む春の水に近い。澪の皮膚の下に残った微細な魔力の乱れを、一つずつ撫でて整えていく。
朱音はその様子を見ていた。
同じ回復でも、全然違う。自分の聖域は広い。味方の呼吸を揃え、出血を止め、後方拠点全体を支えることができる。けれど、小夜の指先には届かない細かさがある。澪の魔力の癖を読んで、澪本人が気にしていない揺れまで直していく。小夜は最上位だ。自分とは積んできた時間も、届いている精度も違う。
「朱音さん」
小夜が振り返った。
「はい」
「遠征前に、あとで聖域の確認をしようね」
「お願いします」
「広げるより、切らさない練習だよ。第四層では、派手に広げるより長く保つ方が大切になると思うの」
「はい」
「それと、無理をして澪ちゃんの真似をしないこと。そこは本当に大事だよ」
「……はい」
「澪ちゃんは参考にならないからね」
「それは、本当にそうですね」
「朱音先輩、ひどい」
澪が少しだけ不満そうに言った。
「ひどくない。澪は参考にしたら駄目な側なの」
「なんで」
「普通の人は、白鯨素材で弁償しないから」
「壊したから」
「そういう問題じゃないんだよ」
透子が笑った。受付嬢の顔に戻っているが、声の奥にはまだ夜の魔力が残っている。
「でも、澪ちゃんらしいわ。壊したから直す。高かったなら、もっと高くする」
「高くしたつもりはない」
「結果的にね」
「ふぅん」
その一言で、静華の視線が少しだけ刀へ戻った。高くなったどころではない。昨日、自分が買った刀は確かに良いものだった。剣聖が持つに足る刃だった。だが、今そこにある刀は、もはや市場に出るものではない。値段も等級も意味がない。持ち主を選び、持ち主と一緒に育つ刃。静華はそれを受け取ってしまった。
嬉しい。怖い。申し訳ない。
その三つが、同じ重さで胸にあった。
「静華さん」
澪が呼んだ。
「はい」
「嫌だった?」
「いいえ」
静華はすぐに答えた。
「嬉しいです。ただ、少し、背筋が伸びました」
「背筋」
「この刀に見合う使い手でありたいと思いました」
「もう強い」
「ありがとうございます。ですが、まだ足りません」
「刀、育つ」
「はい」
「静華さんも、育つ」
「……はい」
静華は深く頷いた。
工房長がその会話を聞いて、なぜか天井を見上げた。
「佐伯さん」
「なんですか」
「今の、記録しましたか」
「しています」
「武器の命名に関わる可能性があります」
「勝手に命名しないでください」
「仮称だけでも」
「駄目です」
「では、成長刀一号」
「絶対に駄目です」
「白鯨龍刀」
「後で会議にしてください」
「後では遅いんです。今、感情が熱いうちに」
「工房長」
「はい」
「落ち着いてください」
「無理です」
その日の午後、アークライン本部の上層会議室では、第三次オークションの最終確認が進められていた。
澪は出席していない。朱音も、小夜との聖域確認に連れて行かれている。会議室にいるのは佐伯、榊原、経理部、素材管理部、法務、警備、外部折衝班。机の上には厚い資料が積まれ、壁面には出品リスト、警備計画、招待国、参加企業、資格審査、支払い保証、搬送経路が並んでいる。
第三次オークション。
告知前から、世界の一部はすでに騒がしかった。不老薬と若返り薬の追加ロットが出る。噂だけで、王族、大財閥、老英雄、大手クラン、医療企業、国家機関が動いた。公式発表前に問い合わせが殺到し、アークラインの外部窓口は三度増員された。
榊原が資料をめくる。
「最終出品数を確認します。不老薬五本。若返り薬一瓶」
「確定です」
「白鯨素材研究枠は」
「今回は見送りです。保管量こそ増えましたが、解析が追いついていません。流すには早すぎます」
「再生短刀は」
「展示のみ。販売不可。所有はアークライン研究部。貸出禁止」
「澪さんからの寄贈品扱いですね」
「はい。静華さんの刀とは別に、端材で作られた研究用短刀です」
「端材」
経理部長が乾いた声で言った。
「端材という言葉の定義を見直した方がいいかもしれません」
「気持ちは分かります」
机の端に置かれた小さな保全箱の中には、短刀が一本収められていた。刀身は短い。派手ではない。だが、白鯨骨と龍素材がわずかに入っている。自己修復性、魔力馴染み、素材追加による成長反応。静華の刀ほどではないが、これも世界基準では異常な武器だった。
榊原はそれを見て、ため息をついた。
「澪さんには、値段感覚を期待しない方がいいですね」
「最初からしていません」
佐伯が答える。
「白鯨素材を不要と言い切る方です」
「必要なら取りに行く、でしたか」
「はい」
「世界が聞いたら胃を痛めますね」
「すでに痛めています」
壁面の画面に、告知文の最終案が映る。
不老薬、五本。
若返り薬、一瓶。
それだけで十分だった。文章は短い。詳細な効能、服用条件、検査項目、落札資格、譲渡制限。法務が何度も調整した結果、無駄のない文面になっている。だが、どれほど冷静に書いても、内容そのものが冷静ではなかった。
「若返り薬は一瓶だけで本当にいいのか、という問い合わせが来ています」
「一瓶だから価値があるんです」
「不老薬五本も、前回より多いとはいえ奪い合いになるでしょう」
「参加資格を絞ってもですか」
「絞った相手同士が札束で殴り合います」
「警備は」
「最高レベル。会場は非公開。入札は分散。現物は最終段階まで動かしません」
「襲撃想定は」
「あります」
「馬鹿はまだいますか」
「減りましたが、ゼロにはなりません」
「ゼロに近づけましょう」
佐伯の声が少し冷えた。
「澪さん周辺ではなく、アークラインのオークションに手を出すだけでも同じです」
会議室が静かになった。
旧レムリアスの名は出ない。出す必要がない。あの国がどうなったか、そこに関わった者たちがどう消えたか、ここにいる全員が知っている。世界も知っている。それでも、目の前に不老薬と若返り薬があれば、正気を失う者は出る。
だから、アークラインは準備する。
澪は交渉しない。澪は会場に立たない。澪は落札者の顔も、おそらく覚えない。けれど、出品されるものは澪の素材と、澪の活動から生まれた成果だ。ならばアークラインは、澪の代わりに世界を相手にする。
夕方、朱音は第四層遠征隊の装備確認に参加していた。
遠征用の準備室には、思ったより物が少なかった。壁には個人ごとの装備リストが表示され、中央の台には封印箱が数個、魔力補給石、携行結界杭、予備札、医療用の小箱が整然と置かれている。大規模遠征という言葉から想像するような、山のような荷物はない。最上位の四人は全員インベントリを持っている。朱音にもアイテム袋がある。物資は量よりも質と管理番号で分けられていた。
真央は自分のインベントリから巨大な戦斧を出し、刃を確認してからまたしまった。
「真央さん、それ何本入ってるんですか」
朱音が思わず聞く。
「斧か? 大きいのは三本。予備の槌が二本。盾が一枚。あとは食料と酒」
「酒」
「帰ってから飲む分だ」
「遠征中じゃなくてよかったです」
「怒られるからな」
小夜は医療用の小箱を一つずつ確認していた。どれも掌に乗るほど小さい。だが、中身は空間圧縮された治療具と薬品だ。小夜の指先が箱に触れるたび、淡い緑の光が点り、管理番号が更新される。
「朱音さんのアイテム袋も、あとで一緒に見ようね」
「はい」
「聖域の補助具は、使う順番を決めておいた方がいいよ。現地で迷うと疲れちゃうからね」
「分かりました」
「大丈夫。朱音さんの役割は、全部背負うことじゃないよ。切らさずに、戻れる場所を作ることだね」
「……はい」
朱音は自分のアイテム袋を見下ろした。澪のインベントリとは違う。容量も、扱えるものも、制限もある。それでも、遠征に必要な個人装備や予備品を入れるには十分だ。槍、防具、聖域維持用の補助具、魔力補給札、医療班から渡された緊急薬。それらを順番に確認していく。
アカリとセレスも遠征隊の確認に来ていた。二人は最高戦力ではない。だが、アークライン上位として遠征隊の中核に入る。アカリは手甲を調整し、セレスは長距離観測用の弓と索敵端末を見比べている。
「朱音、顔が硬い」
アカリが言った。
「硬いですか」
「硬い。出発前の新人」
「それは嫌ですね」
「大丈夫。小夜さんもいるし、真央さんもいる。静華さんも途中までは同行する」
「途中まで?」
「第七環の採取地点まではね。その後は状況次第」
「……本当に大規模ですね」
「そう。遊びじゃない」
セレスが淡々と言った。
「未確認領域に近づく遠征です。澪さんの配信のようには進みません」
「分かっています」
「分かっていても、現地では差が出ます。澪さんなら一歩で終わることに、私たちは時間をかける。澪さんなら避けられるものに、私たちは準備を使う。澪さんなら拾って帰る素材に、私たちは部隊を組む」
「……はい」
「それを恥じる必要はありません」
「え?」
「澪さんと同じでないことは、失敗ではありません」
セレスは朱音を見た。
「あなたの聖域は、私たちの遠征に必要です」
朱音は言葉を失った。
アカリが笑う。
「セレス、言い方が硬い」
「事実です」
「まあ、事実だけど」
アカリは朱音の肩を軽く叩いた。
「朱音は後ろを支えて。前で殴るのは私たちがやる」
「はい」
「それで、帰ってから澪に文句言ってやればいい」
「文句?」
「無茶しないでって」
「それはいつも言ってます」
「なら、いつも通り」
朱音は少し笑った。
いつも通り。そう言える場所まで、自分たちは戻ってきた。死んで、戻されて、泣いて、怒って、家を移り、訓練して、また遠征へ行く。澪は第三層第九環へ向かう。自分は第四層の遠征隊へ入る。進む場所は違う。役割も違う。
それでも、帰る場所は同じ家だ。
その夜、七瀬家の新しい家では、結衣が台所で弁当箱を並べていた。
「お姉ちゃんの出発前用はこっち。澪ちゃんの持ち歩き用はこっちね」
「持ち歩き用?」
朱音が聞く。
「澪ちゃん、時間が止まるアイテム袋あるでしょ? そこに入れておけば、卵焼きも冷めないかなって」
「冷めない」
澪が即答した。
「じゃあ、甘め多めで入れるね〜」
「いる」
「はいはい。お姉ちゃんの分も、朝すぐ食べられるようにしておくから」
「ありがとう、結衣」
「遠征先でちゃんと食べてね」
「食べるよ」
「お姉ちゃん、たまに忙しいと食べないから」
「今回は小夜さんがいるから、怒られると思う」
「なら安心!」
結衣はニコッと笑う。
澪は椅子に座り、マシロに髪を整えられていた。メイはリビングの床で静かにしている。工房で我慢した分、少しだけ存在感が強い。鎖が床を軽く撫でるたび、結衣がちらっと見る。
「メイちゃん、今日おとなしい?」
「我慢した」
「えらいね!」
結衣が言うと、鎖が小さく鳴った。
「褒められてる」
「分かるの?」
「たぶん」
「可愛いね」
朱音はその光景を見ながら、遠征用の書類を鞄に入れた。家の中は温かい。味噌汁の匂い、卵の焼ける甘い匂い、マシロが畳んだ洗濯物の清潔な匂い。外ではアークラインがオークションの準備を進め、世界中の金と権力が動き始めている。第四層遠征隊は明日出発する。澪も、近いうちに第三層第九環へ向かう。
結衣が卵焼きを皿へ移した。
「はい、味見〜」
「甘い?」
澪が聞く。
「甘いよぉ?」
「食べる」
「澪ちゃん、遠征前じゃないのに一番真剣!」
「大事」
「お姉ちゃんも食べる?」
「食べる。明日からしばらく結衣のご飯食べられないし」
「泣く?」
「泣かない」
「本当?」
「……ちょっと寂しい」
「素直でよろしい!」
朱音は卵焼きを一切れ食べた。甘い。いつもの味だ。遠征前の緊張が、少しだけほどける。
澪も卵焼きを食べた。頬が少しだけ緩む。
「おいしい」
「よかった」
「これ、持っていく」
「ちゃんと入れておくね。時間止まるなら、明日でもそのままおいしいはず?」
「うん」
「帰ったら、また作るね」
「朱音先輩も帰る」
「うん。帰るよ」
「絶対」
「絶対」
朱音は澪の頭を軽く撫でた。澪は嫌がらなかった。マシロが髪を崩されて少しだけ揺れたが、すぐに整え直す。
その頃、アークラインの公式発表が世界へ流れた。
第三次オークション開催。
不老薬、五本。
若返り薬、一瓶。
発表から数分で、各国の回線が跳ね上がった。深夜の王宮で照明が灯り、老英雄の屋敷に秘書が走り、大財閥の会議室に人が集まる。大手クランの幹部が端末を握り、医療企業の役員が眠りから叩き起こされる。誰もが分かっていた。これはただの薬ではない。寿命、権力、後継、国家、研究、未来。そこに値札がつく夜だった。
だが、七瀬家の食卓には、その騒ぎは届かない。
澪は二つ目の卵焼きを取る。朱音は遠征資料を閉じる。結衣は弁当箱に明日の分を詰める。メイは床で丸まり、マシロは澪の袖を直す。
世界が不老を奪い合う夜に、澪は甘い卵焼きを食べていた。
実はマシロ家事全般を習得してます。
澪が一人暮らしになっても生活水準が維持されるね!




