第六幕 招かれざる不死
エルディチカが思わず聞き返した時、アーナックは喉奥からうめくように息を吐き出した。
その虚ろな両目はエルディチカを見てはおらず、どこにも焦点が合っていない。
こと切れていた。
「司教——レツェリ、司教っ」
説明を求めてエルディチカはレツェリの方を振り向く。彼はただ、いつものごとく、そこにまっすぐ立っている。
違うのは、その面を覆う布が今は無いこと。
露わになったレツェリの顔は、口元だけで浮かべるような、小さな笑みを湛えていた。
「……ああ、そっか。そういうことなんだ……ははっ。あは、はは」
エルディチカの唇からもまた、力のない笑いが漏れる。
たった今、アーナックの最期の言葉の真偽は闇に葬られた。あの赤い瞳と、エルディチカ自身のストームブリンガーによって。
馬車で交わした言葉が本当に事実だったのか、この場でレツェリに訊いてもはぐらかされるだけだ。しかし当人であるアーナックも、肉体こそ床に転がっているが、その魂は神のみもとへと立ち去った。
もはやアーナックの善悪を量ることはできない。
否、エクソシストの採用担当者や、アーナックとゆかりある修道院・孤児院を根気強くあたれば、困難だろうがひょっとすればなんらかの確証を得られるかもしれない。
けれど、自分はそれはやらないだろうと、エルディチカは思った。
どこからどこまでが本当で、一体なにが嘘なのか。なにが正しくて、なにが間違っているのか。
ことの真偽も、善悪の天秤も、もはやどうでもいい。
「なにか言いたいことでもあるのかね、エルディチカ君」
呼びかけに対し、レツェリは鷹揚に答える。その声色と赤い瞳は、エルディチカを値踏みするようだった。
もしエルディチカがレツェリの意にそぐわないことを口にすれば、即座にバラバラの死体にされる。そのことがエルディチカにもわかった。あの赤い眼に見つめられていることは、千の凶器に身を晒しているのと同義なのだと。
だが、案ずることなどありはしない。
「いえ——このあとは、どうするんですか?」
そっと微笑み返す。それで意図は伝わった。エルディチカの、蛹から蝶に羽化するような変化も。
レツェリは満足げに息を吐き、床の死体へ視線を外す。
「そうだな。司祭の処理については、失踪ということにするほかあるまい。わざわざ埋めやすいよう手足を切断したのだ、近くの林にでも捨てるとしよう」
「はあ。そうですか、結構大変そうですね」
「他人事のように。無論、君にも手伝ってもらうぞ」
「ええ、もちろんです」
此度の大巡回布教の裏にあった、レツェリの目的はすべて達せられた。
レツェリの改革を阻む原理派の代表格だったアーナックは排除され、エルディチカは道徳規範の枷を外し、レツェリの補佐にふさわしい人材となった。
彼女はもう数秒前の彼女ではない。悩みは失せ、口元には達観を思わせる微笑。人生に迷うことなどもう二度とないだろう。
自らの生き方を今、定めたのだ。
「わたしは、あなたの補佐ですから。……そうありたいと、自らの意志で思います」
仮に馬車の話がすべて嘘で、エルディチカが初めから騙され、ここでアーナックを殺す一助を担うように誘導されていたとしても——
エルディチカは、もう構わなかった。
レツェリはきっと神のしもべなどではない。その内に信仰などない。
むしろその意志は、神をも殺すものだ。時の流れ、自然の摂理に逆らうとはつまり、神の意に逆らうということなのだから。
ロトコル教において神が恵みたもうたとして最も敬われる、自然そのもの、あるいは生命そのものの理に、レツェリは反旗を翻そうというのだ。それもたった独りで。
なんたる不遜。理解などできない。賛同も到底不可能。
しかし、世界すべてに抗うようなその意志に惹かれた。そばで見ていたいと思わされた。
他者も善悪も道徳も規範も顧みず、自らの意志を貫き通す。それはきっとエルディチカが幼少より心の底で願ってきた、理想の生き方だった。
「わかっているならいい。さあ、ならば手早く作業を始めるぞ」
「はい。掃除用具、どこかに仕舞ってあるんでしょうか?」
「さてな……しかし死体は片付ければよいが、礼拝堂の荒れっぷりをどうしたものか。司祭め、神の従僕が聞いて呆れ——伏せろ、エルディチカ君ッ!」
「へっ? わひゃあ————っ!?」
突如、轟音とともに壁面の一部が崩れ落ちる。
なにごとかとエルディチカは驚いて飛び上がり、そのまままたしてもその場に尻もちをついた。生き方を定めてもこうしたところは変わらない。
一方レツェリは即座に身構え、土ぼこりの向こう、外壁に空いた穴から現れる影を凝視する。
「あれは……」
低く漏らすレツェリの声には、アーナックのギフトが持つ強大な力を前にしてもなお混ざらなかった、わずかな硬さがある。
舞う土ぼこりが次第に落ち着く。
いつの間にか、陽が落ちようとしていた。崩れた壁の向こうは薄暗く、割れたステンドグラスの先に見える空には一番星が輝いている。
偽りの星が見下ろす先、荒廃した神の家に、招かれざる客の姿があった。
崩落した壁の穴からふたりへとにじり寄る、月光よりも白い影。奇妙に捩じくれた五本の脚は太さがまちまちで、胴体は伸ばした餅みたいに長く薄気味悪い。頭部は二つに裂け、断面からは無数の歯のようなものが覗き、顔面には鼻も口もなく、ただ狂える黄金の眼球だけがふたつ、嵌め込んだようについている。
「……イモータル! なるほどなァ、山に入ったという猟師が戻ってこないのはこれが原因らしい」
いかなる動物、いかなる生物とも類似しない、奇妙極まりないフォルム。このランスポ大陸にしか存在しない、不死身の怪物・イモータルだった。
「い、イモータル……!? どうしてこんな場所に、いきなり! 壁を壊して現れるなんて……!」
なんとか立ち上がりながらも、初めて目にしたその異形に戦慄するエルディチカ。
よくよく見ればその頭部の断面にはヒトのものと思しい真っ赤な血が付着しており、また、ぐにゃぐにゃとした脚の一本には、衣服だったらしいボロ布が引っかかっている。山で遭遇した猟師たちを殺し、そのまま山を下り、村はずれのこの教会にやってきたのだろう。
「やつらの生態は個体によって様々だ、あまり理由を考えるな。まァ、司祭めとの戦いがなければ、室内にいる以上は気づかれなかったと思うが。まったく不運極まりない、貴様の星回りのせいか?」
「言ってる場合ですかー! ど、どうしましょう、完全にこっち見てますよ! 食べないでっ、もし食べるんなら司教の方から……!」
「おい貴様。どう考えてもエルディチカ君の方からだろう、肉付きからして」
「レディに失礼なことを言わないでくれますか!? それじゃあわたしが太ってるみたいじゃないですか!」
ふたりが場違いなやり取りをしていると、イモータルはどこまでが胴体なのかよくわからない首を曲げ、顔面をそちらへ向ける。黄金の眼球はレツェリとエルディチカ、どちらか一方ではなく、右目と左目が別々に動いてふたりともを捉えていた。
「ゴ——ガ、ガ、ガッ、ガァ————!」
「ひぃっ、こっち見たぁ! どうするんですか司教!」
「狼狽えるな! 起動しろ、万物停滞——!」
機械仕掛けで発したような、奇怪な声を喉から上げるイモータル。対するレツェリは今一度、その魔眼を解放する。
視界内に描かれる仮想の立方体。その内側は刹那、流れる時間が停滞し、立方体の境界に重なっている動体は時間のずれによって結果的に切断される。
アーナックを視線ひとつでバラバラ死体に仕立て上げた驚異の天恵が、その効力を発揮する——
かに思えたが、特になにも起こらなかった。
「……ふむ。わかってはいたが忌々しいものだな、この私の天恵を歯牙にもかけないというのは」
「ちょっと司教ぉー! ああ、もうだめだぁ……! こんなことならデーグラムのスイーツ店ぜんぶ回っておけばよかったぁ!」
「貴様、もう少しマシな未練はないのか?」
イモータルとは不死の怪物だ。雲の上にて地上を闊歩する、イモータルの原型とも呼ぶべき星の使者たちはそのような性質を持っているわけではないが、ここ地平世界は集合的無意識に象られた、実存せぬ仮想世界。すべてが数値で表せる場所だからこそ、イモータルはことここ地の底においてのみ、傷ひとつつかない無敵の存在として成立できている。
時間のずれなど関係がない。イモータルは現実ではありえない、負の数値を持つ存在。
死の地点、万物が至るゼロなど既に踏み越えているのだ。だからこそ決して死ぬことがない。殺す手段など存在しない。
そう、この地平のどこを探しても、イモータルを殺す手段など存在しない。現状では。
不死を断つ青い負数の短剣がこの地平に現れるまでは、まだ七十年ほどの時を要した。
「しかし、逃げようにも完全に補足されていて、どうすればいいか……あ! 司教っ、前です!」
「む……」
万物停滞の能力が不発に終わったことで、イモータルはうなるような声とともに、脚の一本を鞭のようにしならせてレツェリに向けて振り抜いた。レツェリは自らの左腕でそれを受ける。
キンッ——
長い袖の内から、不可解な金属音が鳴る。
「司教!!」
「……案ずるな。私は無事だ。そして逃げる必要などない」
「え? 逃げる必要がない、って……ですが、相手はイモータルです! 不死身の化け物です……!」
「その不死を封じる手立てを、我々葬送協会は編み出しているだろうに」
「不死を封じる……我々——」
まさか、とエルディチカは青い目を見開く。
不死の怪物。絶対に殺せない暴威。
しかし、地上であろうと地平であろうと、知恵と勇気で困難を打破してきたのが人類だ。殺せぬのならばと、殺せぬままに無力化するすべが編み出され、それを実行する者たちこそ祓魔師。
この大陸のエクソシストは、魔物やごろつきの相手を主とする他大陸のそれらとはわけが違う。
葬送協会のエクソシストは命を懸けて不死を封じるのだ。いつか、真にイモータルを殺す手段が見つかると時に夢想し、世の人々の平穏のために力を尽くす。
死という最大の困難を打破せんとする地底の司教は、今夜、そんなエクソシストたちに倣うことに決めた。
「葬送を始める。合図を待て、エルディチカ」