第10話 黒の評価
ミサの翌日。
修道院の鐘が、朝の空気を震わせていた。
俺とフランチェスカは、小さな壺を抱えて修道院へ向かった。
壺の中には、数日かけて集めた“煙の黒”が、指先でつまめるほど。
量は少ない。
だが、俺たちにとっては重い意味を持つ黒だった。
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修道院の中庭では、修道士たちが朝の作業をしていた。
掃除をする者。
写本室へ向かう者。
聖具を磨く者。
その中を通り抜け、俺たちは応接室へ案内された。
修道院長は、以前よりも落ち着いた表情で迎えてくれた。
「……では、見せていただきましょう」
フランチェスカが壺を差し出す。
修道院長は慎重に蓋を開け、中を覗き込んだ。
その目が、わずかに見開かれた。
「……これは」
指先でほんの少しつまみ、羊皮紙の端にそっと擦りつける。
黒が、滑らかに伸びた。
粗さがない。
粒が細かく、均一で、光を吸い込むような深い黒。
修道院長は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……驚きました。
ここまで均一な粒を作れるとは」
フランチェスカが小さく息を呑む。
「そ、それは……」
俺は一歩前に出て、静かに言った。
「フランチェスカが中心になって作りました。
俺は……少し手伝っただけです」
フランチェスカが驚いたようにこちらを見る。
修道院長は、ほんのわずかに目を細めた。
「そうですか。
あなたがたの“黒”というわけですね」
その言い方は、
“本当は分かっている” と告げるような響きを含んでいた。
だが、修道院長はそれ以上追及しなかった。
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その時、扉がノックされた。
「失礼します、院長様。写本室の者ですが……」
写本係の修道士が入ってきて、壺を見て目を丸くした。
「これは……ずいぶん細かい、黒ですね?」
修道院長が壺を渡す。
「フランチェスカが用意してくれた黒です。
試しに使ってみなさい。
線の伸びと乾き具合を見て、報告を」
「は、はい!」
修道士は壺を抱えて、足早に写本室へ向かった。
その背中を見送りながら、修道院長は俺たちに向き直った。
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「……あなた方の黒は、確かに良いものです。
これなら、次の仕事も頼めるでしょう」
フランチェスカが嬉しそうに息を呑む。
「次の仕事……?」
「ええ。
ただし――」
修道院長の表情が、少しだけ厳しくなった。
「あなた方の働きが目立てば、ギルドの耳にも入ります。そうすれば、いずれ修道院以外の仕事もくるかもしれません。
ただし、今はまだ、目の前の事をこなしていきましょう」
俺は静かに頷いた。
前に出るつもりはない。
この世界の制度も、力関係も、まだ分からないのだから。
修道院長は続けた。
「次は……少し量を増やしてみましょう。
黒だけでなく、灰色の調合も頼みたい。
影の階調を作るために必要なのです」
フランチェスカが小さく頷く。
「できます。
……きっと、できます」
修道院長は微笑んだ。
「あなた方なら、そう言うと思いました」
その目は、
“本当のところを見抜いている”
そんな静かな光を宿していた。
「では、最後に一つだけ、
『今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる』
……全面的に飢えを肯定しているわけではありませんが、あなた方に、主の祝福がありますように。」
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修道院を出ると、フランチェスカは壺を抱えたまま、そっと呟いた。
「……よかった。
本当に、よかった……」
その声は震えていた。
「これで……少しは、役に立てましたね」
「お前が前に立ってくれたからだよ。」
そう言うと、フランチェスカは顔を赤くして俯いた。
「……そんなこと、ありません。
でも……ありがとうございます」
その声は、どこか嬉しそうだった。
「それに……俺はまだ、この街のことがよく分からないからな」
フランチェスカは、胸の前で壺を抱えたまま、そっと息を吸い込んだ。
「だから……」
「君を前に出すようにしてすまない。もし嫌だったらーー」
「そんな事ありません。」
いつに無く強くフランチェスカが俺の言葉を遮った。
「私は役に立てて本当に嬉しいのです。
では次は灰色も一緒に作りましょうね」
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黒の評価は、
俺たちの生活に小さな光を灯した。
次は灰色。
そして、その先にあるの世界。
まだ道は遠い。
だが、確かに一歩ずつ進んでいる。
本編では省きましたが、実際の修道院長なら依頼品の受領前にフランチェスカを呼んで生活の様子を確認するはずです。
ただ、物語のテンポを優先して今回は描写を省略しました。
いずれ余裕があれば、裏設定としてまとめるかもしれません。




