幕間 夜の工房にて
夜は深く、借家の壁は冷えていた。
外の風が瓦を鳴らし、木枠の窓を震わせるたび、
この家がどれほど古いのかを思い知らされる。
それでも、作業部屋の扉の隙間からは、
かすかな灯りが漏れていた。
――まだ、起きている。
フランチェスカは、胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
今日、ギルドに認められた。
そのはずなのに、主人公は浮かれるでもなく、
ただ静かに、いつも通り作業を続けている。
けれど、その背中は……
いつもより、少しだけ遠く見えた。
扉をそっと押し開ける。
主人公は、火皿の橙に照らされながら、
黙々と手を動かしていた。
その横顔は、どこか別の場所を見ているようで、
フランチェスカは胸が締めつけられる。
――どこへ行ってしまうのだろう。
そんな不安が、ふとよぎった。
「……お疲れさまです」
声をかけると、主人公はわずかに肩を揺らした。
驚いたように振り返り、そしてすぐに柔らかく笑う。
「起こしたか。悪いな」
その笑みが、いつもより少しだけ弱く見えた。
「いえ。……お湯を、持ってきました」
差し出した器を、主人公は両手で受け取る。
その指先が、ほんの少し震えている。
――ああ、この人も疲れるのだ。
当たり前のことなのに、
その事実が胸に深く落ちてくる。
主人公は湯を一口含み、静かに息を吐いた。
「……昔のことを、少し思い出してた」
「昔、ですか?」
フランチェスカは、息を呑む。
主人公が自分から過去を語ることなど、ほとんどなかった。
火皿の揺らぎを見つめたまま、主人公はぽつりと語り始める。
「俺は……物の“気質”を読む仕事をしてたんだ。
火に当てればどう変わるか、水に沈めればどう落ち着くか。
石や金属の癖を調べて、どう扱えば良いか考える……
そんな、地味な仕事だよ」
フランチェスカは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
――この人は、こんなふうに話すのだ。
彼の言葉は、どこか寂しげで、
けれど確かに誇りがあった。
「錬金術師……のような?」
思わず問いかけると、主人公は苦笑した。
「錬金術師と言えば聞こえはいいが、金を作るような華やかな術じゃない。
ただ、物の内側に潜む“気質”を読むだけだ。
それが分かれば、どう扱えば良いかも見えてくる」
その声は、懐かしさと痛みを含んでいた。
フランチェスカは、胸がきゅっと縮む。
――この人は、どれほどのものを背負ってきたのだろう。
「……その仕事、好きだったのですか?」
問いかける声が震えたのは、
自分でも気づかないほどだった。
主人公は少しだけ目を伏せた。
「好きだったよ。
だが……守れなかったものがある」
その言葉は、静かに落ちた。
火皿の光が揺れ、影が壁に滲む。
フランチェスカは、息を呑むことしかできなかった。
――守れなかったもの。
――それを思い出すたび、この人はどれほど苦しんだのだろう。
問い詰めたい気持ちが胸をよぎる。
けれど、それはしてはいけないと分かっていた。
彼が語らなかった部分に触れることは、
彼の痛みに触れることだ。
だから、ただ静かに受け止める。
主人公は続けた。
「だから今は、できることを一つずつ積み重ねたいんだ。
それしか、俺にはできないから」
その言葉は、火皿の光よりも温かく、
そして脆かった。
フランチェスカは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
――この人のそばにいたい。
その思いが、静かに形を持ちはじめる。
言葉にはしない。
言葉にしてしまえば、きっと壊れてしまう。
ただ、もう一度湯を差し出す。
主人公はそれを受け取り、
今度は少しだけ柔らかい声で言った。
「……ありがとう。助かる」
その一言が、いつもより近く感じられた。
しばらくして、主人公は火皿の火を見つめたまま呟いた。
「明日から、少し動くつもりだ」
「動く……?」
フランチェスカの胸がざわつく。
「この街で、やれることが増えた。
だから、試したいことがある」
その“動く”が何を意味するのか分からない。
けれど、確かに何かが変わり始めている。
――この人は、どこへ向かうのだろう。
――その先に、自分はいていいのだろうか。
借家の灯りが揺れ、二人の影を壁に映す。
その影は、以前よりも少しだけ近かった。
そしてフランチェスカは、
その距離が、これからどう変わっていくのかを思いながら、
静かに目を閉じた。
後書き
フランチェスカ視点ですが、訳あって主人公の名前はまだ非公開です。
フランチェスカに対しては1話の後の作劇外でちゃんと名乗っています。
この幕間を書いていて、私自身も初めて気づきました。
どうやら主人公は「守れなかったもの」を抱えているようです。
その痛みが、彼の慎重さや警戒心の源になっているのでしょう。
作者である私が知らないことを、彼はすでに経験している。この世界の面白いところですね。
いずれ、彼自身の口から語られる日が来るのでしょう。




