第四幕 絶対的例外
「遅かったではないか、レツェリ司教。それに、エルディチカも来たのだな。ふん」
アーナック。格式高い家柄に生まれ、幼い頃から信仰心に篤く、今や多くの信徒に慕われる葬送協会を代表する司祭の一角。
しかしながら、真に我欲を振り払える者などいるのだろうか? いかに信仰を持とうとも、保証なき神を敬おうとも、目の前に瑞々しく果実が生っていればそれをもぎ取ってかぶり付くのが人の性なのではないか?
少なくとも、多くの宗教組織が結局はそう成り果てていくように、聖堂は単に信仰を持つだけでのし上がれるような場所ではない。根回しや謀略といった数多の手管が闇で蠢き、現世利益のために彼らは信仰を消費することを厭わず、神の赦しさえ切り売りする。
「ことのほか、よい状態で保たれている。聖堂から離れた地にも正しき信仰がこうも息づく……素晴らしいことだな、司祭」
挨拶もなく。ぐるりと礼拝堂を見渡すようにしながら、レツェリは言った。
「はっ、同意を求められても困りますな。確かに、六年も聖堂からの派遣が止んでいる状況でこうも清潔に保たれているとは、いささか驚きましたが——」
「八年だ。この村に駐在員がいなくなり、記録によれば八年と三ヶ月になる」
「——おおっと、これは失敬。司教さまは実に仕事熱心でございますな。このような辺境の村のことも知悉しておられるとは」
「仕事熱心か、なるほど言われてみればそうかもしれん。近頃はなぜか不必要な書類仕事が多いものでな、休む暇もなく机に向かっている。まったく不思議なものだ。そうは思わないか? アーナック司祭」
「……ええ。それはそれは、実に不思議でありましょうや。レツェリ司教」
エルディチカは口を挟めぬまま、二者のやり取りを傍観する。内心は言い知れぬ不安が渦巻いていた。
二者のやり取りは、この数日人前で見せてきたような、聖職者としての対外的なものとは違う。さりとて、大巡回布教の出発前に見せた、敵意を薄い布で覆ったようなものとも違う。
たとえるなら、互いに刃を突きつけ合っているような。
口では会話を交わしつつも、一秒後には相手の息の根を止めようとするような、そんな薄氷を渡るかのごとき時間。
礼拝堂に神聖さともまた違う冷たい空気が張り詰めていく。
エルディチカの細い喉が小さく動き、固唾をのみ込んだ。緊張の糸が弾けてちぎれ飛ぶ瞬間は、そう遠くはない。
「それで、司祭。駐在員を置くことについては私も賛成だ。しかし敬虔とはいえ閉鎖的なコミュニティだ、アサインドシスターただひとりに任せるというのも——」
「建前の話はもういいでしょう、司教。だいいち、あなたは先ほど『正しき信仰』とおっしゃったが、この村にそんなものはありゃせんよ」
今度はアーナックがレツェリの言葉に割り込む。声は低く、加速度的に温度を失っていく。
「ほう? これは異なことを。なぜかね?」
「決まっております。協会の者がいないのです。清貧の教えも知らぬらしい。そのような歪んだ信仰に、なんの価値もないでしょうとも」
「つくづく相容れんなァ。歪んだ信仰? 八年この教会を維持してきた彼らの篤信が歪んでいると?」
「相容れないのは当然でしょう。司教。神にこうべを垂れもしない者どもを、あろうことか聖堂に招こうとするあなたなどとは!」
アーナックはやにわに懐へ手を入れると、銀色の宝石に彩られた短剣を取り出す。
実用性を感じさせないごく短い刃渡り。過度な装飾。実利的なものではなく、儀礼用のそれに似通っていた。
「あれは……ギフトっ?」
一目でわかる。あれこそがアーナックの賜った天恵である。
だが、ここでそんなものを取り出す理由は? エルディチカは当惑する。
「ふむ。私をここで消すつもりか、司祭」
「ここならば誰にも気づかれまい。エルディチカが来たのは想定外だったが……来てしまった以上は生かしておけんな?」
「え——アーナック、司祭?」
「仕方がないじゃないか。それに、道を踏み外したのはお前の方だ。よりにもよってこのような悪漢に色目を使うとは! 知っているのか? いいや知らんだろうなぁ、エルディチカ! このレツェリ司教はなぁ……自分の親を殺したのだよ! それも信心深きご両親を!!」
「親を?」
嫌悪と怒りに満ちたアーナックの鋭い目がレツェリをにらみつける。アーナックは本心からレツェリに義憤めいた感情を燃やしていた。
「とんと身に覚えがないなァ。なんの根拠があってそんなことを抜かすのだ?」
「ええい、白々しい……! 理由など知るか! だが、あの信心深いふたりが恨みなど買うはずもない。そして夫妻の死後、お前は一気に頭角を現した! お前が消したのだ、なんらかの理由で邪魔になると考えて……!」
「ハハ。言いがかりのレベルだな、司祭。もう少し客観的な証拠を集めてきたまえ」
「証拠など要らぬわ! このアーナックの勘が、神への忠誠が、リトリア夫人とレアヴァル夫君の仇を取れと叫んでおるのだ!」
「これは滑稽だ。神への忠誠? 貴様が従うのは神などではなく、自らの醜い我欲だろう。私腹を肥やすのにご大層な大義名分を飾るのはやめることだ」
「なにを……ッ!」
アーナックの非難を悠々と受け流し、レツェリはおもむろに自らの面へと片手を伸ばす。
正確には、その面を覆い隠す白布へ。そして——
しなやかな手つきで、その布を自ら剥ぎ取った。
「案ずるな、アーナック。理由が気になるのなら当人に訊いてみればよい。冥土でふたりが話し相手を待ちわびているだろうとも」
張り詰めた緊張の糸が、今、限界を迎える。
現れた面貌を見てアーナックが表情を硬くする。常に顔を隠す司教。聖堂の噂好きは醜い傷を隠すためだと囁き合い、また別の者は反対に美しい顔で協会内の風紀を乱さぬためだと面白半分に嘯いた。
どちらも正確ではない。真相を目の当たりにしたアーナックは、一瞬の間だけ硬直したが、すぐに唇を歪めて笑みを形作る。
その猶予のうちに、レツェリがアーナックの命脈を断てたことは言うまでもない。だがそうはしなかった。
「その赤い眼……眼球のギフトとは珍しい。それに、年齢が若すぎる。亡くなった夫妻の歳からして、お前は低く見積もっても四十は超えている。だがその顔立ちはどう見ても二十代といったところだ……」
エルディチカもまた、斜め後ろからではあったが、レツェリの横顔を見て呆けたように口を開けていた。
赤く輝く左眼。そして、司教の座に就くにしては若すぎる顔。
そもそも聖堂にいた期間から考えても辻褄が合わない。見た目だけならエルディチカと同年代だが、そのエルディチカが生まれる前にはもう、レツェリは聖堂内に身を置いていたはずなのだ。
「……老化を抑制するギフト。く、ふふ、はははっ! なるほど羨ましい能力だなぁ、こちとら足腰にガタの来る頃合いの歳だ。だがなぁ、稀有な天恵ではあるのだろうが、そんな力は戦闘にはなんの役にも立ちはすまい!」
勝ち誇ったようにアーナックは笑う。
レツェリの見た目の矛盾を解消できるものは、天恵の持つ能力を置いてほかにはない。よってアーナックが、レツェリの天恵、赤い眼球の力を『老化の抑制』と推理するのは至極妥当だった。
そして、ならば、戦闘においては無力。
眼球の天恵などほかに類を見ないほどに稀ではあるが、それは稀なだけで、剣やナイフといったありがちな武具のギフトと違い、殺傷力を持てる形ではない。能力まで戦闘向きではないとくれば、アーナックが警戒を解くのも当然だった。
しかしながら。世には例外が存在する。
そう、どんなものにも例外がある。人にも、組織にも、規律にも——天恵にも。
その赫赤たる眼球こそ、百年に一度の奇跡。
地の底にて不死を謳う男に舞い降りた、万物を停滞させるレアリティ1。
「では試すといい。貴様の、そのご自慢の天恵で」
「言われずともォ! 死ぬ間際にも余裕ぶった態度を崩さぬにいられるか、この目で確かめてくれるわ!!」
アーナックの掲げた短剣が淡く光を放つ。すると、教会内の壁や床がぽろぽろと剥がれ落ち、刀身の周囲に集まっていく。
大小さまざまな石造りの建材が、独りでに浮かび——
アーナックが剣を振り下ろすと同時に、散弾のごとく一斉に射出された。
「——ッ!」
レツェリは一目散にその場から飛び退き、礼拝堂に並べられた長椅子の裏へと退避する。
直後、ベキベキと背もたれの木材がへし折れる音とともに、レツェリのすぐそばを即席の弾丸がいくつも飛び交っていく。
「ひ——わ、わひゃあ……!」
驚いたのはエルディチカだ。眼前を過ぎた殺傷力の塊に腰を抜かし、床にぺたんとお尻をつく。
「フン、拍子抜けだな。力押ししか能のない、つまらん天恵だ」
「減らず口を……! あの世で夫妻に告げる詫びでも考えておけ!!」
「それが必要なのは貴様の方だろうよ。せいぜい謝れ、『大層頑張りましたが仇は取れませんでした』、とな。ククッ、頭くらいは撫でて慰めてもらえるやもしれんぞ?」
「言うにこと欠いて、お前……お前はぁ! どこまで外道なのだ! あのように人の良い両親を殺し、あまつさえ愚弄するなど!! 許さんぞレツェリぃ!!」
アーナックは怒り狂ったように、ギフトの能力を強め、さらに礼拝堂の壁、床、柱を虫食いにしていく。そうして建物から拝借した建材を発射し、レツェリがどこかに隠れているであろう長椅子をひとつひとつ粉砕する。