第五幕 決別の夜
アーナックの短剣。その能力は念動力のようなものであろうか。いわゆるサイコキネシスめいたパワーで、触れずして物体を高速で動かしている。
その嵐のごとき暴威の矛先を向けられているにもかかわらず、レツェリに焦りはまるでない。
「人の良い、か。フ……」
それどころか、もはや防壁としては頼りない長椅子の裏で、なにやら自らの左目を軽く手で抑えるようにしながら皮肉げな笑みを口元に浮かべている。
わけがわからない。エルディチカは床に尻もちをついたまま、理解のできないその男の顔を眺める。
「なんなのあの人? ど、どうして……どうしてこんなことに。わたし、ただのシスターだったのにぃ……っ」
口から泣きごとが漏れ出る。
——本当にどうして、こんなことになってしまったのだろう?
エルディチカの毎日は平穏だった。幼い頃は親に殴られないよう顔色を窺うばかりの日々だったが、孤児院に入ってからはそこそこに幸せだった。
楽しくはなくとも、楽だった。慎ましい生活に波風はなく、誰にも殴られたり蹴られたりすることはなかった。反面、孤独ではあったけれど。
そして孤児院を出て聖堂に入り、いよいよ自立したと思った矢先、突然の司教補佐だ。
そこからすべてが一変した。司教に付き合わされ、気付けばこんな辺鄙な教会で戦いに巻き込まれている。こんなことになっているのはレツェリのせいだ。
この、男のせいで——
「でも……」
そう、すべて眼前の男のせい。司教補佐になどならなければ、今も穏やかな毎日が続いていた。
穏やかに——聖堂の闇を知ることもなく。ただ純朴なまま。
純朴? 本当にそうなのだろうか。
無知であることは罪ではないが、自ら進んで不知であろうとするのは悪徳だ。聖堂に身を置きながら、内部の対立や政治的計略について、本当に知る機会が皆無だったと言えるだろうか。
知ろうとしなかっただけではないのか。建前的な信仰で目を塞ぎ、見たくないものを見るまいと。
「レツェリ、お前の魂胆はわかっている! 胡乱な傭兵をエクソシストとして抱き込み、協会内の勢力図を書き換えるつもりなのだ! 恥を知れっ、権力のために信仰を持たぬ獣を神聖なる聖堂に招き入れるなど——!」
「権力に固執しているのは貴様の方に思えるがな。この私が、協会の地位などに興味があると?」
「違うとでも言うのか! 信仰者の敵め、この薄汚い欲にまみれた悪漢が!」
「ああ。違うとも。私の望みは、そんなものではない」
建材の飛来が止んだタイミングで、レツェリはゆらりと長椅子の裏から立ち上がる。その立ち姿に自然とエルディチカは目を引かれる。
迷いの一片も感じさせない、堂々たる姿。ステンドグラスから差すオレンジ色の陽光がその足元に恭しく触れている。
「ではなにが望みだ。答えてみよ、神の御前でぇ!!」
「不死の実現」
アーナックのギフトによって清潔に保たれていた礼拝堂は見るも無残な荒れ模様となった。しかし今、その空間に一瞬だけ、ある種の神聖さを帯びたあるべき静寂が戻ってくる。
「……は?」
疑問を吐き出したのはアーナックとエルディチカ、両方だった。
不死の実現。協会内の立場や信仰とはなんら結びつかない、そしてあまりに根源的、かつ稚気じみているとまで思える理想。
「お前はなにを言っているのだ? 不死? それが……なぜ協会のエクソシスト増員につながると言うのだ? いや、そもそもそんなことが本当に可能だと思っているのか?」
「簡単な道ではない。だが、なにもしなければいずれ終わりは来るだろう? ならばすべきことは明白だ」
アーナックの顔に当惑が浮かんだ。あるいはそれは、狂人を前にした顔つきだったのかもしれない。
「不死……本気で、司教はそんな……」
エルディチカの青い瞳が、停滞を希求する赤色の眼——そこに宿る絶対の意志を垣間見る。
ごまかすための嘘でも、戯言でもなかった。レツェリは本当にそんな不可能を実現するために生きている。そのためだけに、きっと聖堂に身を置き、司教となり……外部の人間をエクソシストとして任命することでロトコル教会総本山、トワ大陸大聖堂からの独立性を高めようとしている?
結局は権力。だがアーナックと違うのは、権力そのものが目的なのではなく、それがあくまで手段であるということ。
鮮烈なる意志を宿し、善悪の彼岸に立つ者を、エルディチカはどこか呆然と見つめていた。
「そんな世迷い言を本気で抜かしているのなら、お前は狂っている。ああそうだ、初めからそうだったのだ! 頭がおかしくなければ、実の両親を殺しなどしない!」
「狂っているのは貴様だ。私の母だ。私の父だ。いずれ来る終わりを知りながら、なにもせず生きるすべての者だ」
「それこそ狂人の発言ではないか! ただ懸命に生きる人々が狂っていると? そんなことを考えているのはお前だけだ!」
「ならば、私を除く万人が狂っているのだよ」
アーナックは言葉を失った。もはや相互理解は不可能だと、そう気が付いたらしい。
「どんな目も賽を振ってこそ現れる。どれだけか細い可能性に賭けるのだとしても、なにもせず諦めているよりは上等だ。なぜそんな簡単なことがわからない?」
「もういい、もうたくさんだ……! そのトチ狂った願いとともにつぶれて果ててしまうがいい、異常者がっ!」
礼拝堂の空気がずん、と重くなる。ギフトの能力を最大限に解放したのか、アーナックが掲げる剣先へ、先ほどの何倍もの壁や床、さらには天井までもの石の建材が集い始める。
先ほどレツェリはアーナックの短剣を『力押ししか能のない』と評したが、それもここまで来れば驚異的だ。多量すぎるがゆえに、拝借した建材の集積と制御には時間を要しているようだったが、砕けた長椅子の破片なども剣先へと吸われ、宙には既に小屋一軒ほどの質量の塊が浮かんでいる。
それを身に受けるというのは、そのまま建物ひとつを受け止めようとすることに等しい。レツェリはもちろん、エルディチカも巻き込まれてもろともにぺしゃんこだ。
それを理解した瞬間、エルディチカは床に座り込んだまま動けなくなる。
アーナックの殺意はどう見ても本物だった。レツェリも、ついでにその補佐であるエルディチカも殺そうとしている。
「ま、待って。わたし、まだ死にたくないよ……」
乾いた口から漏れた制止の声はか細く、アーナックには届かない。届いたところで意味もあるまい。
逃げなくてはならないというのに、体は恐怖に硬直し、ぴくりとも動かない。頭の中を占めるのは、『なぜ?』という疑問のみ。
どうしてこんなことになったのか。すべてはレツェリ、この親殺しの司教が、不死を謳う常識外の人物が、自分などを補佐に選んだせい。
ああ、だが、それもやはり嘘だ。
エルディチカにはわかっていた。自分がなぜここにいて、恩義ある司祭にこうして巻き添えで殺されようとしているのか?
そんなことは、自分が流されて生きてきたからに決まっている。なにひとつ自分の意志で決めてこず、家では親の顔色を窺い、孤児院では空気のように存在を消し、聖堂では信仰を拠り所にそれ以外のものを見ないようにして過ごしてきた。
なにも考えずに生きてきた。そうする方が楽だったから。
流れに身を任せてきた報いが今この状況だ。
「エルディチカ君。一度だけ言う」
諦めかけていた耳に、司教の声が響く。
死にたくない——先ほどのそうこぼしたエルディチカの言葉は、アーナックには届かなかったが、近くにいるレツェリには届いていた。
「ギフトを使い、迎撃しろ」
その声はまさしく天啓のように。父のように強く言うでもなく、さりとて諭すようでもなく。ただそうすることが当然かのように、泰然とした口調。
司教がやれと言っている。親殺しの司教。不死身などという荒唐無稽な空想を謳う、異常者。
だが親を殺したというのは。
エルディチカにとって、痛快な響きを伴った。
「ギフト……」
無意識に動いたエルディチカの手が、腰に帯びた黒い鞘に軽く触れる。失念していたそれのことを思い出す。
ギフト。すべての者へ贈られる天の恵み。地にあまねく降り注ぐ希望。
顔を上げる。いつの間にかステンドグラスは無残にも割れて砕け、その破片をも巻き込んでアーナックの砲弾は巨大化していく。
「消し飛べ、協会に仇なす背徳者がぁ!!」
そして短剣が振り下ろされ、その能力で制御された巨大な塊が射出される。
建材の石。燭台。長椅子の木片。ステンドグラスの破片。着弾とともに、雑多な構成物のその中に、人間ふたりの血と骨が混じることになるだろう。
「わたし、は——」
だが。その未来を覆す方策こそ、鞘の中に収められている。
しかし、腰の剣を抜くということは、アーナック司祭に刃を向けるということだ。
そんなことをしてもいいのか? この状況になってもなお、そんな迷いがエルディチカの頭をかすめる。
人に剣を向けてはならない。
誰かを加害してはならない。
他者と敵対してはならない。
相手を怒らせてはならない。規則を破ってはならない。空気を乱してはならない。周囲との調和を重んじなければならない。
ああ——
そんな風に制限された生き方は、もう飽き飽きだ。
「——わたしは、わたしだけの意志で生きる!」
迷いを捨てて立ち上がり、腰の剣を抜き放つ。
レツェリは不死の方途を求めている。万物に流転することを強いるこの残酷な時間という河の中で、なおも停滞する方法を、河の流れに逆らう手段を探している。
なんという遠大で難儀な道だろうか。その過酷な道行きを踏破せんとするのに、どれほど硬い意志が必要だろうか。
そのように力強く生きられたら、どれほど愉快だろうか。
「起きて! ストームブリンガー……!」
鞘が黒なら、刀身もまた光を呑む暗黒。抜き放たれた黒色の剣は、同時にその能力によって嵐を呼び起こす。
そう、それは先ほどこの礼拝堂に吹き荒れた弾丸の嵐などとは違う、真実嵐そのものだった。黒色の風が渦を巻き、辛うじて残っていた内装を木っ端みじんに吹き飛ばしながら、アーナックの砲弾を迎撃する。
「なッ……なん、だとォ!?」
結果は相殺。衝撃が建材の足りない礼拝堂を揺らし、その余波が三者を打つ。
アーナックは信じられないとばかりに叫んだ。その驚愕は、自身の渾身の一撃を相殺するエルディチカの天恵に対してか。それとも——エルディチカに刃を振るわれた、そのこと自体に対してか。
どうあれその隙は逃さなかった。
文字通り、見逃さなかったのだ。
「起動しろ。万物停滞」
荒廃した神の家。赤い左眼が、その内に仮想の立方体を描き出す。
雲の上、果ての世界にていずれ神を宿す赫焉の瞳こそ、万物を断つ最強の天恵にして、あらゆる生命が起源的に約束する結末を否定するための階だ。
その眼球は、視線ひとつで人を殺す。
ぼとり、ぼとり、ぼとり、ぼとり。四つの肉片が床に落ちる。
それはアーナックの右手、左手、右足、左足だった。
「————、あ、ぁぁっ?」
噴出する真っ赤な鮮血。四肢を欠けば当然の帰結として直立は難しい。アーナックはその場に仰向けで倒れながら、呆然とした顔を浮かべた。
「今の、は……?」
「私のギフトだ。ぎりぎりで生かしておいた、別れが必要なら済ませておけ」
——司教のギフトは、老化を抑制する能力では?
そんなことをエルディチカは口にしかけたが、だがしかし、もはやそんな疑問は些細だった。
ぎりぎりで生かしたということは、遠からず死ぬということだ。切断された四肢から血を漏らしながら、うぞうぞともがくアーナックのもとへ、黒い剣を手にしたままエルディチカは歩み寄る。
「アーナック……司祭」
複雑な感情を込めて見下ろす。対する司祭は、まだ自らの身になにが起きたか理解しきれていないのか、ぼんやりした目でエルディチカを見上げる。
視線が交錯して、先に口を開いたのはアーナックだった。
「エル、ディチカ」
血の気を失った、ざらざらとした唇が辛うじて言葉を紡ぐ。
「なぜ……だ」
「司祭?」
今際の際。
吐き出されたのは、エルディチカへの問いかけだった。
「どうして、俺を」
「なんで、って。だっ、だってもともと、司祭が……おじさんが悪いことをしていたんでしょう? 孤児院で、基準に達していない者をエクソシストにして、マージンを受け取っていた……」
どこか言い訳のように、エルディチカはつっかえながらそう答える。
殺されかけたから。自衛のため。そういったことではなく、口をついたのは先日馬車の中でレツェリに聞かされた悪行だった。
血を失い、青白い顔をしたアーナックはわずかに目を見開く。そして喉を震わせるようにして、か細く、しかし確かな声で言った。
「知らない……。そんなこと、俺は、やってない」
「…………え?」